ゆず餡のどら焼き

「いらっしゃいませ、木崎さん」
 ――からんっ、とドアベルが鳴って、大柄の男性が入店する。月子の出迎えに「どうも」と見た目に違わぬ低い声で返すのは木崎レイジだ。
 木崎はボーダーに所属する戦闘員で、迅と同じ玉狛支部に配属されているらしい。一年前の初夏、迅とはじめて会った翌日に、世話になったと挨拶をしにきてくれたときからの顔見知りである。
「お久しぶりですね」
 大柄な身体つきはやや圧迫感があったが、視線の鋭さは父ほどではない。わざわざ菓子折りを持参してきた丁寧さも相待って、月子はすぐに彼と打ち解けた。菓子折り持参の挨拶に驚きはしたものの、当時の迅が高校生だったことを思えば慎重な対応も頷ける。その木崎も未成年だったらしいが。後から訊いたところによると、玉狛支部の支部長が『俺が行っちゃったら大ごとみたいになるだろ』と判断してのことらしい。
 木崎は他の隊員たちと同じく大人びていて、何より落ち着いている。迅が木崎のことをかなり信頼していることは話を訊いているだけで伝わってきた。木崎と話していても、保護者役を自認していることが窺えた。本当のところはともかく、月子から見た木崎は迅の兄のような立ち位置だ。
「ご無沙汰しています」
 言いつつ、木崎がカフェ・ユーリカの特等席に座った。夕方の店内には二人しかいない。今日も迅は来なかった――そう思ったことに自分でもよくわからない笑みを浮かべながら、月子は木崎のためにお冷を注いだ。
 あまり本部のほうへ行かないのか、木崎の来店頻度は高くない。しかし、自分でも凝った料理をするという木崎の意見は参考になるので、たまの来店を楽しみにしていた。男性的な視点は月子には欠けているので助かる。
「珈琲でよろしかったですか?」
「はい」
  以前に色々飲んでみたいと言っていたので、木崎に出す珈琲は毎回変えていた。十二月に入り、焙煎所の冬季限定ブレンドを卸してもらえるようになったから、今日はそれを出せばいいだろう。
「あ、木崎さんはゆず餡って食べられます?」
「嫌いなものは特には」
 軽く首を傾けて答えたあと、「ゆず餡?」と木崎が月子を見やる。「白餡に柚子を混ぜ込んだものですよ」と説明してから、視線で投げられた問いに「近所の方から柚子をいただいて」と経緯を語る。
「今年は豊作だったらしく、たくさんあるからとお裾分けをいただいたんです。でも柚子って、消費する方法が限られているでしょう?」
「ああ、確かに。香りづけ、飾り……あとは風呂ぐらいしか思いつかないな」
「私もです。それで、そのお宅ではほとんどをジャムにしているそうで。そのまま使ったり、ゆず茶にしたり――」
「白餡に混ぜてゆず餡を作ったり?」
 ちらりと向けた視線を汲んで木崎が続ける。月子は大きく頷いた。さすが話が早い。
「そう、そういうわけなんです。いいなぁと思ったので、お店は関係なく自分でも作ってみまして。ただ、餡を炊くのも、ある程度量があったほうが都合がよくて……」
 みなまで言わずとも木崎にはわかっているらしい。「いただいてもいいんですか」と訊ねてくれたので「もちろん。お代も結構ですので」と返した。作りすぎたぶんは冷凍してもいいのだが、やはり美味しいものは誰かと共有したい。
「ゆず餡はどう食べるんですか?」
「いくつか試したんですけれど、いちばんのおすすめはどら焼きです」
 冷蔵庫から珈琲豆を取り出すついでに、ボウルに入った液状の生地を取り出す。ゆず餡をいれた琺瑯の容器も。今日のまかないおやつとして用意し、木崎の来店前に作って食べたあまりだ。
「焼きたて生地で挟んで食べるのもなかなか美味しいですよ。しっかり馴染ませるのが普通ですが」
 珈琲豆を入れた電動ミルのスイッチを押し、それからコンロの上にフライパンと水の入ったケトルを置いた。フライパンはもちろんどら焼きの生地を焼く用だ。コンロのスイッチをいれつつ、布巾を濡らして水気を軽く絞り、作業台の上に広げた。それを、木崎は黙したまま見つめている。
