ジンジャーチャイティー

「十二月になると、いよいよ寒いと感じるのはどうしてかしらね」
 加古望のつぶやきに、月子は生姜をすりおろす手をとめた。朝に確認した気象情報を思い出す。天気図はどのように動いていただろう。加古の隣に座った男性が口を開いた。
「先週と比べても二、三度の違いなのにね」
 短い髪と細められた瞳、穏やかな声にその性格が滲んでいる彼は、今日が初めての来店だ。加古に連れられてやってきた、名前は堤大地というらしい。名は体を表すというが、広い肩幅としっかりとした体格といい、傍にいるだけで安心感のある男性だった。加古とは同い年でボーダーに所属しているのだと紹介を受けた。
「樹木の葉が落ちるからでしょうか。寒々しい感じは」
 店先に植えられたクチナシの低木は常緑樹で、壁を這うテイカカズラも冬は葉が赤く色づくものの落葉はしない。けれど街を歩けば、桜や銀杏の樹木のむき出しの幹が自然と視界に入る。樹皮の褪せた色が、冬の薄ぼんやりとした青に伸びる図はどこか物悲しさがあった。
 堤が「なるほど、そうですね」と頷いた。柔らかな笑みが浮かび、ふたりの会話に入った月子にも好意的な視線を向けてくれる。初対面ではあるが『加古ちゃんからいつもお話を伺っています』と朗らかに自己紹介されたとき、親しく付き合っていけるという予感があった。だからこそ加古も堤を連れてきたのだろう。
「あとは、やっぱり十二月っていうのがよくないと思うの。冬、って感じがすごいじゃない」
 どうやら加古が言いたかったのはそういうことらしい。
「響きがね」
 とは堤である。月子も「いよいよ冬だ、っていう感じですね」と同意を示した。言われてみればその感覚はある。カレンダーをめくるときも、十二月という字面に一年の終わりと冬の始まりを強く意識するのだ。
「でしょう。分厚いコートもロングブーツも、十二月に入ったら解禁、みたいなところあるじゃない。それまでとそんなに気温が変わらなくても」
 今日、加古が着てきたのは厚手のチェスターコートだ。赤みがかったブラウンに細やかなチェック柄がすらりとした体型を引き立てて、扉の前に立つ姿はさながら女優のようだった。今は空いている椅子の背もたれにかけてある。堤のほうも来店したときはチャコールグレーのコートを着ていた。
「確かに、十二月に入るとお客さまも着込んでいる方が多いですね。四月になると一気にパステルカラーのふんわりとしたお洋服が増えますし、暦にしばられるというんでしょうか、そんな感じがあります」
 店を訪れる人の服装から季節を感じるのはカフェのマスターとなってからの日常だ。
 迅は、季節関係なく青い上着を着ていることが多いけれど。ボーダーの制服みたいなもの、ということだから仕方ないのかもしれない。寒く、あるいは暑くないのだろうかとよく思うが、本人によると大丈夫らしい。ただ、いつも同じ格好のせいかたまに見る私服はなんだかすこし輝いて見えるのだった。
「月子さんはお店に立っている間はそんなに変化がないわよね」
「空調が効いていますからね。セーターを着るときもありますが、しっかり袖があがるものじゃないと」
 シャツの袖はきっちりと折り畳んである。洗い物や調理には邪魔なときが多いからだ。晒した手首を見せるように持ち上げる。それから、すっかりとまったままだった生姜のすりおろしを再開した。
 受けた注文はジンジャーチャイティーをふたつ。チャイに生姜を加えたもので、祖父の代から冬場にのみ提供している。季節の定番、といった立ち位置だ。考えてみればこれも十二月を境にメニューに載るので、加古のいうことは正鵠を射ているのかもしれない。
 コンロに置いた小鍋の中では、水とシナモンスティック、それから秘伝配合のスパイスが弱火にかけられてくつくつと風味を滲ませている。ぐらぐらとお湯が沸いたら茶葉をいれて蒸らして、すりおろし生姜はそのあとにいれるのでまだ焦らなくてもいい。
「でも女の子の服は冬服も華やかでいいよね。男なんて黒と紺色、灰色ばっかだよ。あとはせいぜいカーキとかブラウンで。羨ましい」
「あら、そんなふうに思っていたの?」
「うん。着たいとかじゃないけど、見てるぶんには女の子の服のほうが楽しいね」
