タルト・タタン

 いちだんと寒い夜だった。闇夜には細い三日月だけが浮かび、星の光は街に届く頃にはすっかり弱っている。ひゅるりと細い道を通り抜けていく風は冷たく、わずかな隙間から忍び寄って熱を奪う。
 そんな夜でも――カフェ・ユーリカの店内は、たとえ定休日の空調が入っていないときであっても、どこかほっとする温もりがあった。灯された照明は最小限だ。扉を照らす外灯と、フロアの手前側だけが明るい。夜の闇を裂くには到底足りないが、慣れた場所で動くには不都合がない明るさだった。
 店内には林檎のあまいにおいが満ちている。鍋の中、林檎と砂糖とバターだけでくつくつと煮込まれたフィリングのにおいだ。もうそのほとんどはケーキ型に敷き詰められて、タルト生地を被せられ焼き上げられた。それでもなお香りが残っているのだから、調理中の香りはさらに強かったのだろう。
 作られたのはタルト・タタンだ。食べるときはフィリングが上になるようにひっくり返す。焼きあがったそれは、フィリングと生地がしっとりと馴染むよう、型ごと冷蔵庫で休ませられている。
 タルト・タタンは明日の〝本日のケーキ〟にするのだと、月子は――仰木三月の娘は言っていた。
 ひとりきりの店内で、三月はフロアの隅に置かれたアップライトピアノの前に立っていた。ネクタイだけを外したスーツ姿はおよそ実家でリラックスしている姿ではないが、外気を思えばジャケットを脱ぐこともできない。
 艶やかな蓋をあけると、赤いキーカバーが現れる。やわらかな手触りのそれを畳んで置いて、鍵盤に指をのせた。無骨な指先が白磁の鍵盤をそっと撫でる。指を沈み込ませれば、ぽろん、と澄んだ音が鳴る。指先を浮かせて、隣の音を奏でる。ひとつ低い音が耳に心地よかった。
 弾くひとなどもういないはずなのに、幼い頃と変わらない音がする。だから、定期的に調律されているのだろう。
 この場所は何も変わっていなかった。三月が成人を前に家を出てから。母が儚くなったあのときから。カフェ・ユーリカは、変わっていない。帰るたびに思うそれを、今回も思う。
 三月も、もしかしたら変わっていないのかもしれなかった。小さな頃はどこまでも広がっているように思えた鍵盤は小さく、やけに低い位置にあるが、図体ばかりが大きくなって中身は変わっていないような気もする。
 老いたといえば、老いた。無論のこと。けれど結局、己は何一つ成長していないのではないかとも思うのだ。成人した娘を得るような歳になってなお、そんなことを思ってしまう。胸の奥に、青く苦い棘が深々と刺さっている。
 右手だけを動かして、母が手遊みのように奏でていたメロディをなぞった。父も、それから娘もピアノは弾かないから、今やその旋律を生み出せるのは三月だけだ。デスクワークに慣れきった指の動きは硬いが、まだ奏でることはできる。
 聴かせるべき相手はいなかった。深夜に近い時間であり、月子は二階で寝る準備をはじめたところだ。
 自分がいては気も安まらないかと思って、三月は店へ降りた。昼間だって、月子は定休日でずっと家にいたから、外に出て持ち帰った仕事を片付けていた。タルト・タタンはその間に焼いていたらしい。食事もともにせず、珈琲だけは相伴に預かったが、会話はさしてなかった。三月にとって、娘との時間に会話がないのは当たり前だった。今更何を話せばいいのか、とずっとそう思っている。
 またしばらく娘の顔が見れなくなる。夜が明ける前に出る飛行機のチケットをとったので、そのうちタクシーを呼ぶつもりでいた。すでに支度は整え、カウンターの側にコートとキャリーケースを運んである。
 突然帰ってきた父に月子は戸惑い、緊張していたが――むしろ三月の方こそ緊張していたのかもしれない。思えばこの場所に、父である月久を挟まずにいるのは初めてのことだった。

 やさしい音を聴きながら、別れた妻のことをすこし思い出した。彼女は三月の留守中、月子とともにこの店を訪れることもあったという。それがいつしか、月子はひとりで来店するようになった。そのときには始まっていたのだ。三月の知らないところで、あらゆる想いが解けて、同時に絡まっていた。
 ――からんっ
