ヴィザ

「ヴィザ、あなた……なにを言っているの?」
 ナマエの声は震えていた。信じられない、と蒼の瞳が語る。彼女の覚悟を軽んじてしまった、あの昼下がりの茶会を思い出す。ナマエもきっと、同じ過去を思い出しているのだろう。
 ヴィザは、彼女の覚悟を二度までも踏みにじろうとしている。今、引けば、彼女は許してくれるだろう。訊かなかったことにしてくれるだろう。それでも、ヴィザは彼女の瞳を覗き込んだまま、同じ言葉を投げかける。
「お逃げください、お嬢様。玄界へ、はてしなく広い世界へと」
「……あなたって、本当に、忘れっぽいのね」
 浮かべられた笑みは引きつっている。傷ついている。ヴィザがその表情をつくったのだ。
「もう、私の言ったことを、忘れたの?」
 よろめいて、一歩下がる。けれどヴィザは、彼女の手を離しはしなかった。ナマエも、振り払いはしない。その力も出ないほど、ヴィザの言葉は衝撃的だったのだろうか。
「……お嬢様は、ガレオスがお好きですか?」
「好きだとか、嫌いだとか、そういう話ではないのよ、ヴィザ」
 ナマエの言いたいことはわかっている。ヴィザには生涯知り得ない重圧が、その華奢な肩にかかっているのだと、その重みはわからなくとも、その事実は理解している。
「……それを、わかって、お願いいたします」
「わかっていない。ヴィザは、わかっていないわ」
 俯いたナマエが首を横に振る。泣きそうな息遣いが夜におちた。
「……あなたがいなくなれば、領地を超えての婚姻は成立しない」
「……そうよ」
「そうなれば、和平は成立しない」
「そう。外敵の多い今、国の結束を乱すわけにはいかない」
「外敵を屠れば、結束などいとも簡単に解けてしまうのに、ですか」
 ヴィザにだってわかることを、貴族の令嬢として育ってきた彼女にわからないとは言わせない。ナマエが短く息をもらした。わかっている、と小さな囁きが耳に届く。
「……たとえ束の間でも、平穏には代え難いものよ」
「お嬢様でなければならない理由は、どこにもありません。この領地の、貴族の娘でさえあれば、誰でもよい役目です」
「それでも、私に与えられた役目には違いないわ」
 凛とした声が夜に響いた。泉の水面が風でわずかに揺れ、木々の葉が擦れ合う音がそっと耳を過ぎ去っていく。夜のほとりは二人だけの世界で、それでもヴィザとナマエの間には取り払えない壁があった。
 アフトクラトルにおいて、正しいのはナマエだとわかっている。正しさで、説得はできないのだと。けれどヴィザは、彼女のことを誰よりも知っている。何に弱いのかも、全て。
「……お嬢様の我儘を叶えることは、私にとってよろこびでした。あなたが甘えてくださることは、私に、優越感をも与えてくれました。けれど、もう、お嬢様の我儘は叶えません」
「これを、ガレオスと婚姻を結ぼうとすることを、あなたは――我儘だというの?」
 顔を上げた彼女が、ヴィザをにらめつけた。蒼い瞳が潤んでいることに、気づいていた。
「……いいえ、決して、決してそうは思いません。ですから、これは、私の我儘なのです。もう、あなたの我儘は叶えません。たくさん、叶えましたからね。だから、私の我儘を、ただ一度のわがままを、叶えてはくれませんか」
 蒼い瞳に、自分が映っていた。ゆらめく視線が、朱の差した目元が、熟れた唇が、ヴィザのすべてを奪う。
 沸きたった想いがあった。浅ましい、ひどく無様な衝動が身体を突き動かす。

 華奢な腰を引き寄せた。背に腕を回し、抱きしめる。あまいにおいが胸をふくらませる。
 腕のなかに抵抗なくおさまった彼女は、驚いているのだろう。背中に回ることもなく、ただ伸ばされた腕が揺れた。

 肩に埋もれるようにして、彼女の耳に唇を寄せる。視界の端に亜麻色の髪が映った。抱きしめた彼女は、あまりに細く、頼りない。あんなにも強く気高くあったナマエは、こうもか弱くヴィザの腕におさまってしまうひとなのだ。
 彼女のにおいが、ヴィザの心を締め上げた。いとしい女性を腕に抱くことが、こうもくるしいことだとは思いもしなかった。
 そっと、吐息を漏らして。それから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。どうか、ひどい男になれますようにと祈る。

