約束

 蕩けた闇の中に、ヴィザは揺蕩っていた。微睡みに落ちる寸前の感覚がある。このまま何もかも手放してしまいたい――そんなことを思って、どうして自分はこの闇のなかにいるのだろうと考えた。
 思考しようとすると、じぃんと頭に痺れがはしる。記憶を浚うのは一苦労だ。ただでさえ最近は物忘れをするようになってしまった。闇のなかで己の手を見つめれば、そこには剣を振り続けた男の手がある。剣を握ることに最適化した手は、細かな皺が増えた。まだ老年というべきほどではないが、青年とはもう呼べない手だ。
 時は無情にも過ぎ去って、ヴィザに成長を、そして老いを齎し始める。かつて愛おしんだ人々は、悉くがこの手から滑り落ちていった。
 そういえば、スピラルの手は、ちょうど、こんな手だった。懐かしい名を思い出す。彼から託された『星の杖』は、この闇のなかにはなかった。

 すこし、思い出した。アフトクラトルは四大領主家が一角、ベルティストン家の当主――ヴィザが主とした領主の命で、自分は国をひとつ、落としたはずだ。祖国からは遠く離れた軌道をはしる星は、既に亡国となり、後続の部隊がマザートリガーを抑えた。
 さて。では、どうして自分は闇を揺蕩っているのか。
 細い糸を手繰り寄せるように、記憶を追う。敵の首領を落とし、将を討ち、王を手にかけ――後続部隊と合流し、占領した館で体を休めていた。
 そして。ああ、思い出す。部屋に少年が入ってきた。整った身なりの、後続の部隊に経験を積むための新兵として駆り出されたのだろうかと思えた、少年が一人。
 安楽椅子の上で、すこしの温めた葡萄酒を飲んでいた自分に、何かつまめるものを持ってきてくれたのだったか。そしてその少年は、懐の下に忍ばせていた刃を、ヴィザの腹に突き立てたのだ。

 なるほど、と独り言つる。声はでなかった。どれだけ見渡しても広がるのは闇ばかりなのに、自分の手は見える。ここはきっと、冥土の入り口なのだろう。
 すん、と鼻を鳴らせば、湿った土と黴のにおいがする。スピラル。彼の最期を看取った、あの場所を思い出した。
 腹に手をあてると、皺の増えた手は赤く汚れた。不思議なことに痛みはない。ただ、その赤を見た途端、妙に腹が熱くなる。きっと刺された場所が熱を持っているのだろう。これが冷たくなったときが、ヴィザがこの命を散らすときなのだと思えた。
 少年に刺された後のことは、思い出せなかった。『星の杖』はあのときも傍らにあったから、反撃しようと思えばできた。自分はあの少年を殺したのだろうか。隣の部屋には、後続部隊の一人が控えていたはずだが、彼はヴィザの休んでいた部屋で起こった異変に気付いただろうか。
 何にせよ降り積もった恨みの為すまま、ヴィザにどのような仕打ちをしてくれようと構わないが――『星の杖』だけは、粗野に扱わないでほしいと思う。
 ああ、そう思うのならば、もしかしたら自分は少年を殺したのかもしれない。己が、『星の杖』を誰かに奪われるような失態を犯すとは思えない。人を殺す感覚はすっかりこの手に染みついて、真実はわからない。けれど、だからこそ、確信を得る。きっと、殺したのだろうと。
 それならば、思い残すことはなかった。

 瞼を閉じた。そこにも闇は広がっていたけれど、己の手は見えなくなる。
 殺されることに文句はなかった。報いを受ける覚悟は決めていた。いや、それは覚悟というよりかは、自分は当然、報いを受けるだろうという、冷静な推察だった。罰を受けたかったのだ。許されぬ罪に対して、赦してほしいわけでもなかったけれど、罰は欲しかった。
 このまま死に向かい行くならば、それもまた、良い。殺し尽くしてきたのだ。敵も、己も。あの日の背信を、生涯一度きりのものとするために。ただ、あの方の平穏を脅かさないように。
 疲れたと、嘆く資格は道具にはないけれど。それでも、使えば磨耗するのが道具で、壊れる時が来ることには違いない。それが今だというのならば、きっとそれを引き止めるひとはいないだろう。十分に、殺したのだから。道具を想って泣いてくれるひとも、もういない。
 それは寂しいことではなかった。この死に様をあのひとたちが目にすることがないのであれば、それは良かったと言えてしまうことだった。
 闇のなかで睡魔にも似た感覚に身をまかせる。融けていくような、解けていくような。そんな気がして、それに抗う気力も湧かない。