 耳慣れた音が思考を破る。ちょうど雨上がりに雲の切れ間から陽が差すような、柔らかな訪れだった。
「こんばんは」
 初めて耳にする青年の声は、存外に落ち着いている。訊いていた年齢よりもずっと大人びて、それがかえって彼についての様々な事柄に真実味を持たせた。
 三月はゆっくりと入り口を振り返る。奏でた最後の一音が、名残惜しげにかすかに響いていた。
 柔らかなブラウンの髪は照明の下に立つとより顕著だった。冬場にしては軽装に見える青いアウターと、無防備に晒された首元。肩に飾られたシンボルがその所属を示す。
「迅、悠一君?」
 問いかけながらも、その青年の顔はとっくに知っていたのだった。元部下である唐沢に無理を言って、この機会をセッティングさせた。もちろん、事前に情報も――界境防衛機関ボーダーの機密に触れない程度の些細なプロフィールだけではあるが――提供させたうえで。
「はじめまして。仰木三月さん。これ、唐沢さんから頼まれたものです」
 彼が定休日のカフェ・ユーリカに訪れた理由は、建前上はおつかいだった。届けられるものまではフェイクではないが、別に唐沢が来たって、三月が取りに行ったって良かったものである。
 ピアノを元に戻して、差し出された書類封筒を受け取るべく足を進める。歳のわりに広く見える肩幅は、ボーダーという組織に属する人間として鍛えた結果だろうか。
「おれに話があるんですか?」
 書類封筒に指先がふれるなり、迅が言った。橋を渡すような一枚の封筒で繋がったまま、三月は迅と視線を交わす。ぱきりと音がして、封筒に小さく皺が寄る。
「唐沢君から、何か?」
「いや……勘です」
 へらりと能天気に。けれど一分の隙もなく。迅が笑って、ぱっと封筒を持っていた手を離す。くたりと曲がった封筒を手近なテーブルに滑らせて、そのまま付属する椅子に腰掛けた。
「では心当たりはあるんだろう」
「まあそれなりに」
 顎で対面の椅子を示すと、迅はぎぃ、と椅子を引いて座る。それから三月の顔を、特に目元のあたりを見つめた。
「目の色、似てますね」
 そう告げた青年も、青い瞳をしている。しかし三月の瞳と誰の瞳が似ているかなど、省かれた名前はわかっている。
「母の目が蒼かった。遺伝だ」
「言ってました。祖母譲りだって」
 やりづらい相手だ。そんなことを思った。三月を前にして先に仕掛けてくる度胸も、先を予見する勘の良さも。唐沢だって、十九の頃はもうすこし可愛げがあっただろう。いや、その頃の唐沢のことは、同僚から伝え聞いた程度だが。
「……用というほどの用も、話というほどの話もない」
 三月の言葉を聞いても、迅に戸惑った様子は見受けられなかった。全て心得ていると、そう言わんばかりの余裕がある。
 さて、この青年には何が見えているのだろうか。唐沢が言っていた言葉を思い出す――『迅くん、厄介ですよ。わりと』お手上げ、というようなニュアンスが声から滲んでいた。あの男のことだから、本当にお手上げとは露ほども思っていないだろうが。
「一度、見ておこうと思った。それだけだ」
 声に出してから、胸の内で深く頷いた。見ておこう。そう、思っただけで。手出しも口出しもする気はなかった。そんな権利が自分のどこにあるというのだろうか。
 青年のことを三月に教えたのは月久だ。あの老爺には色々と思うところがあるものの、その目は信用に値する。三月からの連絡に迅悠一という青年を渋々教えた唐沢も、彼を高く評価していた。月子のことも、信用していないわけではない。不憫なほどに聡い娘ならば、自分を害する人間を近づけはしないだろう。
 迅悠一という人間を見定めるにあたって、わざわざ自分の目を使う必要はなかった。ともすれば私意が混じる己の目よりも他人の視点の方がずっと信憑性があった。
 けれど三月はここにいる。月子を好きで――それから月久の見立てによれば月子も好いている男を見るためだけに。
 我ながら不合理で、よくわからない衝動だった。巻き込まれた月子と唐沢、そして目の前の青年にはいい迷惑だっただろう。
「足を運ばせた非礼は詫びよう」
「構いませんよ。心配になるもんでしょう。おれみたいなやつが、側をうろついてたら」
