護国の剣

 護国の英雄にして剣、至高の軍人。
 アフトクラトルにおいて、今や、その言葉はただ一人の男を示す言葉だった。国宝の黒トリガーである『星の杖』を自在に奏で、戦場にあってなお穏やかに笑う老兵。しかしその刃は苛烈に、歯向かう敵を悉く斬り刻む。
 そう評されることに、感慨は抱かなかった。褒め称えられることを誇らしいとも思わなかった。ただ、そのように評されるうちは、玄界で生きているであろう彼女に危害が及ばないことは確かで、そのことは嬉しいと思えた。
 誰に何を言われようとも、ヴィザの心にあるのはそれだけで、けれどそれを知っているのは、ヴィザ一人だけだった。


「ヴィザ翁」
 声をかけたのはランバネインだった。ハイレインとの軍議を終え、参加した領地の兵が散り散りになって部屋を出ていくなか、名を呼ばれて立ち止まる。
「如何されましたか、ランバネイン殿」
「この後時間が空いていれば、手合わせでもと」
「あぁ……お誘いは嬉しいのですが、ランバネイン殿はこの後、領地境の砦へ向かわれるのでは?」
「ほんの肩慣らし程度だ。どうだろう、無理にとは言わないが」
 わずかに、気遣うような視線が送られる。ヴィザはもう、翁と呼ばれるに差し支えのない年齢だから、そういう視線にも慣れている。
 ヴィザ翁、と呼び始めたのは誰だったろうか。そう呼ばれるのが似合いの老兵となってしまったのは、いつだったろうか。
 時は平等に流れ行く。そのはずなのに、ヴィザはあっというまに老いていた。若き日々とは、一年のはやさがあまりに違う。今でも、その日の夜を越すのは長いと感じるのに、過ぎ去ってから思い返してみれば短いのだから、人生とは不思議なものだった。
 それでもヴィザは、未だ戦場に立っている。多くの同胞が死んでいくのを見送った。多くの敵を冥土へと葬った。奪い取った命の怨嗟の声が夢にでることも、最早ないほどに。そんな若さもすり減る程度には、この手は赤く汚れている。
「構いませんよ。中庭の訓練場でよろしかったですかな」
「おお! 有難い。ヴィザ翁と手合わせなど、そうそうできないのでな」
 にかりと笑った大男は、なんとも嬉しそうだった。純粋に戦いを楽しむ、武人の気持ちもわからなくはない。ヴィザも、楽しんでいないとは言えないのだろう。億劫だと思ったことはあっても、この身はただの道具でも。もはや戦いしかない人生において、戦闘の楽しさは甘露も同じだった。
「悪いな、ヴィザ」
 作戦室の椅子に座したままのハイレインが、苦笑しながら告げた。祖父と同じく、合理的な領主としての面が強いが、彼よりはいくらか家族想いである。
 この二人のどちらであっても、ミラは伴侶としてそう苦しむことはないだろうと思えた。当人や、その周りがどう思うかはまた別ではあるが。
「ハイレイン殿も、手合わせをなされますか?」
 ヴィザが尋ねると、彼は仕事が残っていると首を横に振った。ランバネインがそれは残念だと眉を下げる。
 弟を自由にさせる兄、兄を慕う弟、という図は、かつての領主の兄弟たちとは違い、少し安堵を覚えた。跡目争いの壮絶さは既に知っている。
「ではヴィザ翁。後ほど」
「ええ。楽しみにしておりますよ」
 そう笑みを返して、ランバネインが出ていくのを見送った。

 部屋に残っているのは、気がつけばヴィザとハイレインの二人だけだ。つい、と視線が向けられる。冷静な目は、彼の祖父や、その忠実な配下だった男を思い出させた。
「……どうされました、ハイレイン殿」
「いや……ヴィザは、玄界からの帰りはいつも顔色が優れんのでな」
 じっ、と観察するような視線に、笑みを浮かべる。はて、そうでしょうか。とぼけてみれば、ハイレインはわずかに目元を窄めた。訝しむような視線に晒されるが、怯えはしない。ベルティストン家の当主を拝命していようと、ハイレインはヴィザの過去を知らないだろう。
 つまり、もう、ヴィザが出奔したところで、玄界にいる彼女に危機は及ばない。だが、放り出す気はなかった。軍人としてこそ育てられた己が、恩ある家と祖国に背いたのは事実であり、それに対する贖いはしなければならない。
「何か、玄界に思い入れが?」
 その冷淡な声は、やはり祖父譲りなのだろう。同じ名を持つからといって、そこまで似なくともよいものをと笑った。
「そのように見えますか?」
「……いいや、気のせいということにしよう」
「おや、言い訳は用意しておいたのですが……披露せずともよろしいのですかな」
「ああ、訊かないでおく。訊いたところで、俺がヴィザに向ける信頼は変わりない」
「そうも信じていただけているとは。光栄ですな」
「……あの祖父が、信じても良いと言ったのはヴィザだけだった。その言葉の重みは心得ているつもりだ」
 実の父と兄を蹴落として当主の座についた男は、確かに疑ぐり深かった。彼が信じるヴィザのことは、誰よりも信じられるという判断は間違っていない。ヴィザは、もう裏切れないのだから。
「そして、ヴィザに裏切られたくなれけば、こちらが裏切るなと――そうも言っていた。だから俺は、ヴィザを誰よりも信じよう」
 その約束は、きっと正しい意味までは伝わっていないのだろうが、それでも有効らしい。ヴィザは目を細めて笑った。己の生命が、まだ彼女の幸せの礎になっているというのなら、それもまた幸福だ。
「……それに、自分が生まれる以前から国のために戦ってきた『ヴィザ翁』を疑うことほど、馬鹿らしいことはないだろう」
 無条件の信頼は積み重ねてきた年月によるものだという。生涯を尽くす理由が、裏切ったという事実を贖うためだと言ったなら、彼はどんな顔をするだろうか。少しだけ見てみたい気もしたが、ヴィザは頷くにとどめた。
「ハイレイン殿の信頼に応えられるよう、精進いたしましょう」
 これ以上強くなってどうするのか、と笑みを含んだ声が言う。ヴィザは笑って、これからは弱くなるばかりでしょうなと答えた。

