剣と忠誠

 ヴィザは、泉のほとりで彼女の消えた虚空を見つめていた。宙に広がった闇はすでに影も形もなく、少しだけ乱れた草花が、そこに誰かがいたことを教えてくれる。朝になれば、陽の光が彼らに活力を与え、その跡も消えてしまうだろう。
 足元、いつのまにかヴィザが踏んで、頭を垂れた花の蕾を見た。いつか、彼女がこの草地のうえに寝転んで、ヴィザを隣に呼んだときを思い出した。
 もうあの日々には戻れない。決して。
 じわりと毒が染み出すように、空っぽの胸が締め付けられた。いつかはこの感覚に慣れるだろう。彼女は永遠にうしなわれたわけではなく、永遠に奪われなくなっただけなのだ。それを喜びと思えるように、この空っぽの心を飼い慣らさなければならなかった。

 誰かが、近づいてくる音がした。星々がまたたくだけの静寂を破る人が誰なのか、ヴィザにはわかっている。
「ヴィザ」
 声に呼ばれ、ヴィザは音を頼りに一方向を見つめる。
 やがてやわく照らされたのは、いつもと同じ無愛想な表情を浮かべるビオスだった。
 こちらに向かって歩いてくる彼は、先ほどまでのやり取りを全て見ていたはずだ。けれど、そのことには何も触れずに、ヴィザの側まで来ると立ち止まる。
「筋書きはこうだ。ナマエ・エリンは四大領主の結束を危ぶんだロドクルーンの残党兵に、さらわれ、殺害される。数日かけて捜索されるなか、俺が見つけ、領主に報告する。お前は、ナマエ・エリンが行方不明になる夜は、ベルティストン家の与えられた自室にいたことにする。お前は自分が捜索することを領主に請うたが、敵の正体も目的もわからなかったため、自室謹慎を言い渡され、何も関与できなかった」
 『窓の影』が、新たに門をつくりだした。その先は、ビオスのいうとおりベルティストン家の一室に繋がっているのだろう。
 彼の語った筋書きに必要な残党兵とナマエの身代わりは、すでに用意されているのだろうなと思った。おそらく、何か殺されるだけの理由があった人間が選ばれたのだろうが、それでもその二人はヴィザが殺したのだ。己の私情によって、殺されるべきではない人を、殺した。
「……なぜ、私に協力してくださったのですか」
 尋ねれば、ビオスは緩やかに笑みを浮かべた。あの時とは違う、穏やかとも言える笑みだった。
『俺を脅して『窓の影』を使わせるか? それとも、俺を殺して奪うのか? お前にその気があれば、スピラル殿は応えるだろうな。さあ――どうする』
 そう告げた、何もかもを見通していたビオスに、ヴィザは膝を折った。脅すことも奪うこともせず、ただ懇願した。
 お嬢様を玄界へ逃がしたい。そのためなら――何でもすると。
「今、この国で最も必要とされているのは何かわかるか?」
 問いかけられて、考える。神の国アフトクラトル。戦争を繰り返す常勝の軍事国家。戦火はこれからも広がり続けるだろう。
「……『星の杖』の使い手、ですか? 強い力を持つ、抑止力となるもの」
 そう思ったからこそ、ヴィザはナマエとともに行けなかった。彼女だけならばともかく、自分が国を捨てれば、必ず追っ手がかかると思ったから。
「半分は正解だな」
「では、もう半分は……」
「簡単なことだ、ヴィザ」
 ビオスが笑う。玄界から降り注ぐ光に柔らかく照らされた顔は、しかし優しさとは無縁だ。
「忠誠だ。
 俺が――〝俺たち〟が欲しいのは、決して裏切らない、忠実な駒だ」
 酷薄の笑みはヴィザに全てを理解させるに十分だった。
 冷たさを帯びた風が泉に小々波を起こして、ヴィザの頰を撫でていく。背筋が凍る感覚が駆け上って、全てを理解する。
 ヴィザは、彼の手の上で転がされていただけなのだ。ビオスの向こう側にいる、誰かに。こうあるべきとされた道の上を、歩かされただけ。
「お前の心境を思えば、裏切れない、かもしれないが」
「……もしも、私が貴方を――貴方の主を裏切れば、」
「ナマエ・エリンの元に、俺は行くことができる」
 それが答えだった。
 ヴィザは、その場に跪き、深く深く頭を垂れた。貴人への最上位の礼を、捧げる。
「怒らないのか。騙したなと」
「……いいえ。私一人であのお方の未来が得られるなら、なんと安いのでしょう」