「そのわりにかわいい服を着ててもノーコメントじゃない」
「いやだってそれは、照れ臭い、し……」
 堤がはにかんだように笑ってから「二人とも華やかな色が似合いますし」と言い添える。月子にまで言ってくれたのには驚きつつ、「ありがとうございます」とこちらも面映くなりながら返した。加古のほうは「かわいいじゃないのね」とからかうようににっこりと笑う。堤はそれは勘弁してください、と言いたげに苦笑した。かわいいと告げるのはどうやらハードルが高いらしい。
 月子にとって、そういうことをさらりと熟す人といえば唐沢だ。昔は子ども扱いされていたのか褒め言葉は常に『かわいいね』だったが、いつからか語彙が凝らされるようになった。おそらくは月子が呼び方を『唐沢さん』に改めた頃から。しかしどちらにしろ観察眼が鋭いことには変わりなく、前髪をわずかに切ったときも、爪の手入れを頑張ったときも、唐沢はたいてい気づく。
 小鍋の中でお湯が沸いたので、火を止めてふたりぶんの茶葉をいれる。蓋をしてからタイマーのスイッチを押した。並行作業が多いので砂時計だと見過ごしてしまう。
 まだからかっている加古、それを穏やかに受け止める堤を見ていると自然に笑みが浮かんだ。自分と東、それから響子もこういうふうに見えているのかもしれないなと思いながら、すりおろしきれない生姜のひとかけらを包丁で刻む。
「なぁに、月子さん。にこにこ笑って」
 小首を傾げた加古に問われて、月子はさらに頰が緩むのを自覚しながら「なんでもないんですよ」と答える。「そう?」と、どうやら加古は逃してくれないらしい。
「その、望ちゃんも他のボーダーの隊員の方々も、すごく大人っぽい方が多いですけれど、こうして同い年でお話ししているのを見ると和むといいますか」
 会話しつつも、空いているコンロでお湯を沸かし始める。マグカップを温める用の湯だ。冬場は寒いので、茶器もしっかりとあたためて提供したい。
「年相応にみえる?」
「そんなところです」
 思い返せば、諏訪も風間と来店したときはいつもよりずっと砕けた態度で、それでいて面倒見の良さが滲んでいて新鮮だった。思い出し笑いも交えつつ頷けば、加古が苦笑する。
「そんなにはしゃいでるかしら?」
「いや、加古ちゃんはいつもこんな感じだよ。他の人にも」
「いつもはしゃいでるみたいじゃない」
「いつも楽しそう、ってことで……」
 再び加古が反応をからかうように言葉を紡いで、堤はそれに柔和に答える。二人と同い年のはずの太刀川と二宮も、こんなふうに気安い距離で話していた。もう一人、『くるまくん』という男の子が同い年でよく一緒にいると訊いている。東だって同い年の響子や自分に対してはわりと遠慮がない物言いをするし、同い年というのはおそらくそういうものなのだ。
 ボーダーは同期入隊であっても年齢が違うことが多いらしい。先輩が年下、後輩が年上なんてことが当たり前にあって、だからこそ入隊時期ではなく年齢による区分のほうが気安く、繋がりも強くなるのだろう。ほとんどが中学生、高校生のときに入隊しているのも関係しているのかもしれない。大学や企業だと年齢ではなく学年や同期の繋がりが強いので対照的だった。
「同い年の気安さみたいなものが伺えて、それが私からするとなんだか可愛らしいんですよ。たぶん、東くんもそんなふうに思っていると思います」
 迅は同い年の子とどんなふうに話すのだろうか。ふと考えて、けれど彼が来店するのは決まって他に誰もいないときなので、まったく想像できない。生駒とはお互いに話題に出すぐらいだから仲がいいのだろうが、並んでいるところは見たことがないのだ。月見とも、仲が悪いわけではないにしろそれほど交流が深くはなさそうである。太刀川とは親しげではあったが、一応敬語を使っていた。
「気安いって言ったら、加古ちゃんは二宮がいちばん気安いんじゃない? 同い年で同期入隊で、同じ部隊だったこともあるわけだし」
「気安いっていうか、わざと気安くしてるの。雑に扱うくらいがちょうどいいのよ」
 ひどい言われようだった。既視感を覚えたが、おそらくは太刀川を雑に扱う二宮の姿と重なって見えたのだろう。
