星の眩い夜

「酷い顔をしているな」
 領主の館の一角、無骨な廊下で行き違ったビオスは、ヴィザを見るなり眉を顰めた。
 軍装のままのビオスは、おそらく玄界への遠征から帰ってきたばかりなのであろう。領主への報告を済ませた、その帰りだと思えた。
「……ビオス様。ご無事で何よりです」
「玄界に敵はいないからな。余程運が悪くなれば、他の国の人間にも会わん。……ヴィザ、お前もそろそろ次の任務が与えられたのではないのか?」
 ロドクルーンとの戦争以降、ヴィザに与えられていたのは『星の杖』に慣れる訓練という任務だった。けれど、今や『星の杖』はヴィザの一部のように使いこなすことができる。まだトリオンの成長の余地を残す若さもあって、今後はひたすら戦闘を繰り返すことになるだろう。
「はい。冬を前に、諸国へ遠征に出るように仰せつかりました。帰還は、次の春だと」
「……その頃には、エリン家の令嬢の婚姻も終わっているか」
「……そう思われます。ビオス様は、」
「玄界と近いうちは往復を繰り返す。あそこは人が多いから、少しぐらい減っても気づかれにくいしな。『窓の影』があるから、今までより楽だ」
 『窓の影』が移動能力を持つことは、ヴィザも知っている。ビオスはもともとトリオンも多く、一人で補給部隊数隊分の働きができると、どこかで聞いた。
「玄界まで、繋がるのですか?」
「近づいている間はな。……そのうち言われるだろうが、他の星と接近した場合は、俺とお前で奇襲を仕掛けることになる」
「とても心強いです」
 微笑めば、ビオスは眉間の皺を深くした。いつも無愛想ではあるが、それにしても今日は機嫌が悪そうに見える。無言で睨まれて、ヴィザはそっと首を横に傾けた。
「……ビオス様?」
「……本当に、酷い顔だな。ちゃんと寝ているのか?」
「はい」
 ヴィザが頷けば、ビオスはますます表情を歪めた。「では、食べているか」と訊かれて、苦笑しながら頷く。そんなにも、顔色が悪いのだろうか。自分ではあまり身体の不調は感じない。
「体調管理も軍人としての責務だが」
「自分では、不調とは思いません」
 訝しげな視線が刺さるが、本当にそうなのだ。むしろ調子は良く、それは指導役である年配の軍人も剣技の冴えに舌を巻くほどだった。ただ、眠っても眠った気はせず、食べても食べた気はしない。そう思うことは事実で、ビオスの勘の良さには少し驚く。
「ですが、ご心配ありがとうございます」
「……お前のためではない。領主、ひいてはこの国のためだ」
 つい、と視線を逸らされたが、照れ隠しというよりは、本当にそのままの意味であるようだ。難しい人のようでいて、その実、明快でわかりやすい。
「……ビオス様」
「何だ」
「『窓の影』は……その身ひとつで、玄界へいけるのですか」
 外されていた視線が、戻ってくる。ヴィザをじっと見つめた。無感動なその目が、いつか玄界を語ったときのように遠く先を見ている。
「お前が何を考えているのかはよく分かる。だからこそ、あえて言ってやろう。――できる。トリオン体にさえなっていれば、艇は必要ない」
 背筋が震えたのは、その言葉にか。それとも、その鋭い視線にか。ヴィザにはわからなかった。
「それで、どうするんだ、ヴィザ」
 問いかけるビオスは、笑みを浮かべていた。初めて目にする笑みは、獰猛な獣を思わせる。ヴィザを射抜き、威嚇するようだった。
「俺を脅して『窓の影』を使わせるか? それとも、俺を殺して奪うのか? お前にその気があれば、スピラル殿は応えるだろうな。さあ――どうする」
 二人の周囲には、誰もいない。
 ヴィザは、こくりと唾を飲み込み、『星の杖』に手をかけた。