「俺たちとしては、貴族の娘一人でお前を飼いならすことができる、何とも安い買い物だったが。……ガレオスとの婚姻にしたところで、代わりはいるしな」
 ヴィザが、己のために不幸にした人間が、また一人増える。これがあるべき運命を捻じ曲げた報いなのだろう。例え――ヴィザがこの運命に逆らおうとすることさえ見越して、定められたものであっても。
「……もしも、私がお嬢様と共に国を捨てようとすれば、如何なされましたか」
「お前を殺して、ナマエ・エリンはガレオスにくれてやった。あの人は、お前が敵に回ることだけは避けたいと仰ったのでな」
 妥当な判断だ、と薄く笑う。扱えない駒は敵に拾われる前に壊すべきだ。『星の杖』の使い手はこの後も現れる可能性がある。ヴィザも所詮、替えのきく存在だ。
「あの人とは、ベルティストン家の次男でしょうか」
 現領主の次男は、確か、ビオスと同じ年頃だったはずだ。ガレオスがエリン家を訪れたとき、ともにいた影の薄い青年の姿が蘇る。
「……あの兄弟の確執を知っていたか?」
「もとより領主の駒である私を御したい人間など、その方ぐらいしか思いつきません」
「……賢い人間は嫌いではない」
 彼の方は、嫡子に変わって領主になろうというのだろうか。もしもそうならば、ヴィザに求められる役割も理解できる。
 スピラルは領主のものだった。ヴィザも領主のものとなるはずだったが――今日、この時より、ヴィザは彼のものになる。彼は、『星の杖』を得た。人智を覆す圧倒的暴力を、得るのだ。
「だが、もう少し早く気づいていれば、ナマエ・エリンを妻と望むこともできただろうに。今生の別れをせずとも」
 そう、声が響いて。ヴィザは跪いたまま応える。
「弱点のある駒を、彼の方は信じてくださいますでしょうか。……誰にも手の届かない場所へと行くのが、お嬢様にとって何よりもの平穏に繋がることぐらい、浅学の身なれど理解できます」
 彼女を妻とできれば、ヴィザはこのうえない幸福を得るだろう。だが、ヴィザの――『星の杖』の使い手の愛する存在となることの、危険性も理解している。彼女を人質にとられればヴィザが何だってしてしまうことは、たった今証明したところだ。
 だからこそ、ヴィザが彼女と共に歩む未来は、どこにもないのだった。ヴィザが『星の杖』に選ばれたその時点で、確定していた。
 そしてそのことを、ビオスが分かっていないとも思わない。
「賢い人間は、嫌いではない」
 同じ言葉が繰り返されて、やはり試されたのだと思った。
「……ヴィザ。そこまでの賢さがあるお前のことを、俺は今、誰よりも信じよう」
 ビオスが、声に宿っていた厳しさを少しだけ和らげた。
「心せよ。お前が往くのは茨の道。屍を積み上げ登る高み。お前がどう思おうと、祖国に背いた事実は消えない。故に、二度と逆らうことは許されない。非道を為す覚悟はあるか」
 和らいではいても、そこに優しさはなかった。ただ忠義を尽くす者の声がある。ビオスは、ヴィザとは異なり、最初からその人に仕えているのだろう。ヴィザがナマエにそうしたように、誰に頼まれるでも、脅されるでもなく。
「全て、承知しております。幸いにして、我が身に与えられた『星の杖』は、私が老いていこうとも、戦場へと立たせてくれるでしょう。――彼の方に、生涯剣を捧げることを、誓います」
 ヴィザの心は、ナマエと共にある。スピラルから託された『星の杖』は、ヴィザが死ぬその瞬間までは、この手にあってくれるだろう。だったら、ここにあるのはただの躰だ。かつて側にあったものを懐かしむだけのがらんどうの躰だ。それなら、ヴィザはいくらでも敵を屠るためだけの兵器になれる。
「……こちらも、お前を裏切れない。お前が裏切らない限りは。約束や契約ではなく、ただ事実として伝えておこう。あの人は、そういう無意味は為さない」
 ありがとうございます、と囁いた。ヴィザが駒でいさせるために、彼らは決してナマエに手を出さないだろう。虎の尾を踏みに行くようなことは、しないはずだ。
 ナマエは、きっと怒るだろう。国を捨てさせて、そのうえヴィザの自由を奪って、ひとりだけ幸せになれというの、と。瞼にありありと浮かぶその様子に、ヴィザは笑みを浮かべた。