 視界の端にとらえたタイマーの残り時間が十秒を切っているのを見て、鳴り出す前に止める。蓋を開いて、生姜と牛乳、さらに蜂蜜を加えて弱火にする。チャイはスパイスの風味で味が尖るので、甘みも加えて飲みやすくしている。頼まれればスパイスだけでもつくるが、いつもチャイを頼む加古はもちろん、初めての堤にも確認済みだ。
「望ちゃんと堤さんは同期ではないんですね」
「そうですね、オレのほうがちょっと後輩です」
「ほんとうにちょっとよ。太刀川くんはすこぉし先輩」
「いやぁ、太刀川はだいぶ先輩じゃない?」
「いいのよ、今の子たちから見たらそう変わらないんだから」
「そりゃあ若い子から見たらね」
 ケトルのなかのお湯はまだ沸騰していなかったが、ちいさな穴から漏れる蒸気からしてじゅうぶんに熱くなっている。並べたマグカップに注ぐと湯気がたった。
 牛乳に膜が張るまえにジンジャーチャイティーの小鍋を火からおろした。マグカップのお湯はシンクに捨てて、水滴を布で拭き取る。茶こしをあてながら等分になるように満たせば完成だ。
「みなさんが大人びているのは、ボーダーで年下の人たちの面倒を見ているのもあるかもしれませんね」
 月子はそう告げてから、二人の前にそれぞれジンジャーチャイティーを置いた。加古がぱちんと手のひらを合わせてうれしそうに笑う。「一年ぶり!」と、弾んだ声に「お待たせいたしました」と微笑んで告げた。
 加古はいつもチャイティーを飲むが、いちばんはじめに訪れたときに飲んだのはこのジンジャーチャイティーで、それがとてもお気に召したらしい。冬の間は訪れるたびに飲んでいたから、春になってメニューから下げたときは寂しそうだった。それから八ヶ月は待っての今日なのだ。
 いつも曜日限定ケーキがある日に来る加古が、そうではない今日に来たのも、はやくジンジャーチャイティーが飲みたかったからかもしれない。堤とはカフェ・ユーリカに向かおうと大学を出たところで会って、ついでだからと拾って来たらしい。課題かボーダーのことかはわからないが相談があったようだ。
「これが加古ちゃんのお気に入り?」
 言わずもがな、堤がジンジャーチャイティーを注文したのは加古からの推薦があったからである。
「そう。生姜がぴりっとしてて、あったまるの」
「粗くすりおろしてあるので、チャイに成分がよくとけこんでいるんです。底に茶こしを通り抜けたものが沈んでいることも多いので気をつけてくださいね。あと、ちょっと熱いです」
 マグカップにいれて出しているのも持ったときに熱くないようにだ。口がふれる部分も熱くなりすぎないようにしている。ジンジャーチャイティーは牛乳に膜が張らない程度にしか温めていないのだが、外が冷え込むと相対的に熱く感じるし、とろみがついているので冷めにくい。
「さっすが月子さん。これは熱いのがいいのよね」
「猫舌じゃなかった?」
「最初からぬるいのじゃなくて、熱いのを冷ましながら飲むのがいいんじゃない」
「なるほど……」
「火傷しないように吹き冷ましてお飲みくださいね」
 加古と堤がマグカップを持ち上げて、月子の忠告どおり、ふぅ、と息を吹きかける。あわい湯気がゆらいで消えた。
 こくり、と二人は一口飲んで、それからしみじみと吐息を漏らした。寒いときに飲むあたたかいものはゆっくりと沁みるものだ。一口飲めば、独特の風味をもつスパイス、わずかにぴりっとする生姜を感じる。味を支えるのは香り高い紅茶で、濃厚なミルクがまろやかに包む。その深い味わいがチャイティーの醍醐味だ。
「おいしい……」
「でしょう? でも月子さん、スパイスの配合を教えてくれないの」
「秘伝のレシピなので」
 月子がにっこりと笑って応えると、くちびるを尖らせた加古が「残念」と呟く。一年前からお決まりのやりとりだった。
「……炒飯にしようとか思ってないよね?」
 やや青い顔をした堤が言う。炒飯、と月子は首をかしげるけれど、加古は面白そうに「どうかしら」と笑うだけだ。
「そろそろ食べたくなった?」
「い、いや……」
 ぶんぶん、と顔を横に振る堤にますます首をかしげる。もしかすると、おいしくないのだろうか。加古のつくる炒飯は。
