初陣

「ヴィザ……」
 十七になったナマエが、美しさに磨きのかかった顔を歪ませた。心配でたまらないという顔だ。エリン家の屋敷の一室で、彼女に紅茶を淹れていたヴィザは苦笑する。
 ナマエの私室は、いつもやわらかく暖かな光で満ちていた。窓の外で春告鳥が鳴いている。いつもなら、爛漫に咲いた花々や、芽吹き始めた緑、それから小鳥の囀りに至福の笑みを浮かべる彼女は、この春は似合わぬ顔をする。
 ヴィザは十五を過ぎていた。声変わりも終わり、この一年で随分と背が伸びた。ようやく収まりはじめた成長痛に安堵し、ナマエを見下げるという視界にも慣れたところだ。
 もう、ヴィザの初陣を待つ理由はない。ようやくというか、早々というか、ヴィザの初陣はついに決まった。相手はロドクルーン。属国でありながら、アフトクラトルへと牙を剥いた彼らへの粛清戦争である。
「旦那様から説明は受けませんでしたか?」
 この戦争はアフトクラトルが圧倒的に有利だ。元々属国であるロドクルーンの技術をアフトクラトルは把握しているし、逆にロドクルーンはアフトクラトルの全てを知らない。単純な国の大きさでもアフトクラトルが勝り、近界においては常勝の軍事国家として知られる。トリオン兵はともかくとして、トリガー使いの人数も質も、ロドクルーンは決して勝てない。
「訊いたわ。でも、どれだけ有利な条件であろうと命の危険は常にある。……戦い、ですもの」
 戦線に出ることは殆ど有り得ないナマエが、戦争を恐れるのは当然の反応だろう。けれどヴィザは、この日のために鍛錬を続けてきた。恐れがないとは言わないが、それでも自分より心の揺れ動いたひとをみると、かえって落ち着ける。
「民の代わりに危険を承知で戦いに出る、そうして生かされるのが軍人ですよ」
 紅茶を注ぎながら答える。ふわりと広がる香りは、初めて会ったときと同じ茶葉だ。ナマエが気に入っているものだが、珍しい茶葉なので常飲はできない。今日、この日にそれを飲みたいと言ったのも、初陣が決まったヴィザのためだろう。
「分かってる、分かっているけれど、」
 繰り返された言葉の先は呑み込まれて、声にならず消えていく。快活な印象を人に与えるナマエらしくない様子だった。しかし、それがヴィザのためだというのなら、申し訳なくも嬉しいことだ。
「お嬢様」
「……なに?」
「ヴィザは、お嬢様の従僕です。それも忠実な。必ずや、お嬢様の元に帰って参りますよ。主を置いていく従者など、従者失格ですからね」
 笑みを浮かべながら言葉を紡ぐが、ナマエの顔は晴れない。でも、と口ごもった様を見て、すこしだけ眉を下げた。彼女がかなしんでいるのは、どうにも慣れない心地だ。
 初陣を迎えることは落ち着いて構えていられるのに、彼女のその表情に心はたやすく揺れ動く。理由などわかりきっていた。ティーポッドをテーブルの上に置き、華奢な椅子に腰掛けたナマエの足元に跪く。
「ヴィザ?」
 怪訝そうな顔を見上げ、視線をしっかりと交える。それから、最上位の礼を捧げた。
「どうか、私を信じてくださいませ、お嬢様」
 深々と腰を折れば、頭上でナマエが息を呑む。傅かれることがきらいなナマエに、この礼を捧げたのは最初の一度以来だった。あの頃とは違う完璧な礼は、過ぎ去った時と、これから離れていくばかりの道を明確に示す。
 元よりそうなる運命だった。彼女の傍らに在れる時よりも、一人戦場に立つ時間が長くなるのは。この穏やかな時間が、もう終わりを迎えることは。仕方のないことなのだ。けれど、ヴィザはナマエに出会えてよかった。一介の剣には、有り余るほどの幸運と幸福を得た。
「誓いを捧げること、お許しいただけますか」
 絨毯を見つめながら問いかけた。空気の揺れが伝わる。ナマエの心が揺れたようだった。
「……許します」
 すこしばかりの沈黙のあと、静かな声が降り注ぐ。恵の雨にも似た、さみしくもやわらかい声だった。
「有難き幸せにございます」
 顔をあげて、差し出されたナマエの手を、下からすくいとる。
 アフトクラトルでは、貴人へ特別の敬意を表す場合、手の甲に触れるだけの口付けを行うならわしがあった。それは敬意の表現であり、絶対の服従を宣誓するものだ。ちいさな子どもが遊びですることはあっても、大人になれば易々と行ってはならない。けれど、ナマエもヴィザも、まだ、大人ではないから、きっと見逃されるだろう。子どもではなくとも、子どものふりはできる。
「ひとつだけ誓って、ヴィザ。――必ず、生きて帰ってきなさい」
「……仰せのままに、ナマエ様」
 うつくしく伸びた指先を手のひらで包み、ゆるく己に引き寄せる。その甲に口付けを落とせば、冷たい感触がかえってきた。昔は熱いくらいだった手はすっかり冷たくあるのが普通になっていて、彼女がそれに悩んでいたことを思い出す。
「必ずよ、ヴィザ。忘れちゃだめよ」
 声はわずかに震えていた。そっと唇を離して、顔をあげて微笑む。手を離せば、ナマエは指先をきゅっと握り込んだ。
「そう念を押さなくても……お嬢様はまことしつこくあらせられる」
「……悪かったわね」
 拗ねた声が応えた。跪いたまま、久しぶりに見上げるナマエをじっと見つめる。美しい淑女となった彼女は、やがてその唇を他の男に許すのだろう。そこに、ヴィザはいれない。だから、せめて誓いだけは残そうと思ったのだ。
「そのような怒った顔よりも、お嬢様は笑った顔の方が愛らしいと存じております」
「褒めたって何もでないわよ」
 軽口を叩けば、不格好ながらもなんとか笑みを浮かべてくれた。その優しさに感謝しながら、ほっと胸を撫で下ろす。
「……あなたがせっかく淹れてくれた紅茶が冷めてしまうわ。お茶にしましょう、ヴィザ。座って」
 次に浮かべた笑みは、やはり元気はないものの、少し気が抜けたものだ。
 まだ婚約もしていないとはいえ、十七になってなお一介の従僕と席を同じくして茶を嗜もうという、自由なことをやってのけるナマエに、ヴィザは苦笑しながら立ち上がった。
「あなたは時々忘れっぽいから、心配なのよ」
「忘れませんよ、お嬢様」
「それ、きらい」
 いつもの我儘が出た。それを叶えることの、なんと心が甘く痺れることだろう。心臓がひとつ、高く脈打つ。いちばんやさしい声で、彼女の名前を呼んだ。
「……忘れません、ナマエ」
「うん……そうしてちょうだい」
 彼女の正面に座り、つい先ほど淹れたばかりの紅茶に口をつける。ナマエと顔を合わせたあの日、生まれて初めて飲んだ紅茶は、何度飲むようになっても、いつも驚くほど美味だ。いつも、特別の味がする。
 そう思うのは目の前に彼女がいるからだと、ヴィザは知っていた。この身に宿る浅ましい想いがそう思わせることを。
 幼馴染みとこうしていられることがなくなるのは寂しいと思いながらも、その寂しさを越えて在る心の揺れを、ヴィザは胸の中に仕舞い込んだ。耳に残る鞭の音は、年々厳しさを増していく。わかっております、大丈夫です。鞭の音に、いつもと同じ言葉を返して、ヴィザは砂糖菓子をつまんだ。