 不意に、花のかおりが掠めた。

 どこからか、けれど確かに。死のにおいを覆い隠そうとするものではなく、野原にからだを横たえたときに、ほんの少し拾えるような優しいかおりだった。
 閉じていた瞼を、そっと開いた。あたりには変わらない闇があるだけだと思ったが、ある一点を見つめると、ゆらりと揺らめく。光――あるいは星の。
「……お嬢様?」
 声が出た。低く落ち着いた、落ち込んでしまった、男の声だった。少年のあの日はもう随分と遠い声だった。
 意識が急速に落ちていく。目醒めていく。微睡みにとけていくような感覚が遠くなり、癒着した闇と引き剥がされていく。腹が痛んだ。ずくずくと、高まりきった熱に痛みが戻る。
 ヴィザ、と己を呼ぶ声が聴こえた。


 ドサッ、と重たいものが落ちる音が暗闇に響いた。ヴィザがゆるりと目を開くと、窓辺に動く影がある。開いた窓は風を誘い込み、分厚いはずのカーテンがふわりと広がった。そこから、やわらかな光が差し込んでいる。夜明けの光だった。
「……お嬢、さま?」
 窓辺にうずくまっているのは一人の少女だった。亜麻色の髪がやわく照らされて、涙目で頭を抑えている。窓から忍び込んで、落ちたのだと気付いた。ヴィザが壮健であったならば下敷きになって受け止めたが、己の身体は柔らかなベッドに寝かされている。
 ベッドの上で寝かされているヴィザは、幼い少年の姿をしていた。疲れ果てた男の姿はなく、けれどそれに違和感を覚えて、これが記憶であることを告げられる。在りし日の再生でしかないのだと。
『ヴィザ』
 きゅう、と胸が締め付けられた。懐かしい声だった。
 この記憶のなかのヴィザも、同じように心を痺れさせていた。雨の行軍訓練で倒れて以来、彼女と顔を合わせていなかった。埋められなかった空白が、さみしさが、じわじわと満たされていく。
 立ち上がった彼女が何を抱えているのか、記憶の再生を見つめるヴィザは知っている。けれど、それを知らなかった少年は、彼女の腕に抱えられているものを見て目を丸くした。
『あのね、なかなか、晴れなくて』
 少女が歩けば、はらりと花がおちる。白と、橙と、赤と――数え切れないほどの花が、少女の腕に抱えられている。
『お見舞いには、お花が、いるものね?』
 ヴィザが起き上がろうとすれば、少女は『寝てなきゃだめって言われたでしょう?』と頰を膨らませた。優しくベッドの上に戻して、摘んだばかりの瑞々しい花を枕元に置く。それをただ見つめていた。焦がれた空が、蒼の瞳が、手の届く位置にあった。
『どうしたの、ヴィザ……どこか、いたい?』
 蒼の瞳が滲んで、雨が降り出す前の空のように曇る。『いやよ』と短い声がないていた。
『しんじゃ、いやよ。ヴィザ』
 じわりと、瞳が熱をたたえる。頰を滑り落ちた涙を、少女がちいさな指先で拭ってくれた。それでようやく、ヴィザは自分が泣いていたことに気づくのだ。
 見放されたかと思っていた。忘れられたかと思っていた。けれど彼女が自分のために、こんなにも朝早くから摘んできてくれた花は目の前にあって、彼女は死んではいやだと言う。
 お嬢さま。お嬢様。そう呼ぶ声が、記憶と重なる。
 ――ご安心ください。ヴィザは、あなたを残してひとりだけ先にいく、主不幸の従者ではありません。
 少女が、笑みを浮かべた。潤んだ蒼の瞳が甘やかにとろけて、ヴィザを見つめる。