 おれみたいなやつ、という言葉はどれを示しているのだろうか。十九歳の未成年。言い寄る悪い虫。それから――界境防衛機関ボーダーに所属している兵士。それが最も三月の癪に触る部分だった。生きている世界が違うもの同士が並ぼうとすれば、必ずどこかで皺寄せが生じる。そしてそれはたいてい、待つ側が負うのだ。三月が妻と娘に強いたように。
「……心配はしていない。あの子ももう大人だ。自分のことは自分で決めるだろう」
「でも、心配だから見に来たんでしょう」
 とん、と胸の真ん中に刺さる一言だ。青の瞳が三月をじっと見つめている。それを静かに見返しながら、答えに窮した。沈黙は性に合っているが、答えられないということも珍しい。
「……月子は――」
 言おうか、言わまいか。迷った一瞬が分水嶺だった。言い淀んだ僅かな時間に迅の瞳がきんと澄んで、二の句を継ぐ。
「誰も頼らない」
 グラスのなかで氷が滑るように冷ややかに、軽やかに、その声が響いた。
 月が雲に隠れたのだろうか。光が揺らいだように瞬いて、迅の紡いだ声は静かな店内に木霊するようだった。いや、ただ頭の中で反響しているだけかもしれない。三月が声と為すか迷ったものを、そっくりそのまま言い当てられた。ああ成る程、こういうところが『厄介』なのかと元部下の声が蘇る。青年は言い当てたことに喜ぶでもなく、ただ当然という顔をしている。
 三月は、ゆっくりと頷いた。それに迅のほうが驚いたように目を瞬かせる。
 手出しも口出しもする気はなかった。邪魔も援助も。だが、月久が目の前の男を認めた、孫に言い寄る男を見過ごした理由がわかった。
 ――この男は、月子が隠しているものを見つけることができる。三月が隠そうとした言葉を言い当てたように、自分たちがかつて取り返しがつかなくなるまでできなかったことを、そうなる前にできる可能性がある。
「あの子は、自分の胸の内に仕舞えるものは仕舞う。そうしてやり過ごそうとする。どれだけ追い詰められても、誰かに助けを求めたことは殆どない」
 母とふたりでカフェ・ユーリカを訪れていたはずの月子が、いつからかひとりでやってくるようになった。月子はあっという間に常連客に可愛がられるようなり、ますます足繁く通った。それでも、暗くなる前には聞き分けよく家に帰っていたので、月久は疑問もなく受け入れていたそうだ。
 来店する頻度が増えて、滞在時間が長くなった。その理由。月子は逃げてきたのだ。だれもいない自分の家ではなく、だれも自分を見てくれない場所ではなく。カフェ・ユーリカにこそ、自分の居場所を見出して。
 人の機微に敏いはずの月久が長らくその意味に気づけなかったのは仕方のないことだった。三月はつまらない意地から月久への連絡は必要最低限にしていて、だから、月久はどれだけ妻子が放っておかれているのかということも知らなかった。
 そして何よりも、月子はそこまで追い詰められていたのだ。僅かな違和も見逃さない月久の目さえ欺くほど。慎重に、厳重に隠してしまえるほど。幼い娘は追い詰められていた。
 誰よりも早く妻の不実に気づいていた娘は、けれど言わないことを選んだ。
 襲いくるさみしさをいくらでも訴えられたはずなのに、自分が我慢することを選んだ。だれも、傷つけないために。父も、母も、祖父も。言ってしまったらいよいよ壊れると、失われるものがあると、そうわかっていたから――ちいさな胸に全て仕舞い込もうとした。
 不憫なほどに聡く、そうであるにはあまりにも優柔だった。笑い飛ばすことも鬱屈をぶつけることもできなかった月子は、ただ少しずつ、少しずつ、磨耗していった。
 たすけて、と。
 もしもその一言を言ってくれたなら。いよいよどうしようもなくなった頃、月久に核心を問われたそのときにも黙って頷くだけだった娘が、もっと早く父である三月に、他の誰かにでも、頼ってくれていたなら――あの子は、あんなに傷付かずに済んだかもしれない。
 けれど現実として、月子に助けを呼べなくしたのは三月だ。三月が、彼女たちを追い詰めた。自分の仕事を優先させて、妻の心情を慮らず、生まれた軋轢で実の娘をなぶった。