   ◇

 エリン家の当主は、手塩にかけたヴィザの初陣にこれ以上なく恵まれた戦線を用意した。
 属国であるロドクルーンの反逆に怒りを露わにしたのは、四つの領地全てだ。その怒りが、一つの領地だけで戦っても勝利の見える戦争に、『星の杖』――国宝である黒トリガーの登用を決定させた。アフトクラトルは、この戦争における勝利を絶対のものとするべく、盤石の策を打ったのである。
 見せしめ、という意図もあった。神の国アフトクラトル、軍事国家の名を欲しいままにするこの国に逆らうということがどういうことか、諸国に知らしめるという目的が。
 護国の剣とも呼ばれる使い手が出陣すると知らせを受けて、国民は勝利を信じて疑わなかった。アフトクラトルを侮ったロドクルーンへの怨嗟と、アフトクラトルを――『星の杖』を敵に回したロドクルーンへの侮蔑が、四つの領地の全てを纏め上げる。

 都で行われた出陣式に、ヴィザを見送るため出席していたナマエの顔はどうしても暗かったが、泥にまみれた初陣で命を落とすトリガー使いも多かった時代、ヴィザの初陣は恵まれていると言わざるを得なかった。
 ――実際に恵まれるかは戦争が終わるまで誰にも知り得ないというのに、だ。