   ◇

 コン、と小石を窓に投げる。一粒、ふた粒、と続けて、三回目。窓が開かれて、見知った色が顔を出す。
 真夜中に近い時間だ。夜のわずかな光に照らされた亜麻色の髪は、ゆるく編まれて蒼いリボンで結ばれていた。服も、薄手の寝間着にガウンを羽織っているようだ。ちょうど就寝するところだったのだろう。まだ起きていてくれたことに、ほっと胸をなでおろす。
 木の葉の影に潜んでいたヴィザは、張り出した枝を進んで彼女のもとへ近づいた。
「お嬢様」
「その声、ヴィザ?」
「はい」
 ナマエがほっと相好を緩めたのが分かった。窓を開いてしまう不用心さを窘めたくなりつつも、出てきてもらわなければ困っていたから、怒れない。ヴィザが外套の中に潜ませていた灯りを取り出せば、暗闇がほわりと明るく照らされる。
「このようにお呼び立てして、申し訳ございません。……数日後、遠征に出ることが決まりました。帰ってくるのは、次の春です。その前に、お嬢様と散歩を、と思いまして」
「だからって、夜に来るの?」
「昼は訓練があるのです」
 すこし拗ねたような声が出た。本当のことだから、この言葉に心は痛まない。ナマエはくすくすと笑って、しようのないひとね、と背を向ける。
「お嬢様?」
「散歩なら、着替えなければいけないでしょう?」
 部屋に引き返す背に手を伸ばしかければ、また、くすりと笑われた。
「覗いちゃだめよ」
「覗くとお思いですか?」
「いいえ。……私もそちらから出た方がいいのかしら」
「……そうですね。着替え終わったら、お声がけください。私がお嬢様を抱えて、外に降ります」
「ひとりで降りられるわよ?」
「窓から降りようとして足を滑らせたことはお忘れですか」
「……もう! あなたって余計なことばかり覚えてるんだから」
 ささめく言葉たちは、夜の闇にいとおしくとけていく。ナマエの無邪気な声は、少しだけヴィザの胸を締め付けた。嘘は得意でも、嘘をつくことが平気なわけではない。
 しばらくして、部屋のなかから準備ができたと声がかかる。ヴィザが木の枝から窓を介して部屋のなかに滑り込むと、寝間着から着替え、ブーツを履いたナマエが笑う。
「どこへいくの?」
「あの泉まで」
「遠出をするのね」
「馬はもう控えさせてあります。お手を」
 ヴィザが手を差し出せば、ナマエの白く華奢な手が重ねられる。失礼します、と声をかけて、横抱きにした。ふわりと香油のかおりが鼻腔をかすめる。重さは感じなかった。低い体温は、寄り合えば熱をはらむ。
「ヴィザに抱えられるなんて、はじめて。ちょっと前まで私より小さかったのに」
「そうですね。お嬢様の下敷きになったことは何度かあるのですが」
「だから、それは忘れなさい。もう」
 そっと笑みを浮かべる。彼女に関することは、なにひとつ忘れられるものか。想いは言葉にせず、ヴィザは窓辺に近寄った。
「では、降ります。気をつけますが、衝撃はあるので口は閉じていてください」
 腕のなかにおさまったナマエは、返事をする代わりにこくんと頷く。それを確認してから、ヴィザは窓から飛び降りた。

 横手に街灯をみながら、ヴィザは夜の草原に馬を走らせた。ナマエを前に乗せ、こうして広々とした草原を駆けるのは随分と久しぶりな気がした。馬もよろこんでいるのか、機嫌よく足を動かしている。
 空には無数の星々が瞬いている。そのなかでもひときわ明るいのは、近づいている玄界だ。その明るさは、昼のように全てを照らしてくれるわけではないが、ナマエに持っているように頼んだ灯りのおかげもあって、少し先が見通せる程度には明るい。そのことも、馬が調子よく走れている理由だろう。
「夜、馬に乗るのも、初めてね」
「普段は夜に出かけることなどしませんからね」
「でも、気持ちのいいものだわ。……風が、少し冷たくて。秋が近いのね」
「寒いですか?」
「平気よ」
 少しだけ、手綱を握る手の間隔を狭めて、ナマエを腕の中に囲う。ありがとう、と囁きが聴こえた。
「……初めて、こうして遠乗りにでかけたときのことを覚えていますか?」
「ええ。ヴィザが倒れてから、お父様が稽古の時間をすこし減らして、馬の世話をするようにとこの子を贈ったのよね。この子はすぐヴィザに懐いて、私にも慣れてくれた」
「思っていた以上に詳細に覚えておいでですね」
「ヴィザとのことだもの。……ふふ、あなたの表情が見えなくても、安心するのだから不思議ね」
「それは光栄なことです」
 夜の風が耳元を通り過ぎていく。視界が限られるからか、それとも夜の空気だからか、声は鮮明に届いた。
「小さいときは、あなたが見えないとすぐ探しに行ったわ」
「素振りをしているところに急に近づいてくるので、時々困りました」
「気づかないヴィザが悪いのよ」
「未熟だったのは言い逃れできません」
「……今はきっと、すぐに気づいてしまうのでしょうね」
「はい。お嬢様のことでしたら、きっと何でも、すぐに、わかる自信がありますよ」
 すごい自信、とナマエが笑った。馬の腹を優しくしめて、少しだけ加速させる。鈴の鳴るような笑い声に、馬は機嫌を良くして駆けていく。
 夢のような心地を、ヴィザは抱えていた。ふわふわと、思考が跳ねて落ち着かない。ナマエと、こうする時を己は切望していたのだとよくわかる。望んでいたのはただこの距離、この温もり、彼女が笑っているということ、本当にそれだけだったのだと。
 草原を駆け抜けて、森へ入った。星々のやわらかな光も、木々に覆われては届かない。馬の速度を緩めて、慎重に進んだ。
 夜の森は、闇が深い。何かが潜んでいるような影に怯えてか、ナマエは少しだけヴィザにもたれた。
「……恐ろしいですか?」
「すこしだけ」
「あの泉まで出れば、その恐れもなくなりましょう。今日は、様々な星が見えていましたから――そう、玄界も、今宵は近いですね。きっと水面に写って、美しく輝いていることでしょう」
「玄界は、とても明るいものね。だから黎明の星というのだと、昔おばあさまが言っていたわ」
「黎明の……そうなのですか」
「ええ。夜明けの――はじまりの星と。国によっては、あそこを終わりの土地というらしいけれど」
「どちらが本当かは、わかりませんね」
「そうね。ヴィザも、いつかあの星に行くことがあるのかしら」
「どうでしょう……」
 わかりかねます、と応える。ナマエは勘が鋭いのか鈍いのかわからなくて、ひやりとした。