「……私たちは褒められた親ではなかったから、あの子は早くに自立するほかなかった。だから――今更私が心配したとしてもあの子にとっては不要だ」
 今更。もう何もかもが終わったことで、今更のことなのだ。仰木三月は、仰木月子に何も言うことはできない。彼女はもう、ひとりで大人になって、罪滅ぼしのような庇護を必要としていない。
「お父さんに心配されていることを、月子さんは喜ぶと思うけれど」
 青年が軽い調子で言った。
「まだ心配されるなんて不甲斐ない、とも、思うだろうけど、あの人は。でも、お父さんのことが好きだから」
 へらりと軽薄そうな笑みは、かえってそれがただ一つの真実だと主張するようだった。気負いがない言葉には、三月を慰めようだとか場を取りなそうだとか、そういう思惑を一切感じない。
「……君の方がよほど、あの子のことを知っているようだ」
「……いま、お父さんって呼ぶなとか、言われるかなって思ったんですけど」
「ああ、そういうやりとりも、定番か」
「たぶん」
 今まで一度も、誰かとそんなやりとりをしたことはなかった。月子は恋愛ごとを避けている、そのことは月久を通して知っていた。その原因が自分たちにあることも。
 おそらく娘は――恋愛というものに失望している。それによって傷付けられた子どもがそう思うことを誰が責められるだろう。そしてそんなものがなくたって幸せだという顔をする娘に、全く何も思わないわけではない。けれど三月が愛を説くなんて、それこそ笑い草で。だから、彼女の選択を見守ることしか、できない。
 まあ――『それ』と『これ』は、別の話だが。
「……では言うが」
 きん、と澄んだ青の瞳が何かを捉えた。迅の頰がひきつる。
「私は君が気に入らない」
 年齢も職業もそもそも娘に言い寄る存在というだけで――気に食わない。何もかも度外視して、このうえなく簡潔に、そう思う。どれだけ有能かということを知っていても、不思議と粗探しはいくらでもできた。生まれて初めて父親らしいことをしているのかもしれない。
 迅は覚悟を整えていたのか、鋭い一言もきちんと受け流して、衝撃は少ないようである。
「だが、口出しをする気もない。次の時間に防衛任務が入っていることは唐沢君から聞いている。手間を取らせた。帰りなさい」
 畳み掛けるように淡々と告げると、虚をつかれたような顔をほんの数秒だけ見せて、「どうも」と微笑んだ。
 迅が立ち上がる。礼儀として三月も立ち上がり、青年が扉まで動くのを視線で追う。
「仰木さん」
「何か」
 青年は、にぃ、と笑った。悪戯めいた笑みに父を思い出して自然と眉間の皺が深まる。
「月子さんと似てますね。目元と、性格も」
 思わず目をしばたかせた。青年が何を言っているのか、言語は理解できても内容が理解しがたい。
 優しい娘に比べて、自分はあまりにも薄情だった。その自覚は強い。そうであるからこそ妻子を不幸にし、人様に大っぴらに言えない仕事は上手くいっている。
「それじゃ、またお会いすることがあったら」
 からんっ、とドアベルが鳴って、青は夜へ消える。別れの言葉を返せなかったのは迅の言葉がまだ飲み込めていなかったせいだ。どちらにしろ、三月の帰国が稀である以上、しばらく顔を合わせることはなく、よって返すべき言葉もない。
 三月はしばらく、外灯に照らされたステンドグラスを見つめた。

 与えられるものと、求めるものが違っていた。需要と供給の不一致のもとに契約は成らない。
 妻の不実を知ったとき、感情が激しく動く前に理性がそう告げた。
 ありふれた、小さな不幸だ。そう言えてしまった己の薄情さこそ、彼女を追い詰めたのだろう。仰木三月の人生に後悔は幾つもあるけれど、そのことに気付けなかった自分の愚かさは、青く苦い棘となっていつまでも刺さる。
 父のようになりたくないと思っていたはずだった。母のようにひとを愛せる人間になりたかった。でも実際は、三月は父よりもずっとひどい男で、母のようにひとを愛することはできなかったのだ。伴侶にと選んだひとに母の強さを重ねて――別離に耐えきれるほど強くないということに気付かないままで。誰のことも、真っ当に愛せなかった。

「お父さん」

