英雄と令嬢

 扉の前でヴィザは立ち止まっていた。扉を軽くノックすれば、中にいる人は入室を許してくれるだろう。その確証はあるのに、動けないでいる。
 胸のざわめきは緊張とは少し違う感覚だった。この扉を叩くのは、もう何度も繰り返してきた行為だ。今更、緊張はしない。ほんのわずかに恐れはあるけれど、それに対する心は整えていた。
 それよりも、こうしてこの部屋へ入室の許しを乞うのは今日が最後なのだと思い至って、躊躇ってしまったというのが正しい。
 エリン家の屋敷は、しばらく離れていても変わりない。使用人たちはすれ違うとぺこりと頭を下げたり、軽く手を振ったりと、もうヴィザはこの屋敷の人間ではないのに、変わらず接してくれる。先に顔を合わせた当主と後継である長兄も、ヴィザを笑顔で歓迎した。それこそが、この屋敷を離れて領主の兵となったヴィザへ贈られた手向けなのだろう。
 ひとつ、深く息を吸って、吐いて。ゆるく握ったこぶしで、こん、と優しく扉を叩く。大袈裟な音にはならないように、けれど、中にいる彼女が気づいてくれるように。
「どうぞ」
 鈴の音のような、うつくしい声が応えた。少女から女性へ移ろう合間の、わずかに甘さの残る声は、彼女の気質を映したように凛と響く。
 そっと扉を開けば、見慣れた部屋がある。この屋敷を離れる前、ともに紅茶を楽しんだあのときとそう変わらない部屋が。
 中に入り、小さく頭を下げた。顔を上げて、そのひとを見る。亜麻色の髪は窓から差し込む陽の光によって透けるような金にかわり、彼女の輪郭を淡くきらめかせる。
「おかえりなさい、ヴィザ」
 出迎えたナマエの、最初のことばはそれだった。
 もうここがヴィザの家ではなくなったことを知っているだろうに、そう言ってくれた。浮かべた微笑みは、あまくとろけた蒼穹の瞳は、ヴィザの心を揺さぶり、とらえてはなさない。
「……はい。ただいま、かえりました」
 ヴィザはまばゆさに目を細め、口元に笑みをうかべた。

 ナマエが淹れた紅茶は、ヴィザの淹れる紅茶よりすこし渋い。ヴィザが、彼女を待たせすぎてしまったのかもしれない。ふぅ、と吹き冷ましてから紅茶に口付けたナマエは、ほんのわずかに眉を顰めた。くすりと微笑みを向ければ、むっとしたような視線と絡んだ。
 ゆるりと瞼が伏せられて、蒼穹の瞳に影が差す。
「……大変な戦いだったと、訊いたわ」
 お訊きなりますか、とヴィザが尋ねれば、ナマエは「訊かせたいことがあれば」と応える。紅茶をこくりと飲み込み、あたたまった吐息をひとつこぼした。
 彼女に血なまぐさい話は聞かせたくない。けれど、訊いてほしいことは、ひとつだけあった。
「大変な、戦いでした。味方も、多くが命を落としましたし、敵の命も、奪いました。けれど、そのようなことばかりでも、なく。……稀有な出会いもあったのです」
「ええ」
「あの戦場で、あのお方とともに戦えたことは……何にも変えがたい経験でした」
 ヴィザが彼から学んだことはあまりにも多い。冴え渡る剣技、戦場での振る舞い、戦線を離れた際の穏やかさ。全てが完成された軍人だった。ただ道具であるばかりではない、ひとだった。
 彼から、多くのものを受け取った。それでも、足りないと叫ぶ声がある。もっと、と乞い願う声がある。
「だから、あなたはそんな顔をするね」
「どんな顔をしていますか?」
「訊かなくてもわかっているくせに」
 ゆるやかにやわらげられた口元は、許すと語るようだった。誰もヴィザに許さなかった、彼を懐かしみ、その喪失を悲しみ、立ち止まるという行為を。
「……お嬢様に、嘘はつけませんね」
 そっと瞼をおろした。集った熱を、薄い皮膜の下に閉じ込める。目を閉じても、光は失われない。ティーカップを手のひらで包み込めば、じわりと熱く、剣を握り慣れた指先の硬い皮膚が柔らぐような気がした。
「すぐ嘘をつくのは、あなたの悪い癖よ」
 優しい声が淡い光に満ちた視界に響く。蒼い瞳は、今もヴィザを見つめているのだろうか。それとも、同じように伏せられているのだろうか。
「……申し訳ございません」
「いつも、騙されてあげてるんだから」