 しばらく馬を歩かせていれば、不意に視界が開く。あの泉に出たのだ。ざぁっ、と風が木の葉を囁かせて、閉じた蕾を揺らす。
 馬をとめて、ヴィザは泉のほとりに降りた。ナマエに手を貸し、馬から降ろしてやる。とっ、と地面にブーツのつま先をのせてから、ナマエは土を踏みしめた。
「ここに来るのも、久しぶり」
「お一人でも来られていたのかと思っていました」
「ヴィザがいなければ、来たって意味ないじゃない」
「……そうですか」
 緩む頬を抑えられなかったけれど、夜の帳はそれも覆い隠してくれるだろう。星々を映した泉はほんわりと明るく、ナマエはそちらに歩いていく。お足元に気をつけてください、と声をかけるのは忘れない。
「花は閉じてしまっているわね」
「残念ながら……ですが、泉は美しいです」
「ほんとうに」
 ナマエの背中を見つめる。三つ編みにされた亜麻色の髪は、陽の下にあれば金に透けるが、今はわずかに闇に浮き上がる程度だ。
「あまり近づきすぎると、落ちますよ」
「もう、今ちょっと、ばかにしたでしょう」
 泉に向かって歩いていたナマエが振り返る。スカートの裾が翻って、三つ編みがくるりと縁を描いた。泉の反射か、輪郭はあわく光を背負っている。
「まさか、滅相もございません」
「あなたはもっと、女性の扱いを心得るべきだわ」
「……努力致します」
「そうしなさいな」
 まったく、と笑ったナマエは、泉のほとりでしゃがみこんだ。ヴィザに背を向けて、指先で水面を撫でる。生まれた波紋はゆるやかに広がって、遠くのほうで波に紛れて消えた。
 その情景を、ヴィザは記憶に刻み込む。この泉はナマエが気に入っていた場所だった。それも、ヴィザと来ることに意味を見出してくれたのだという。
 ――最後に見る景色が、ここでよかったと思った。
「お嬢様」
 声を、かけた。
「……ヴィザ?」
 怪訝そうな声がかかる。ヴィザは、地面に跪きながらそれを訊いた。
 バチッ、と雷鳴のような音が宙を破く。夜の天蓋ではない闇が、ヴィザの横にぽつりと生まれた。卵から雛が孵るように、闇は広がる。
 ――門。星と星を繋ぐ、『窓の影』が生み出す闇。
「ナマエ、お嬢様」
「……ヴィザ。それは、なに?」
「どうかお許しを、お嬢様」
「答えなさい、ヴィザ」
 草を踏みしめて、ナマエが近づいてくる。門の出現に怯えてか、馬が小さくいなないた。
 すぐ目の前にまで来たナマエは、しゃがみこんで、ヴィザの頰に手を添える。頰を挟んだ手が促すまま、ヴィザは顔をあげた。そのまま、彼女の手をとり、ともに立ち上がる。
「……ヴィザ、」
 不安げな声が響く。微笑みを浮かべた。
「この門を通って、玄界へお逃げください、お嬢様」


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