 声が響く。三月のことをそう呼ぶのは、呼べるのは、世界でただひとりだった。
 呼びかけと同時に店内へ入ってきた月子は、カウンターの側に置かれたコートとキャリーケースにも気づいたようだった。「もう出るの?」問いかけに短い肯定を返す。
「待って、いま切り分けるから。包むし、どこかで食べて」
 弾かれたようにカウンターのなかへ滑り込んだ月子がいう。何を、と訊く前にわかった。タルト・タタンだ。三月が外から帰ってきたとき『今日、焼いたの』と報告してきた。
「いや」
 明日、客に出すものだろう。そう思いながら否定を挟むも、月子は既に冷蔵庫からタルト・タタンを取り出している。ケーキ台を持ち出してきて、型からも外してしまうようだ。焼いたのは昼間のようだからもう冷めている頃だろう。呆気なく型は外されて、薄闇に一段と深く林檎の香りが広がる。包丁の切っ先が中心にあてがわれ、すっと下ろされる。
「もらってくれなきゃ、困るよ。お父さんが好きだって、おじいちゃんが言ってたから焼いたのに」
 月子が言った。大きな声ではなく、囁くように。三月が何も言えないでいると、月子は切り取ったピースをラップに包み、それからパントリーに入っていった。すぐに戻ってきた月子の手には紙袋がある。冷凍庫を開けて保冷剤をいくつか掴んで、プラスチックのフォークも入れて、包装を終える。
 それをカウンターの、キャリーケースの近くに置いて、「もっていってね」と小さな声が付け加える。その視線がちらりと三月を窺っていた。昔から何度も見た、どこか怯えるような、緊張した表情だ。その緊張も無理はないだろうと思った。共に過ごした時間はきっと誰よりも短い。
「……ありがとう」
 あえて視線を交えて告げる。ひどく久しぶりに、その瞳を正面から見つめた気がした。緊張したような横顔はいくらでも見てきたのに。
 目を逸らしてきた理由には心当たりがある。離婚調停の場で、妻が、元妻が自分に向けた冷たい眼差し。確かに愛していたはずの人から向けられた侮蔑。あれと同じものを、月子から向けられても仕方のないことをした。
 幼い頃よりも少し、瞳の蒼が弱く、黒が強くなった気がする。昔はもっと鮮やかだった。三月もそうだったので、飴色の髪も深い色になっていくかもしれない。
 視線を受け止めてか、いつもと同じようにその顔が硬ばった。瞳が揺れる。戸惑いを示して――けれどそこに、三月が恐れた拒絶はない。僅かなぎこちなさを残しながら月子が微笑んだ。
「よかった。おばあちゃんのレシピで作った、の」
 もう、とっくに、折り合いをつけて、大人になろうとしている娘がそこにいる。まだ少し脚が竦むことがあっても、進もうとする、ひとりの人間がいる。
 彼女がそうして大人になろうとしてくれていることに救われながら――心のどこかで、それを悲しんでいる自分がいる。もう何もかもが、過ぎ去ったことだと突きつけられるから。あの幼い我が子を救うことは、自分にはもう、できない。
 できないけれど――。
「フライトの前に頂こう。……もう部屋に戻りなさい。今日は冷えるようだから、部屋を暖めて寝るんだ。……風邪を、引かないように」
 蒼みがかった黒の瞳が瞬いた。らしくないこと言った自覚はある。詐欺が流行っているなどという注意や忠告ではない、普通の、『心配』。自立した娘はそんなこと言われなくてもわかっているに違いないのに。
「ありがとう。気をつけます。お父さんも、気をつけて」
「ああ」
 まだタクシーは呼んでいなかったが、三月は月子のいるカウンターの側まで寄って、コートを羽織る。キャリーの持ち手を伸ばし、タルト・タタンの入った紙袋を潰さないように丁寧に抱えた。出発を察した月子が先に扉の方へ行って開けてくれる。両手が塞がっているので有り難かった。
「いってらっしゃい」
 いつも、月子が眠った深夜に帰ってきて、起きる前の早朝に家を出ていた。だからその言葉は不慣れだ。
「……いってくる。おやすみ、月子」
 不慣れついでにもうひとつ言葉を添えて、三月は外に出る。からんっ、と閉まって、ステンドグラス越しに月子がまだこちらを見ていることに気づいた。三月の姿が見えなくなるまでそこにいるのだろう。