「ナマエ。おれのために、国を捨ててください」

 なにを、と身悶えた彼女が離れていけないように、腕に力を込める。トリオンでできた体は、彼女をたやすく拘束した。
「あなたの覚悟を殺すのはおれです。あなたに国を、友を、家族を捨てさせるのはおれです。どうか、おれのためだけに、すべてを捨ててはくれませんか」
 彼女の好きな、やさしい声で名を呼ぶ。ナマエ。どうか。そう、乞い願う。
 肩を引き寄せた手を、彼女の頭に添えた。そっと、自らの肩へと誘う。ナマエは抵抗せず、ヴィザの肩に顔を埋めた。
「ヴィザ」
 くぐもった声がきこえる。
「あなた……すこし、わがまますぎるわ」
 肩が濡れていく感覚がする。ヴィザは、はい、と頷いた。
「ぜんぶ、捨てろっていうの」
「……はい」
「貴族に生まれたことも、育てられた恩も、民も、誇りも、全部」
「全て」
「あなたのことさえも?」
「……私のことさえも、です。ナマエ」
「……あなたは、ひどいひとだわ」
「存じております」
 ナマエの手が、ヴィザの外套をぎゅっと握った。身震いするほどの喜びと、それを全て食うような切なさが、心を締め上げていく。ヴィザは彼女を抱き寄せたまま、それを甘受した。手放そうというのに、これを惜しむのだからひとの業は深い。
「……そんなこと、できるはずがないじゃない」
「ナマエ。玄界は、とても広大とききました。こことは違うものが溢れているとききました。あなたの好きな、新しい発見で満ちた世界です。……散歩はお好きでしょう?」
「好きよ。だけど、」
 腕をつよく引き寄せて、彼女の言葉を潰した。ヴィザは、ひどいひとだから、そんなこともできてしまうのだ。
「私を恨んでください、ナマエ。貴族としての矜持を果たせなかったのは、この愚かな男のせいだと言ってください」
「……私は、こんなことすこしも望んでいないのに、」
「はい。あなたがかけらも望んでいないことを、強制しています」
「……これが、あなたのわがままだっていうの?」
「これ以外は、なにも望みません」
「ともに行こうとも、言わないの?」
 ああ。吐息が漏れそうになる。彼女の肩に顎をのせて、広がる世界を見た。視界が滲むのは、泉が反射した光が眩しかったからだと思うことにした。
 共に歩む可能性を、このひとは考えてくれたのだ。
 それだけで、ヴィザはうれしいのだ。
「……私の手は、血で濡れております」
「国を守ったからでしょう」
「いいえ。自分のために、私は人を殺しました。……この身はもはや、お嬢様とともには歩めません」
「私が、ともに、と言っても?」
「……はい。お嬢様の我儘は、たくさん叶えたので、もう叶えません……怒っていらっしゃいますか?」
「とても。とてもおこっているわ」
「……申し訳ない限りです」
 ナマエが、そっとヴィザの胸を押した。離れていくのを、今度は止めなかった。
「……ヴィザ」
 涙が滑り落ちる頰をみた。蒼がとけていくような、うつくしい瞳を。
「全部、あなたのせいと思えばいいのね? 私が逃げ出すのは、そうして残されたエリン家に迷惑をかけるのは、そのせいでお父様やお母様、お兄様とお姉様たちに危険が迫るのは、全部あなたのせいなのね? エリン家の管理する民が路頭に迷うかもしれないのは。約束されるはずだった平穏が崩されるのは。すべて、あなたのせいなの?」
 いいえと言いなさい。私のためと、言いなさい。そう、彼女の顔は言っていた。わかりやすいひとだと笑う。
「――はい。全て私のせいです。あなたがいなくなって発生する全ての損害は、私の一存で引き起こします。私が、あなたを苦しめる全ての元凶です」
 ヴィザ。掠れて、涙まじりの声が呼ぶ。
 その声をただきいていた。どんな声でも、これが彼女に名前を呼ばれる最後の時だった。憎んでくれて構わない。それだけの想いをのせて呼んでくれたなら、きっとこの身に彼女が深く刻まれる。
「……ばかね、ヴィザは」
 ナマエの指先が、ヴィザの頰を撫でた。己を見つめる彼女が、小さな笑みを浮かべる。
「そんな泣きそうな顔で言ったって、ちっともこわくないし、ちっとも、悪ぶれていないのよ」
「……ナマエ」
「もっと、悪役の練習をしたほうがいいわ」
 はらりとこぼれ落ちていく雫を見下ろす。長く吐息をもらした彼女が、ヴィザをじっと見つめていた。そこに非難の色はなく、ただかなしさだけが映る。
「……あなたのことだから、私がいなくなったあとのことを、考えてあるのでしょう。万事、うまくおさめるための策は、あるのでしょう。いやみなくらい優秀なのよ、あなたって」
 ナマエの瞳は、いつもヴィザの心を奥深くまで見透かすようだ。敵わない、そう思って笑う。
「……はい。ご安心ください。エリン家には、なにも手を出させません」
「かわりに、あなたは何を、誰に、差し出すの?」
「……お嬢様が、自由に生きる世界が欲しいのです。あなたが幸せになる未来がほしい。けれど、この国にはありませんでした。昔から、そう思っていました。だから、玄界へ、どうか」
「あなたが犠牲にしようとしているものを訊いているのよ」
 頰に添えられたままだった指先をつかんだ。手のひらに指先を閉じ込めて、そっと笑う。
「差し出すものなど、なにも。おれの心は、あなたとともにあるから。なにも、うしないません」
 ヴィザが、うしないたくないと思うのは、もうただひとつ、ナマエだけなのだ。ヴィザの全てが、彼女になった。だから、彼女さえ誰にも奪われないのなら、ヴィザは何も失わない。他の誰でもない彼女ならば、そのことをわかってくれるだろう。
「ばか」
「はい」
「きらい」
「はい」
「だいっきらい」
「……はい」
 また、うつむいてしまった。ヴィザはその場に跪く。片膝を立てて、下からナマエを見上げた。ヴィザにつかまれていないほうの手で、彼女は浮かぶ雫を拭っている。雨が降り注ぐようだ。
「私が信じれば、お嬢様はなんだってできるのでしょう?」
「……言ったわ」
「……玄界で、お嬢様が幸せになれると信じます。お嬢様はもう、誰かに守られる存在ではないと、信じます。どこへ行っても、笑って暮らしてくれると……信じます」
「あなたの、そういうところが、ほんとうにきらいよ」
 小さな声が囁くのを訊いていた。手の甲に、許しも得ずに口付ける。どうか、御幸せに。誓いではない。それはただの祈りだった。
 唇にふれた冷えた感覚は、やはり手放しがたい。ヴィザがうしないたくないものは彼女だ。ヴィザが欲しいものも彼女だ。けれど、あなたがほしいとは、ヴィザには言えない。
 ナマエの指先をきゅっと握り、彼女を見上げた。泣いている彼女の泣き止ませ方も、ヴィザは熟知している。
「……そういえば、私に似合うリボンを、見繕ってくださるのでしたね」
「そんなこと、よく、覚えているわね」
「あなたのことですから」
 ちょうど、この場所だった。たった一言の軽口を、彼女も覚えていてくれていたことが心のなかを満たしていく。
「まだ、用意できていないの。だから、玄界へは行けないわね」
 すこしだけ、笑みを浮かべた彼女に、同じように笑みを返す。
「私は、今お嬢様がつけていらっしゃるリボンが、とても好みなのですが」
「似合わないわ、こんなの」
「なぜですか。お嬢様の瞳と同じ色です。お嬢様と、ずっとともにいた私には、これ以上なく似合う色ですよ」
 言いながら、亜麻色の髪を結ぶリボンを解いた。はらりと三つ編みがほどけて、指先で梳いてやれば背を流れていく。ナマエは、それを止めなかった。それが答えだった。
 蒼いリボンはするりと指先に馴染む。少し冷えた手触りは彼女と同じだ。
「……ゲートを、長く出しておくことはできません。どうか」
 蒼いリボンを外套の内側に仕舞い、かわりにトリガーを握らせる。ヴィザとは違う、うつくしく整えられた白魚の指先に、それはあまりにも無骨だ。けれど、彼女は貴族の令嬢としてそれの扱い方を知っている。
「お嬢様」
 短いような、長いような沈黙のあと。ナマエはそっと瞼を閉じた。
 受容する、という意志なのだとすぐにわかる。
 ヴィザは彼女から手を離し、夜が訪れる前に木陰に置いていた荷物をとった。数日分の食料と、着替えが入っている。彼女の元へ戻れば、トリオン体への換装を終えていた。
「……本当に、準備万端なのね」
 力なく笑ったナマエに、ヴィザはちいさく苦笑を返す。
 すべての準備は整えていた。けれど、ナマエを説得することだけは、どちらに転ぶかわからなかった。彼女が頷いてくれるかは賭けだったのだ。ヴィザよりも、新しい世界への好奇心をとってくれるかは。ヴィザを、捨ててくれるかは。
 望んだはずなのに、痛む胸に笑みを浮かべた。