「……存じております」
「素直ね」
「お嬢様の前ですから」
「でも、少し意地っ張りだわ」
「……お嬢様ほどではないかと」
「失礼ね」
 彼の声と、彼女の声は、似ても似つかないものであるはずだ。彼の声はもっと低く、穏やかで深く、時に掠れた。ナマエの鈴が囁くような声とは違う。なのに、ヴィザは彼の声を思い出している。
「……やさしいひとだったのです」
 こぼれおちた言葉は、沈黙に優しく受け止められた。
「夜に葡萄酒を飲むのが日課で、あまいものがすきで、おだやかに笑うひとでした。お嬢様も、きっと好きだと思うような方でした」
 ツンと鼻の奥にいたみがはしる。
「……私は、あのお方と、もっと……」
 そう願うばかりで、けれどできたことは何一つない。ヴィザは身代わりにもなれなかった。今、どれだけの賞賛を得ても、あの時なにもできなかったことは変わらない。
 睫毛のあいだに雫が埋もれて、はらりと粒となっておちていく。かちゃりと音が響いた。ティーカップに触れた手が震えていた。
「ヴィザ」
 ナマエの声が、やさしく鼓膜になじむ。悲しみに覆われていても、そこに涙の混じらないところが、彼女らしいと思った。普段は妹のようなくせに、ナマエは確かに、ヴィザより歳上の女性なのだ。
 その声をきくだけで、ヴィザの心は解けていく。固く、堅く結んでころした絶望が、息を吹き返す。それでも、このからだの全てを放り出したくなるような虚無は訪れなかった。やわらかな光がそこを満たして、そっと包んでいく。
「あなたは、ほんとうに、スピラル殿が好きだったのね」
 はい、と頷いた。何度も。声が涙に濡れて、かすれる。
「私も、お会いしたかった」
 儚く、とけいるような声がきこえる。ともに悲しんでくれるひとがいるというのは、こうも、心をやさしく撫でていくものなのか。あふれた雫をとめる術をしらない。
 ヴィザの心は、彼女とともにこそ、ある。だからヴィザは彼女を失いたくないのだ。彼女を護りたい、この世のすべてから。
 ナマエは、静かに黙したまま、ヴィザの涙が枯れるのを待ってくれた。


 お見苦しいところをお見せしましたと謝るヴィザに、ナマエが首を横に振る。
「そんなことで謝られるような仲じゃないわ。私だって、あなたに見苦しいところをたくさん見せてきたわけだし、今更でしょう?」
 ヴィザとナマエは、多くを共有してきた。時間も、失敗も、秘密も。ずっと側にいたのだから、自然とそうなっていった。あまりにも近くにいた。だから、ヴィザのかなしみは彼女のものだし、その逆も然り。
 目尻に残っていた雫を指先で拭う。正面に座ったナマエは、ぬるくなった紅茶に口付けていた。いつもと変わらない様子の彼女は、けれどあの頃とは違う立場にある。婚約者がいる身だ。ヴィザには、もう二度と触れられぬ人だ。
「……お嬢様」
「なぁに、ヴィザ」
 とろけるような微笑みは甘く、けれどすっと伸びた背筋が、ヴィザをまっすぐと見つめる眼差しが、気高さを形作る。そんな彼女にこれから投げかける言葉が、愚かな問いでしかないことはわかっている。それでも、問わずにはいられない。
「お嬢様は、よろしいのですか」
「……なにがかしら?」
 そっと小首を傾げた、その愛らしい動作の裏で、ナマエの蒼い瞳は強い色を示す。ヴィザの言いたいことを瞬時に汲み取って、けれどそれを制しようとする。その先は言ってはならないと、彼女は語っていた。
 ずるいひとだ。今更と言った舌の根も乾かぬうちに、それを拒絶する。だけれど、ヴィザとて、これ以上うしないたくはない。決してうしなってはいけないと、スピラルは言っていた。
「……ガレオスは、ひどい男です」
「……ヴィザ」
「ここに帰る前、一度顔を合わせて参りました。ひどい、ひどい男でした。昔にここを訪れたときと何も変わらず、むしろ長じて力を得て、更にひどく……武人として成功はしておりますが、それゆえに敵も多くあります」
「ヴィザ」
「今の私なら、領主様に意見を奏上することもできます。お嬢様がたった一言、申してくだされば、たとえ不敬と興を削ぎ、その果てに斬り伏せられようとも私は――」