 木崎は口数がそう多くはない。沈黙には慣れているし、カフェ・ユーリカを漂う静けさは決して不愉快なものではないのだが、今はなんだか落ち着かなかった。言葉が浮かぶのに任せて口を開く。空白を埋めたかったのか、それとも訊ける空白を探していたのかはわからない。
「……迅くんは元気ですか?」
 木崎は驚いたようにすこしだけ目を開いた。しかし感情の揺らぎはすぐにどこかへ消して「元気です」と答えてくれる。
 ひとまず何事もないらしいことに安堵しつつ、湧き上がるのは一抹のさみしさだ。それでは、どうして彼は来てくれないのだろう。
「そうなんですね……十二月に入ってからまだ顔を見ていなくて」
 いつもの頻度を思えば、そろそろ訪れてもいい頃だった。きっと忙しいのだろう。頭ではわかっている。迅もそう言っていたし、今までが来すぎだったといえばそうなのだけれど。
「あいつもやることが多いですから」
 落ち着いた返答が有り難かった。そうですよね、と纏わりつく薄青の感傷を振り払う。
 じゅうぶんに熱せられたフライパンを持ち上げた。濡れ布巾の上に置けば、ジュッと蒸気がうまれる。ほんの数秒だけあてて、弱火のコンロに戻す。おたまで半分くらい、ボウルから生地をすくって、とろとろとフライパンのうえに落としていく。どら焼きの生地はホットケーキとカステラの中間といった感じだ。
「お元気ならよかったです。顔を見ないと、すこし心配になるものですね」
 お湯の沸いたケトルの火を止め、まずはカップを温める。ミルからドリッパーへ珈琲豆を移した。指先にふれる粉は霜柱の降りた枯れ草のようだ。手早く均してからドリップを始める。お湯を吸った粉がふくらみ、呼吸するように蒸気が抜ける。手元に視線を落としつつも、横目でフライパンの様子も確認していた。はちみつ入りの生地なので少々焦げやすい。
「迅はご迷惑をおかけしていませんか」
 木崎の声が静かに響いた。ちょうどお湯を注ぎ終えたときで、見計らってくれたことが察せられる。
「そんなことはありません」
 ケトルをコンロのうえに戻しながら答える。柔らかな声で、木崎の心配を否定する。それからドリッパーを外して、シンクにそっと置く。
「ないんです。……ほんとうに」
 迷惑だなんて、そんなこと一度としてなかった。迅と過ごす時間は、いつだって穏やかで優しくて、居心地がよいものだ。
 囁きながらも手はフライ返しをとって、ふつふつと気泡が現れ始めた生地の焼き具合を確認し始める。あまい匂いがやわら立ち上りはじめるぐらいで、焼き色はもうあと一息だ。
 カップを温めていたお湯を捨てて、布巾で拭ってから珈琲で満たす。インドネシアが産地であるトラジャを中心に置いたブレンドで、コクが深い。柚子の風味も映える味わいだ。
「むしろ私のほうが迷惑をかけているくらいで」
「それはない、と思いますよ」
 あ、いま、敬語が崩れかけた。耳聡く気付いたけれど、口調が砕けたのは月子のためではなく迅のせいなのだろう。お手拭きと一緒に珈琲を木崎の前におけば、「どうも」と短い言葉が返される。
「いえ、けっこう、迷惑はかけているんです」
「迷惑をかけられるぐらいが性に合ってるやつですから、気にしなくていいかと」
「そういうわけにも。でも……迅くんって、面倒見がいいじゃないですか。だからつい……色々と頼ってしまって。本人にそのつもりはなさそうですけれど」
 フライ返しで生地を軽く持ち上げて覗いてみる。いい具合だった。きつね色に焼きあがった生地をぱふっとひっくり返す。もう一枚も同じように返した。上から押さえつけたくなるのはぐっと我慢する。
「あいつが面倒を見るのは、あいつがそうしたいときだけですよ」
 木崎が静かに言う。
「色々な思惑が絡んでいるときもありますが――頼られるとやる気になるやつです」