 門の前に立った彼女は、ヴィザを見つめる。
「……これが、最後?」
「念のため、連絡手段は残してあります。けれど、最後であることを、願っています」
 これが最善だった。ともにはいけない。彼女を、他の男にもやれない。彼女が幸せに生きる可能性がいちばん高いのは、玄界へいくことだった。
 蒼の瞳を見つめる。そんなに泣いていては、本当に溶けてしまうのではないかと思った。ナマエが一歩近づいて、ヴィザの首に腕を回す。
 それを抱きとめて、両の手で彼女を抱きしめた。トリオンの体は、けれどやわらかな温もりをはらみ、涙はあつい。

「――さよならね、ヴィザ」

 声はさみしさをはらみながらも、意志が宿る。この強さが好きだった。

「はい。さようならです――ナマエ」

 ヴィザが微笑めば、ナマエも笑う。やっぱり無理したような、そんな笑みだったけれど。
 亜麻色の髪が風にさらわれてなびいた。蒼い瞳が瞬いて、それから門を見る。離れていく温もりを、背中を、追いはしなかった。
 彼女が、闇に覆われていくのを見送った。最後まで絡んだ視線が、切々となにかを訴えていた。

 愛しています。
 そう、告げることもできなかった臆病な心を思って、笑った。けれど最後に彼女に見せる顔に笑みを浮かべられるなら、この臆病さも、慈しんでやれる気がした。


 やがて闇は消える。門は閉じて、静寂が残る。
 ここまで二人を運んできた馬が、小さくないた。ヴィザは、門の消えた虚空を見つめた。空にひときわ輝く明るい星は、黎明の星だという。彼女は、新しい世界で、新しく、生きていくのだ。


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