 ハイレインに別れを告げ、ヴィザは館の無骨な廊下へ出る。
 周囲を見渡してみたが、もうミラの姿はなかった。
 作戦室へ向かう前のことを思い出して、話したいような気もあったのだが、それは叶わないようだ。かけるべき言葉も持たない身ではあるので、これでよかったのかもしれないが。
 『星の杖』をつけば、カツンと音が響いた。トリオン体になれば感じないが、老いは確実にヴィザの元へ這い寄っている。節々の痛みは、成長痛を思い出させるが、実際は真逆の変化なのだ。
 この身体は老いていくばかりなのに、だんだんと、死ぬのが難しくなってきたなと思う。軍人としてここまで上り詰めた実力においても、アフトクラトルという混沌の国を成り立たせるにあたっても――そう易々と死ねはしないだろうという感覚があった。
 その感覚は、せめてそうでありたいと思う欲深さなのかもしれないが。国とは、巨大ないきもののようだ。大小様々な生き物が寄り合ってひとつの形を為している。その中で、自分が繋ぎ止めている部分が大きいような気がしても、それが全てではない。
 ヴィザが死ねば、その役目を継ぐものが自然と台頭するだろう。もう、いつ死んだところで、早過ぎたということはない年齢だ。
 かつて、同じように至高の軍人と呼ばれた人は、『アフトクラトルはさらに強大となる』と言った。その通りに、肥大していく土地はもはや溢れかえる臨界に達しており、猶予はない。
 先だっての玄界侵攻では、神を獲りこぼした。であれば、次代の神にはエリン家の現当主が選ばれるのであろう。彼女と、同じ血の流れるものが、死ぬのだろう。
 自分と同じように、その選択に――犠牲に、強く抗おうとする意志を持った青年の姿を思い描いた。昔の縁が巡り合わせ、手ずから剣を教えた、今は玄界に取り残された青年。自分と同じ、エリン家に育てられた平民階級の軍人。
「ヒュース殿は……」
 あの地で、彼は何を見るのだろうか。
 自分はもしかしたら、彼を護れたかもしれない。護れる力はあった。護りたいと思う気持ちが、全くないわけではなかった。
 だが、二度の背信は許されない。だから、ヴィザは命令に従って彼を見捨てたのだ。手塩にかけた剣の弟子を、既に死んだものとした。
 結局、ヴィザはまだ、彼女を捨てられずにいるということだろう。新しい世界では生きていけなかった。角のない己の頭は、中身まで古い。
 彼女は、きっと、新しい世界で生きているだろうに。ヴィザだけが、過去に取り残されているのだと知っていた。
 玄界へは、もう何度か遠征をしている。けれど、玄界へ逃した彼女の欠片を見つけることもなく、ヴィザは彼女のいるであろう世界の一部を壊してアフトクラトルへ帰るばかりだった。
 見つけなくていいのかもしれない。見つけてしまえば、自分は無理にでも彼女をこの腕のなかへ囲い込み、たとえ彼女に大切な者がいたとしても略奪してしまうかもしれない。そうしてしまえるような渇きは、胸の奥底にあった。翁と呼ばれる歳になっても、なんと浅ましい想いが宿るのだろう。己に嫌気が差す。
 恋をする老人ほど、惨めで愚かなものはない。
 どこかの国の詩人が言った、その言葉に頷くばかりだ。英雄と、至高と、そう誉めそやされても、ヴィザの根底はそれだった。ただただ惨めな男だった。護りたいものを護れず、護りたいものを遠ざけることでしか護れなかった、愚かな男だった。
 エリン家の令嬢が敵兵に殺されたという虚構は史実となり、真相は土の下に葬られたまま、顔を出すことはない。抱えるには重すぎるが、捨てるわけにもいかない。
 老いた体に、過去は重く伸し掛かる。報われることなどないのだ。それでいいと言えた若さがとうとう消えてしまえば、賞賛にしがみつく老人となってしまうのだろうか。それは、あまりにも醜い。

 ――その時は、『星の杖』に裁かれましょう。

 ぼんやりと考える。ヴィザの運命を、良くも悪くも定めた、人智を覆す力の塊である、彼の方に。自分の終わりを捧げられる先は、もうそれしかなかった。
 剣は領主に捧げた。
 そして心は、彼女に捧げた。
 それならば、ヴィザはきっと、気高くあるべきだ。誰よりも気高いお嬢様に、相応しくあるべきだ。故に、そうでなくなったのならば、この生命は終えるべきだ。

 けれど。
 もう少し。もう、ほんのわずかだけ。耳の残る声が、言葉が、忘れられぬうちは。
 ヴィザは、護国の英雄として、剣として。至高と呼ばれる軍人として。老いた身体にいくらでも鞭を打ち、生き続けよう。

 しんではいやだと、彼女は言った。ヴィザは、もうお嬢様のわがままは叶えませんと、言ってしまったけれど。本当はいくらでも、叶えたかったのだから。


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