 そんなに単純かなあ、と思うのだけれど、木崎は断言する。彼が小さく「特に好きな相手からだと」と呟いたのは、月子には聞こえなかった。それでも何か言ったことだけはわかったので、視線で問う。木崎はふっとかすかな笑みを浮かべて「そういえば」と話を変えた。
「面倒見がいいと言えば、諏訪もここに来ていたと訊きました」
「ええ。実は迅くんよりも長い常連さんで……諏訪さんも驚いてましたよ。木崎さんとは同い年だとか。あと風間さんも……仲が良いんですね」
「まあ……もう一人、エンジニアにも同い年がいて、四人でよくつるんでいるので」
 やはり横の繋がりが強いのだなぁと思いつつ、ゆず餡をスプーンでほぐす。冷やしていたからか香りはそれほど強くない。餡はまだしっとりと滑らかで、合間に覗く柚子のジャムが艶めく。
「寺島さんという方ですか? このあいだ、諏訪さんが仰っていたのですが」
「そいつです。あいつはほぼ本部に住んでいるようなものなので、ここにはあまり来そうにないですが」
「お忙しい方なんですね。いつかお会いしてみたいものです」
「寺島は出不精で……すみません」
「どうして木崎さんが謝るんですか」
 笑いながらフライ返しを手に取った。焼きあがったどら焼きはケーキクーラーの上に並べて粗熱をとる。スプーンでゆず餡をすくって、ぱふりとどら焼きの上にのせる。生地を重ねてほんのひと押しだけ馴染ませる。
 焼き色の映える素焼きの小皿に盛り付ければ完成だ。手早く簡単にできるのもどら焼きのいいところである。
「――お待たせいたしました、〝ご近所さんの柚子をつかったゆず餡のどら焼き〟です。どうかご賞味くださいませ」
「いただきます」
 お手拭きで指先を拭った木崎がどら焼きへと手を伸ばした。まだほのかに湯気の立つ生地に触れ、けれど分厚い皮膚は熱さをものともしないようだ。指が重さのぶんだけ、どら焼きがふんわりと沈んだ。持ち上げたそれを口に運んで、大きく一口かじりとる。
「ん、」
 と、口の端についた生地の欠片を指で取りつつ、かすかな音がもれる。驚きの感情が滲む音に心の中でガッツポーズをした。頬が緩むのが自分でもわかる。
 ほわほわのどら焼き生地に、餡は熱が移ったせいでほっくりと、しかし真ん中は滑らかにまったりとしている。そして柚子の風味のおかげで甘さが後に残らない。
「どうでしょう」
「美味しい、ですね」
 してやったりな気持ちが混ざったいたずらめいた笑みが止まらない。二口目をかじり、それも飲み込んだ木崎は珈琲に手を伸ばし、ひとごこちついたように吐息を漏らした。
「柚子がいい、餡の甘味が抑えられていて、その分生地のうまさもわかりますね。奥深い味がします」
「ありがとうございます。正統派どら焼きも好きですが、たまには変り種も楽しいでしょう?」
「はい。……生地の感じが鹿のやに近いですね」
 悩むように瞳が細まる。視線はじっと生地に注がれていた。
「わ、流石ですね。鹿のやのどら焼き、祖父や祖父の友人がよくお土産にくれたので食べ慣れていまして。材料表記を参考に、近い食感になるようにしてみました。ちょっとこだわったので嬉しいです」
「鹿のやはうちのも気に入っていてよく買ってくるので……。強いて言えばもう少し生地に軽さがあってもいいかもしれません。……いや、ゆず餡が軽めの味わいなので、このバランスがいいとも思いますが」
 ふむ、とどら焼きを見つめる木崎は真剣な様子だ。大きな手の中にあるどら焼きはいくらか小さく見えて、なんだか熊が木の実でも抱えているようで、かわいらしい。それでいて指摘は的確なのだから、人は見かけによらないなと思う。
「そうなんですよね。バランスをとる、というのは何にしても難しくて悩みます」
 言いながら、余った生地をおたまで軽く混ぜる。軽くするなら、もう少し牛乳を増やしてみるか……生地も餡もまだあるから、もう何個か作れそうだ。
「……生地、余っているならもう少し作ってもらってもいいですか? 無理にとは言いません」
「お安い御用ですよ。お持ち帰りになりますか?」