 それでも、彼女が幸せなら、ヴィザは幸せだった。心の底から――幸せだった。

   ◇

 エリン家の屋敷は悲しみに包まれていた。すれ違う誰もが涙を浮かべ、あるいは腫れ上がった目元や震える唇を隠している。そして一様に、ヴィザを見つけると顔を伏せた。誰よりも悲しんだ男の顔をして、ヴィザは屋敷の奥へと向かう。
 屋敷の奥に、棺が安置されていた。これから土の下に埋められる、その直前だった。
 この葬儀に立ち会うことを、遠征を控え多忙であったヴィザが許されたのは、領主の次男がそうすべきだと領主に進言したからだと訊いていた。そうすることで彼は人徳者であるという名声を得る。ビオスは、あまりにも憔悴しているということにして立ち会わなくてもいいとは言ったが、ヴィザも、そうすべきであると思った。『彼女』はヴィザのために死んだのだから。
 棺の蓋を開けようとしたヴィザを、エリン家の当主が止めた。

 『ナマエ・エリン』は、行方不明となってからしばらく、領地の端に広がる森の奥の泉で発見された。捜索していた領主直属の部下であるビオスが見つけたとき、『彼女』は既に事切れ、泉に浮かんでいた。泉のほとりには瀕死のロドクルーンの残党兵が倒れていたという。ビオスは、『彼女』が敵にさらわれ、しかし貴族の一員として決死の抵抗を為し、敵に重傷を負わせることに成功するも殺害され、隠蔽のために泉に沈められたのだ、と推測し、それを領主に報告した。
 その報告を受けたエリン家当主の取り乱す様は、常に穏やかな彼らしいものではなかったという。

 今、最期に『彼女』と対面しようとしたヴィザを止めた当主の瞳は、涙こそ浮かんでいないものの、赤く充血していた。
「見ないほうがいい」
「……旦那様」
「……もはや、あの子の面影はない。薬師がいうには、長く水に浸かっていたせいだという。ヴィザ、おまえは見ないほうが良い」
 水に浸かった死体が、醜く変色することはヴィザも知識として知っていた。同胞がそうなった場合、可能ならば尊厳を守る為にすぐさま引き揚げよ、と習った。
 彼は、棺のなかを見たのだろう。だからこそそう言ってくれる。ヴィザは首を横に振った。ヴィザは『彼女』の死を誰よりも悼まなければならない。そうでなければ不自然であるということ以上に、ただ、己のために殺した人を、その死を、見なければならない。
「こんなことなら、おまえに、」
 続く言葉の正体を知っている。ヴィザと彼女が結ばれる未来を夢想したのは、きっと自分だけではないのだろう。
「旦那様。どうか、二人きりにさせてはくださいませんか」
 遮って当主に退室を請う。彼に、娘だと思っている『彼女』の遺体を何度も見せたくはない。
 当主はぐっと目元を歪ませ、ヴィザと『彼女』を二人きりにしてくれた。こんなときであっても優しくある、この人のことが好きだった。

 棺の蓋を開ければ、腐臭を誤魔化す為の花と香油のかおりが鼻を掠めた。けれどそのにおいの奥に、言い逃れのできない死がある。
 『彼女』の体は、まさに醜いとしか言いようがなかった。長く伸びた薄茶の髪は、彼女のものとはわずかに色が異なる。けれど、彼女の死という事実と直面し、視界を潤ませた人々には気付かれない程度の差だ。領主直属の部下であるビオスは、実直な男とも知られている。彼が嘘をつくはずがないという先入観が、『彼女』の正体を覆い隠す。
 顔にかかっていた黒のベールを捲り上げて、ヴィザは眉をぎゅっと顰めた。死に化粧では隠しきれない、痣と、砕かれた輪郭は、『彼女』を彼女に仕立て上げるためだろう。
「……申し訳ありません」
 どうか、ヴィザを恨んで欲しかった。本来の家族に送られぬ『彼女』に、『彼女』を彼女と信じ涙するすべてのひとに。
 けれどきっと、恨まれることも、嘘つきと誹りを得ることもない。何故ならば、これはヴィザが墓場まで秘する真実だからだ。陽の光を浴びぬ、土の下に埋められる真相だからだ。
 だから、その全てを背負って、ヴィザは戦場に立とう。正しく護国の英雄として。ただ一振りの、護国の剣として。決して許されぬ罪だ。赦して欲しいと、誰にも願わない。
 戦場で死のうと思った。元より、戦いで散る命とは知っているけれど、たとえ戦場ではなくとも、誰かに殺されて死のうと思った。穏やかな余生などいらない。斃れるそのときまで戦おう。贖罪にもならないけれど、それだけが、人を踏みにじり我欲を叶えた己ができることだ。
 頰を伝う涙が誰に捧げたものなのかはわからなくて、ヴィザは目の前の『彼女』に向けて囁く。せめてこの言葉だけは、『彼女』に捧げようと。
「どうか、安らかに……どうか、私を恨んでください」


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