玄界が離れていく夜空を、もう幾夜見送っただろう。あの時と同じように、今宵も玄界はヴィザを残して離れていく。

 さくり、と踏みしめた大地がわずかな音を立てた。草原を撫でていく風は、かつてよりも冷たく、荒い。星の生命に限界がきているせいだろう。このあたりはまだ草花に覆われているが、領地の端では土地痩せが目立つようになっていた。
 まるで己のようではないか。老いていく身体と、星を重ねてわらう。マザートリガーが挿げ替えられるように、『星の杖』の使い手も、いずれ入れ替わる。そうして、国も、護国の剣も、生きていくのだ。ヴィザという男を、ひとり残して。
「ナマエ」
 周囲にだれもいないことを確認してから、その名前を紡いだ。決して、口にしてはいけない名だった。
 彼女ははるか昔に死んだことになっている。古い死人の名を無闇に呼ぶべきではなかったし、何より、ヴィザが彼女の名を紡ぐことの、なんという罪深さだろう。すべて捨てろと言ったのだ。全てとは、生まれも、家族も、名も、ほんとうにすべて。
 それを彼女に望んだヴィザは、まだ捨てられていなかった。自分ごと捨てろと言ったくせに、自分はひとかけらも捨てられてはいない。過去がどれだけ自分を苛んでも、彼女との記憶だけは、どれだけ些細なものも忘れられない。
「……ナマエ」
 名を紡げば、想いは溢れた。枯れたふりをしていた身体が、彼女を求めて叫ぶ。
 応じる声はない。ヴィザ、と己の名を呼ぶ声は、残響として耳に残るぶんだけ。あのうつくしい声が聴きたかった。甘さをのこした、けれど凛とした声が。
 きっと、もう、彼女はあの頃とはなにもかも違っているのだろう。亜麻色の髪はさらに色を薄めているかもしれない。あの声はすっかり甘さを潜めて、けれど穏やかに丸くなっているかもしれない。皺ひとつなかった手は、泉の水に長くくぐらせた時のようにふやけているのかもしれないし、肌だって焼けて、しみだらけになっているかもしれない。
 けれど、おそらく。あの、澄んだ春の空をそのまま閉じ込めた、蒼の瞳だけは。やさしく、あまく、とろけさせるような笑みだけは、きっと。変わらないだろう。あの瞳に見つめられると、心の全てを見透かされたような気持ちになった。けれどそれは一度として不快ではなく。無遠慮に触れることは、なかったのだ。いつだって慈しんだ視線だった。

 皺と傷に覆われた手を見下ろした。髪は白く変じて、生身の身体は重く感じるようになった。落ちた体力に歳だと笑うこともできる。
「……あなたのいない夜は、実はすこし、さみしいのですよ」
 不思議な話だった。彼女と添い寝をしたことが、ないわけではないが、それは本当に幼いわずかな期間のことだ。身に抱えて持て余すことになる、不遜な想いもなかった頃。
 彼女を腕に抱いたのは、たった三回だった。あの夜。窓から降りようと横抱きにした一回と、衝動で抱きしめた一回、彼女が己を抱きしめた一回。
 その、三回しかないくせに、彼女を抱いて眠ったことなど一度としてないくせに。今のヴィザは、ひとりで眠ることが嫌だと思う。ひとりの夜が、さみしいとおもう。
 これが青年の身体なら、まだこの寂しさもわかった。身体に振り回されているのだろうと笑ってやることができた。他のひとを抱いて、ひとときでも慰めることができた。
 けれど、違うのだ。
 枯れたはずのこの身体でなお、さみしいとおもうことの意味を、ヴィザの本能は知っている。他の誰でも癒されないのだと、わかっている。
 誰にも埋められない空白があることは構わない。けれどそこに浅ましい想いだけが広がっていく感覚がある。高潔さとは無縁の想いが、ある。そうだと知っているから、このさみしさが嫌になるのだ。
 それでも、そのさみしさを、受け入れるくらいには懐を深くできた。
 今更、どれだけ己を嫌っても何も変わらない。嫌になることなど、何度あったかわからない。そう思えばこそ、嫌になることでさえ受け入れられる。やれやれと溜息を落として、しようのない男だと笑えるくらいには。そうやって誤魔化すぐらいには。
 きっと青年の頃にはできなかったことだから、歳も重ねてみるものだと、笑った。
「……おやすみなさいませ、ナマエ」
 外套の内から取り出した、蒼いリボンにそっと口付ける。空にひときわかがやく玄界へ、そう囁いた。あの光の向こうに。ヴィザが何度も攻め入ったその世界に。あの世界をつくる光のひとつに。彼女が、今もいてくれることを願って。幸せに、笑って、暮らしていてくることを信じて。
 ――ヴィザは、ひとり、眠るのだ。


_完


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