 ――約束よ。

   ◇

 花が生けられていた。霞む視界に映る、白と蒼の花は誰が摘んだものだろう。亜麻色の髪の彼女でないことだけは、確かだった。
 自分は寝かせられているらしい。周囲にあるのは見慣れた領主の館の一室で、エリン家のものよりも上等なベッドが、己の身体を優しく受け止めていた。薬が効いているのだろうか。刺された傷に痛みはなく、ただ包帯を巻かれた圧迫感と、すこしの違和感があるだけだった。
 ベッドサイドのテーブルには、花の生けられた花瓶と、その傍らに『星の杖』が立てかけられている。
 それを見つめて、『星の杖』を護るために自分があの少年を殺し、そしていのちまでも繋ぎとめたのだと察した。
 コン、と響いたノックの音に「どうぞ」と返せば、扉の向こうで慌てた足音がする。誰か、治療してくれた薬師だったのかもしれない。となれば、このあと部屋に現れる人物が誰であるかは予想がついた。
 しばらくすれば、扉が開けられる。中にいる人間の許しを得ずに扉を開けるのは、館の主人の特権だ。
「領主様」
 と、ヴィザがベッドの上で身体を起こせば、老いの見える領主は頷いた。
「目が醒めて何よりだ、ヴィザ。お前にしては珍しく、油断でもしたか」
「……少し、酒をいれておりましたので」
「気をつけろ。今更、お前の働きを無為にする気はないが、お前は既にこの領地の柱。崩れるのは避けたい」
「心得ております」
「傷は痛むか?」
 その問いかけは、後遺症はないか、まだ働けるか、という意味だった。ヴィザは首を横に振る。幸か不幸か、この身体はまだ戦えそうだった。
 そうか、と声が応える。一瞬の沈黙があって、その空白に騒がしい音が入り込んだ。パタパタと、廊下を誰かが駆けていく音だった。
「……騒がしいですな」
「ああ。お前が眠っている間に孫が生まれてな。世話役の下女だろう」
「おや……私は、いったいどれほど眠っていたので?」
 領主の息子夫婦に、子供の兆しがあったことは知っていた。ヴィザがあの国に遠征に出たときには、まだ臨月でもなかったはずだが。
「五日だ。孫は早産でな。薬師がいうには、健康状態に問題はないらしい」
「……では、予定通り、角はつけられるのですね」
「そうなる。角を植え付けること自体による死亡率はほぼ零となった。力を得る機会を逃すことはできん。……数年は様子を見るがな。そもそも赤子は死にやすい」
 相変わらず、合理的な方だと苦笑する。無慈悲にも近い合理さは、けれど領主としては限りなく正しい姿なのだろう。
 彼が進めているトリガー角の研究が、このアフトクラトルへもたらすであろう恩恵はあまりにも大きい。そのために冒された実験も、失敗も、非人道的だという指摘も、全て覆えてしまう程度には。民がなんと言おうと、彼は領地を守る者としての選択を違えたことはない。
「……名は、何とされたのです?」
「ハイレイン、と名付けた」
 ヴィザは、目を瞬かせた。その名は、目の前の人間の名でもある。
「――御身と同じ名を?」
「験担ぎのようなものだ。息子は体が弱い。家督を譲る先は、早急に確保しなければならん」
 もう、そんなことを考える歳になっていたのかと、少しだけ驚く。ヴィザの手綱を握り、兄から当主の座を剥奪した男は、もう跡目を見つめる年齢になっていたのだ。ヴィザがまだ少年と青年の境界を漂っていたあの頃、既に妻子を得ていたとはいえ、流れた時の重さがずしりと響く。
 ナマエ。彼女は、いくつになるのだろう。だれか、愛する人を得ただろうか。我が子を慈しむ母となったのだろうか。万が一のときにと渡した通信手段は一度も使われなかった。それはきっと、彼女に危険がなく、幸福な日々を過ごしているということだった。
「お前はどうする」
「どうする、と申されますと」
「……お前に家名をやってもいいと思っている。そのためには、跡目を譲る先も見据えておかねばならない」
 家名を得る、ということは、家を持つということだ。そして貴族社会に組み込まれるということでもある。
「……貴族の地位など、今更必要でもありません。過ぎた権力は我が手には余りましょう。後顧の憂いを断つという意味でも、跡目は『星の杖』の選択に委ねます」
「伴侶はどうするつもりか」
「迎える必要もないでしょう」
「それで――それがいいのか」
「はい。私に外戚ができることは、厄介はあっても得はありますまい……領主様にとっては」
 それに、彼女を得られぬこの身に誰かを嫁がせるには、あまりにも相手が不憫だ。他の誰かを忘れられない男のもとで、幸せになれる女はいない。自分のことは、もう、どうでもいいが、女性を泣かせるのは苦手だった。散々、女性の扱いがなっていないと怒られたことであるし。
「では、総てそのように取り計らう」
「有難き幸せに御座います」
 恭しく答えれば、領主は要件は終わりだと背を向けた。次の遠征の日取りを伝えることは忘れない。それによると、己に与えられた養生期間は容赦のない短さだが、国を獲るのに不都合はないだろう。トリオン体へと換装し、戦いの中に身を置いていれば、あらゆる痛みは遠いものとなるのだ。便利な身体だった。
 既に心はなく、この躰はがらんどうで、道具と成り果てた。けれど、その名を浮かべれば、空洞にあたたかなものが満ちる。その感覚があるうちは、ヴィザは、きっと生きているのだ。
 ヴィザはそうして、これから先も生きていくのだろう。彼女の生死もわからぬ土地で、けれど彼女よりも先に死ぬわけにはいかないと――そう足掻くさまは、なんと滑稽なのだろうとわらった。


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