 いちだんと寒い夜だが――思ったほど、悪くはなかった。

   *

「タルト・タタンって、元は失敗から生まれたお菓子なんですよ」
 定休日明け限定の〝本日のケーキ〟を切り分けながら月子が言った。迅がその手元を覗き込むと、赤みがかったキャラメル色の、つやりと煌めくものが置いてある。まだ昼前だが、どうやらもう売れたようでピースがひとつ欠けていた。月見や加古をはじめ、この曜日限定ケーキのファンも多いから不思議なことではない。
 タルト・タタンはタルト生地の上に林檎のキャラメルフィリングが乗ったお菓子だが、これは焼いたあとにひっくり返しているらしい。焼くときは、まず林檎のフィリングを型にぎゅうぎゅうに詰めて、そのあと蓋をするようにタルト生地を被せるらしい。
「フランスに『タタン』というホテルがあるんです。十九世紀後半、ホテルはタタン姉妹が二人で経営していたのですけれど、調理を担当していた姉がタルトを作るときに、うっかりタルト生地を入れ忘れてしまったそうで。途中から生地を被せて焼いたらなんだかうまくできた、というのがはじまりなんですって。どう失敗したのかという部分には諸説ありますが、失敗からうまれたお菓子なのは間違いないみたいです」
 林檎のフィリングは宝石の琥珀のようだった。カフェ・ユーリカでは、砂糖とバターだけでシンプルに作っているのだという。水分は林檎から出るぶんだけを使って、炒め煮のようにしているらしい。砂糖がキャラメルとなって、だからこそこの深い色味が出るのだろうと思えた。
「いい色でしょう?」
 迅がタルト・タタンを見ていることに気づいたのだろう。月子が微笑んだ。
「綺麗だね。宝石みたいで」
「ぎっしり、ぎゅうぎゅうに詰めるのが大事なんですよ。あと、煮るときに林檎の皮も加えているんです。紅玉を使って……綺麗に色が移ってくれました」
「あと艶? がすごい」
「さすが迅くん。良いところに気づきますね。フルーツタルトは艶を出すためにナパージュ――すごくゆるいゼリーみたいなものを塗ったりもするんですが、タルト・タタンは違うんですよ。砂糖の成分が溶けて、下の方に落ちていくんです。それが冷やされて固まって……イメージとしては飴ですね。だから艶が出るんです。このレシピはあんまりしゃりしゃりしないタイプですが、それこそ飴でコーティングしたような食感のものもあるんですよ」
 楽しそうに語る様子からして、タルト・タタンは好きなお菓子らしい。十二月も直前の今にしては、やや季節外れというか、滑り込み感があるが、月子の好きなお菓子だというならそんなことは些細な問題である。
 切り分けられたタルト・タタンはお皿のうえに乗せられて、ホイップクリームとミントの葉で飾られる。断面を見ると『ぎっしり』の意味がよくわかった。くし切りにされた林檎が二、三層ほどになっていて、隙間なくぴったりくっついている。中心もしっかりと琥珀色に染まって、それだけキャラメルがしみていることがわかる。
「お待たせいたしました。カフェ・ユーリカ謹製〝タルト・タタン〟です」
 目の前に置かれたそれにお礼を言って、さっそく取り掛かる。月子はナイフも出してくれたが、フォークでじゅうぶんということだった。三又の先が林檎に沈む。そのまま下へ潜らせれば、タルト生地にあたったのか違う手応えがして止まる。少し力を込めると、かつり、と先が皿に触れた。
 まずはそのまま口へ放り込む。林檎特有の、しゃきり、とした食感は生に比べれば当然弱い。けれど熱が加わってぎゅっと凝縮された甘み、どっしりと濃厚なキャラメルの風味が瑞々しいままの林檎に詰まっている。生のときと同じように歯切れはよく、しっとりとしていてかなり柔らかい。そこにタルト生地のさくさくとした食感が浮きすぎず美味しい。
「この生クリーム、ヨーグルトが混ざってるんです。お手軽サワークリームですね。一緒に食べると林檎の酸味をたたせてくれて、それも美味しいですよ」
 にこりと笑った月子に勧められるまま二口目を食べる。サワークリームと一緒に食べると、さっぱりとした酸味が加わってより林檎の風味が出る。しっかり色の変わったキャラメルの苦さをまろやかに覆ってくれるのでさっぱりと食べやすい。