「お、大人っぽいって話に戻るけど、オレが入隊したときは、迅くんや小南ちゃんのほうがよっぽど大人っぽく見えてたよ」
「迅くんが、ですか?」
 逃げたな、とは加古だけでなく月子も思うところではあったものの、気になる名前が出てきて思わず食いつく。諏訪や風間もそんなふうなことを言っていた。
「彼、古株だから。私や二宮くん――それから東さんも、入隊が早めで年長者で、大人ぶらなくちゃいけないのはもちろんあったけど。迅くんたちは、そういうのとはまたちょっと違ってたわね」
「オレたちよりずっと……その、熟れてる感じがね。近寄りがたくもあったなぁ」
「そうなんですね」
 やはり月子には想像しがたい姿だ。もちろん、迅が大人びているということは出会った一年前の初夏から思うことではあるものの、近寄りがたさを感じたことはない。しかし、むしろ子どもの頃のほうが、他人との距離を空けてしまうというのは身に覚えがあった。ちょうどこの街に住み始めた頃の月子がそうだった。迅にそういう時代があったとしても不思議ではない。
「最近はちょっとかわいく見えてきてるわよ。かわいくないとこのほうが多いけれど」
「手厳しいですね」
 かわいいと思うのだけどな。そう思いながら厳しい一言に苦笑を浮かべれば、加古が組んだ指先にかたちのいい顎をのせて、それから小首を傾げる。
「あら、それじゃあ月子さんは迅くんのことかわいく見えてるの?」
「それは、ええっと、」
 カアッ、と頰に熱が集ったのがわかった。おや、という顔をしたふたりが自分を見ていることにも気づいて、「いえ」と言葉を繋ぐ。
「ほら、年上ですし、私。みなさんより。年下はやっぱり、無条件で、かわいいですよ?」
 加古と堤が顔を見合わせる。それから月子のほうへ向き直り、加古はにまりと笑って、堤は「わかりますよ」と微笑んでくれた。
「じゃあ東さんは? かわいい?」
「ちょっとふてぶてしいところがありますよね。それに年下じゃないですし、べつにかわいくないです」
「なるほど」
「望ちゃんと堤さんは、かわいらしいなと思っていますよ」
「ありがとう」
 唇をゆるませる笑みはいつもの華々しさがすこし抑えられ、ちょうど蕾の合わせが緩んだときに似ている。堤は横で「どうも」と恐縮そうに頰をかいた。
「ちなみに、太刀川くんは入隊したときからあんな感じだったわ。ふてぶてしい感じで、ぜんぜんかわいくなかったの。二宮くんは……、一周回ってかわいかったわね」
 と、付け足された言葉に苦笑する。数年前の二人のことは全く知らないが、なんだか想像できてしまったのだ。


 かわいいか、と問われると、もちろんかわいい。月子のつくったものを美味しそうに食べてくれるところや、月子の話に付き合って、ときどき冗談も交えてくれるところ。ふっと気の緩んだ笑みも、好ましい。
 でも、最近はちょっと――そう、太刀川が『ずるいな』と告げてきたあの日は。格好いいなと、たぶん、思ったのだ。
 どこか焦ったような、必死な様子も。ずるいですかと訊いた月子に『ずるくてもいいよ』と言ってくれた優しさも。それから。
『月子さんが……好きだよ』
 思い出した言葉に、あのとき灯っていたやさしい熱に、また顔に熱がのぼる。へろへろとしゃがみこんで、つきりと痛む胸元をぎゅっと抑える。私は仕事中に何をしているんだ、と頭の片隅の冷静な部分が叱る。エプロンのポケットにいれたスマートフォンが震えたのはそんなときだ。
《ねこ、みつけた》
 短い文章とともに送られてきたのは塀の上を悠々と歩く茶トラ猫の画像だ。ゆらりと余裕ぶって揺らされる尾の先が見えるような、少々ふてぶてしくも、かわいい猫だった。送り主は迅だ。彼は時々こうしてなんでもない写真を送ってきて、そしてそういう日はたいてい店を訪れない。
 猫の写真を送ってきたのは、以前、月子が好きだと言ったからだろう。猫に限らない動物や花の写真が――月子の好きなものを収めた写真ばかりが送られてくる。
 かわいいな、と、残念だな、がいっしょに胸に満ちた。この写真が送られてきたということはきっと今日は来なくて。かわいいというのは、猫にか、迅に思ったのか――答えはまだ選べなかった。


close
横書き 縦書き