「ヴィザっ……!」
 うつくしい蒼穹の瞳がゆがんでいた。かなしみと怒りが混ざったその瞳は、今の言葉を許していない。言葉を重ねようとして、けれどその瞳に臆してしまう。骨の髄まで滲みた彼女への想いが、ヴィザを臆病者へ仕立て上げる。
「あなたが、案じてくれていること、理解しているわ」
「……それならば、何故、」
「私はエリン家の娘よ。ずっと、覚悟はしてきたわ」
 政略結婚は貴族の常だ。ナマエの母も、二人の姉も、そうしてきた。ナマエだけが、その因習から逃れられるはずがない。彼女が、それを理解したのはいつの頃だったのだろう。
「ねぇ、ヴィザ。あなたが、私の覚悟を、疑うの?」
 ゆがんで、にじんだ瞳は、それでもヴィザをまっすぐと見つめた。
 今、彼女を傷つけているのはヴィザなのだとわかる。どうしようもない運命ではなくて、ヴィザが口にした言葉が、彼女の心のやわらかなところを、深々と突き刺したのだと。
「……それ、は……ですが」
 けれど、彼女は覚悟していたと言ったのだ。簡単に受け入れられるものではなかったと、そう語ったのだ。それを知るからこそ、彼女に茨の道を進ませたくはない。進もうと、足を踏み出した彼女の決意は尊いものなのだろう。それでも、見えている棘に彼女の手を引きたくなるのも、仕方のないことではないか。
「あなたがいうの、ヴィザ」
「お嬢さま、」
 両の指を組んだ小さな手が震えている。元から白い肌に指先が食い込んで痛々しく白む。震えの抑えられた声は気丈で、けれど雫の滲んだ瞳が強がりを教えてくれる。それなのに、ナマエは口元に笑みを浮かべた。
「誰よりも私の近くにいたあなたが――私を信じてくれないの?」
 無理やり笑っているのだとわかる笑みは、ヴィザから言葉を奪う。彼女は頑固だ。十数年をともにした記憶が、そう告げた。
 自分は今どんな顔をしているのだろう。わかるのは、己を見つめたナマエが、困ったように眉を下げたということだけ。ひとつ、深く息を吐き出した彼女は、すこしだけ切なくわらった。
「……私、あなたに信じてもらえたら、なんだってできる気がするのよ」
 そんなの、ヴィザだってそうだ。わたしもです、と震える声のままに言えば、やさしく細められた目がヴィザを見つめる。
「生まれは変えられない。けれど、生き方は見いだせる。そうでしょう、ヴィザ」
「……はい」
「だったら、信じて、ヴィザ。私はきっと幸せになれるって。どこへ行っても、あなたが願うとおりに、笑って暮らしているって。そう、信じてはくれないかしら」
 この言葉に、頷く以外の何を返せるというのだろう。
 唇噛んで、こぼれ落ちていきそうな言葉を止める。俯くように頷いた。すっかり冷めた紅茶が視界に入る。
「……ありがとう、ヴィザ」
 感謝などされるべきではない。いたずらに彼女の心を乱しただけの自分に、ありがとうと言ってくれるやさしさと強さが、ヴィザにはかなしくてたまらない。
「……どうしてあなたは、そうも……」
 そうも、お強いのですか。
 言葉は形になりきれなかったけれど、ナマエがそっと笑うのがわかる。
「……だって私、あなたの、おねえさまだもの」
 机の下で拳をつくった。――おねえさまってよんでいいわ。ナマエがヴィザにそう言ってくれたのはもう何年も前だ。けれどこのひとは、ずっと、そうおもっていてくれたのだ。
「かっこいいところ、見せたいじゃない」
 ヴィザには決して手の届かないひとなのだと、思い知らされる。
 ヴィザが、貴族に生まれていたら。あと数年早く生まれていたら。武功をあげるのがもっと早ければ。ナマエが、貴族でなければ。そんなもしもは、今が消える可能性のほうが高いのに、それでもそう思ってしまう。そうだったら。ヴィザは、このひとに手が届いたのだろうか。
「……紅茶が、すっかり冷めてしまったわね。今度はあなたが淹れてくれる? ヴィザの淹れた紅茶が、飲みたいわ」
 最後に。そう、聴こえた気がした。
 彼女のために淹れた紅茶は、やっぱり、すこし苦かった。


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