 それにしても、月子の機嫌は良かった。
「……何かいいことあった?」
「実は、昨日まで父が帰ってきていたんです」
 よくぞ訊いてくれましたと嬉しそうに話す月子に、どうやら自分と仰木三月の邂逅は知られていないらしい。「ボーダーの仕事で、ちょっと会ったよ」と、こんなことに嘘をつきたくもないので正直に伝えた。建前だが嘘ではない。月子は頷いて「やっぱり仕事で帰って来たんですね」と笑った。本当は娘に言い寄る男を見に――いやそうは言っていたものの実際は釘を刺しにきたようだが、そこまでは言わぬが花だ。
「今日の明け方の飛行機で向こうに戻るというので、昨夜のうちに切って渡したんですけど、朝起きたら感想のメールが入っていて。それが、ちょっと、うれしくて。メールでも口数が少ない人なので、美味しかったとか、ほんとうに一言なんですけれど。でも、いつもは簡単な挨拶だけなので」
 防衛任務で顔を合わせた東曰く、父を前にした月子は緊張しっぱなしだったらしい。わからないでもない、と彼とふたりで話した迅は思う。眼差しは鋭く、言葉の一つ一つが重い。城戸に似ている、という意味がわかった。確かに彼は、様々なものを抱えて、押し込めて、そこに立つことを選んだ人のようだった。
「よかったね。すごく」
「はい」
 父のことがよくわからないと、月子は言っていた。その言葉の裏には理解したいだとか歩み寄りたいだとか、そんな気持ちもあったのかもしれない。今の喜びようも、褒められたことよりも距離が近づいたことが理由のようだった。
「……そういえばさ、月子さん」
「なんですか?」
 この喜びに水を差してしまうのもどうかと思ったが、今日一日はこんな調子でいそうなので、先に用事を済ませてしまうほうがいいだろう。
「最近、いろいろ物騒だから――外に出るときは気をつけて」
 ぱちり、と蒼みがかった黒の瞳が瞬く。月子はそっと首を傾げて迅を見た。
「最近……は、何か、ありましたっけ」
「いつなにがあるかわからないから気をつけて」
「急に注意がふわふわしましたね」
 たしかに、と笑いながら三口目を食べる。けれど月子に――ボーダー隊員ではない彼女に、迅が持つ未来視のサイドエフェクトの説明はできない。
「まあとにかく、十二月も近いし、年末の慌ただしさとかもあるし、気をつけてねってことで」
「すごく念押ししますね。気をつけます」
 仕方ないなぁと微笑んだような月子にどれだけ響いているのかはわからないが、言わないよりはきっとマシだった。何かが――迅に見えていることが実際に起こったとき、少しでも助けになるかもしれないから。
「それと、なにかあったら、おれを呼んで」
「迅くんを?」
「そう。ちゃんと、頼って」
 視線を合わせれば、月子はやや困惑したようだった。迅が気を張り詰めているとわかったのかもしれない。いつもなら軽口を挟んで返事を求めないところだが、今回はそういうわけにもいかなかった。安心、したかった。たとえそれが仮初のものに過ぎなくとも。
「わかった? 月子さん」
「わかり、ました?」
 やはり困惑して答えられたが、ひとまず頷いてくれたことに満足する。
「それで。昨日は、お父さんと何をしたの?」
「えっ、あ……父は基本的に仕事で出かけていて……珈琲を一緒に飲んだぐらいですね……?」
 思っていた以上の距離の開きがある。いや、これは三月のほうが月子を避けたのだろうか。だとすれば次回はもう少し良い時間が過ごせるかもしれない。
 月子もろくに会話していないと思ったのか、苦笑を浮かべている。
「まあ、次はもう少し、お父さんの休みがしっかりあるといいね?」
「そうですね。今回のこれでも、今までで一番時間があったぐらいなんですけれど」
 多忙を極める。いつか訊いた言葉には、どうやらひとかけらの嘘もないらしい。
 そんな人間が、娘に言い寄る男に釘を刺すためだけに帰国するのは――かなりの家族愛を感じるのだが、この似た者同士の不器用な親子は気づいていなさそうだった。


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