 気に入ってもらえたなら嬉しいことだ。生地もゆず餡もまだまだあるし、生地は作り足したっていい。誰かにおいしく食べてもらえるなら、それがいちばんだ。
「はい。寺島と迅に差し入れしようかと」
 心臓がちいさく跳ねて揺れた。迅の名前が出たのは、先ほどの会話があったせいだろうか。自分はそんなにも、彼に会いたいように見えたのだろうか。じわりじわりと熱がのぼってくる。カツカツと、おたまがボウルにぶつかる音がした。
「……そういうことなら、珈琲も淹れましょうか」
 ひとつ深く息を吸ってから、そう提案した。木崎は意図を汲みきれていないのか、少しだけ首を傾ける。
「タンブラーにいれますから、一緒に差し入れていただければと思いまして。嵩張ってしまいますけれど」
「喜ぶと思いますが……、いいんですか?」
「はい。タンブラーを返しに来ていただく手間が増えてしまいますが、それでもよろしければ。私からはボーダーの方へ配達できないので……」
 本部の周辺は隊員以外は立ち入り禁止だ。地域の窓口として設置されている支部を訪ねることは可能だが、頼まれてもいないのに届けに行くのは迷惑な行為である。いや、今、頼まれてもいないのに淹れようとしている真っ最中だけど。常連さんから頼まれたときには配達するし、容れ物を持って来たときには持ち帰り用に入れることもあるが、月子のほうから言い出すのは初めてだった。
「寺島さんという方は、エンジニアとして街を守ってくれているのでしょう。そんな方に私が何かできるのなら、嬉しいことです」
 自分で言いながらもすこし薄っぺらく聞こえた。月子が珈琲を飲んで欲しいと思って顔を思い浮かべたのはただ一人――迅だ。
 言葉にしたことだって嘘ではないけれど、方便には違いない。顔も知らないままだしに使ってしまった『寺島さん』には申し訳なさが募るが、とびきり美味しく淹れられるように頑張るから、と釈明を心のなかでそっと紡いだ。
「……では、お願いします。コーヒーの分は払うので」
「ありがとうございます。タンブラー、取ってきますので少々お待ちくださいね」
 ボウルにラップをかけて、ゆず餡にも蓋を被せて、しずしずとパントリーへ向かう。身体を扉の向こう側へと滑りこませた途端、歩みは早まった。階段を一段飛ばしで上ったのは、もしかしたらばれているのかもしれなかった。


《どら焼きとコーヒー、おいしかったよ。ありがとう、月子さん》
 どら焼きのお礼として届いたメッセージを読み返す。ほんのすこし、いや大分、迅が貸し出したタンブラーと感想を持って来店してくれるのでは、と期待していたことは否定しない。
 クローズの作業も終えた店内は静かで、月子のいるカウンターだけが明るい。蒼みがかった瞳がそうっと細まって、白く光る画面を見つめていた。
 水仕事に冷えた指で返事をつくる。《お口にあってよかったです。木崎さんに、内緒にしていた隠し味はローズマリーの蜂蜜ですとお伝えください。》それから《タンブラーを返すのはいつでもよいので》これだけだと素っ気ない感じがあるから、にこりと笑う顔文字を。祖父がたまに書き添える、外国式の縦の顔文字だ。
 《またいらしてくださいね》打ち込んで、数秒見つめてから消した。
 《冷え込む季節ですから、体調には気をつけてくださいね》それだけ打ち込んだら、迷わないうちに送信してしまう。
 ふと顔をあげると、外は雨が降り出していた。ぴゅうぴゅうと風の音が聴こえて、天気予報ではひどい風雨になると言っていただろうか。霰か雹になるかも、と言われていたことも思い出す。
 嵐はあまり嬉しくないが、嵐が晴れたあとの街は好きだった。すべて洗い流されているようで、新しいなにかが転がっている。花が散るのは悲しいけれど、冬には散る花もなく、ただ凛とした空気が満ちる。だから――早く、晴れればいいなと思った。


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