 戦闘体から漏れ出たトリオンの煙が戦場を覆っていた。地面には大型のトリオン兵の残骸とともに人間が転がる。それは戦闘体もあれば――生身の身体もある。一刀の元に斬り捨てられた人の首があんなにも綺麗に空を舞うことをヴィザは初めて知ったし、尾を引くような血飛沫を見たのも初めてだった。
 昼過ぎの開戦から、ほんの数刻でこの有様だ。双方ともに大きく消耗していることは確かだが、人間の残骸は明らかにアフトクラトル側が多く、その戦争の劣勢を物語る。
 向かってくるのは大型の、見慣れない形のトリオン兵たちだった。それひとつとっても、ロドクルーンがこの戦争にかけた時間と労力が知れる。
『ッ引け!!』
 指揮官の怒号が戦闘体の通信機能を介して伝えられる。不明瞭な視界に混じる悲鳴を蹴散らすようなそれに、ヴィザは眉を顰めた。叫ばなくても伝わる、と愚痴を零しそうになったが、すんでのところで耐える。上官の命令には従うべきだし、何よりもここは引くべき局面だ。ヴィザは生きて帰ってくるように言われている。
 敵を見据えながら後ろに大きく跳んだとき、自陣のトリガー使いが入れ替わるように前へ出た。思わずそちらに視線を流せば、彼と目が合う。
『ここは私が引き受けましょう。皆はその間に撤退を』
 通信越しにかけられた声は、聞き覚えがあった。この戦争において彼を知らない者はいない。
 スピラル――『星の杖』の、当代唯一の使い手。アフトクラトルにおける、事実上の最高戦力だ。至高の軍人と呼ばれるひとでもあった。
 ヴィザは荒野に立ち止まり、彼の背中を追った。後退の命には逆らうことになるが、迫る敵兵は一人残していくにはあまりにも多い。
 その迷いを感じてか、ヴィザの前方で立ち止まったスピラルは振り返り、その顔に笑みを滲ませる。土煙をあげる勢力を背景に、しかし穏やかな笑みだった。
「『星の杖』は元来、味方が多くいる場では十全に振るえません。引き際は心得ているつもりです――お戻りなさい、ヴィザ」
 彼が己の名を呼ぶのは、エリン家、ひいては領主家の口添えがあってこそだった。スピラルの近くで戦える栄誉は本来ならば得難い。それが、己の生存率をあげるためということもわかっている。
 戦場の喧騒のなかにあって、スピラルの声はよく通った。明瞭な声は確かな力に溢れている。
「……はい」
「いい子です」
 ヴィザが応えると、スピラルは背を向ける。それを見てヴィザも背を翻し、自陣へと一気に駆けていく。
 戦場にあってなお紳士的なその振る舞い、その余裕は、彼が己の実力をよく知るが故だった。当代一の使い手にそう諭されてはヴィザには従う以外の選択肢がなかった。

 ヴィザたちが退いた後、スピラルは言葉通り、深く追ってきたロドクルーンの兵士を殲滅し本陣へと戻ってきた。
 流石に消耗が見て取れたが、自分たちがあれだけ手こずっていた相手を屠る事実に、ヴィザは黒トリガーの強大さを知る。
 正しく護国の剣であるスピラルが、国から受け取る数々の特権も頷けた。黒トリガーの使い手は、誰でもなれるものではない。それでいて強大な力を持つのだから、平民も貴族も関係なく、一定以上の社会的地位を約束されている。それは、社会的な拘束でもあるのかもしれないが。

 わずかな月明かりと篝火が照らす、多くの天幕が張られた本陣の片隅。ヴィザはいくつか点在している焚き火から人のいない場所を選んで座り、星を眺めていた。トリガーは携帯しているが、すでに換装は解いている。
 戦争にも秩序はあり、攻撃宣言を行わない奇襲は恥ずべき行為だ。加えてアフトクラトルは、正当な蹂躙を望んでいる。警戒は続けているものの、夜は比較的穏やかに過ごすことができた。
 パチパチと薪がはぜる音は不思議と心が落ち着く。揺らめく炎に視線を落とせば、ちらちらと踊る火の粉に、奔放なナマエを思い出した。
「ここにいましたか」
 ヴィザに声をかけたのはスピラルだ。両手に木でできたボウルを持って、腰には杖をさげている。
「スピラル様」
 慌てて立ち上がり、深く腰を折って頭を下げた。階級という制度からは外れた枠にいる彼だが、それでもヴィザよりずっと上の人間には違いない。
「そう畏まらないでください。私も元はきみと同じ平民ですよ」
「しかし……」
「ここに座っても?」
 戦線を離れたその顔は、どこにでもいるような穏やかな中年の男性だった。ヴィザが戸惑いながら頷くと、彼は持っていたボウルの片方をヴィザに渡し、腰から杖を抜き、椅子がわりに置かれた丸太に立てかける。それを愛おしげ撫でてから、彼は焚き火の側に座った。そしてヴィザにも座るように促す。
 渡されたボウルの中には乳白色の液体が満ち、湯気をたてている。すん、とにおいを嗅げば甘く、山羊の乳を温めて蜂蜜を溶かしたホットミルクだと隣から説明が入る。
「近隣の民からの差し入れですよ。なかなか戦場では見ないものなので、つい取ってしまいましたが、私にはこちらがあるので」
 スピラルは自分が持っているボウルの中身をヴィザに見せる。同じように湯気がたっているが、中で揺れているのは艶めく赤の液体だ。温めた葡萄酒だろう。
 日持ちしない山羊の乳をそのままで飲めるのは、確かに珍しい。蓄えてきた知識が促すまま、ヴィザはホットミルクに口をつけた。舌先で触れると熱く、息を吹きかけて冷ます。一口飲めば、じんわりと甘さと熱が沁み、内側から温もっていく感覚がした。
「……何か、ご用でしょうか?」
「少しお話をしたいと思っただけですよ」
「話……それは……」
「説教ではありません。ただ、きみに才能があると思ったので」
 葡萄酒を揺らす彼は炎を見つめていた。赤い光が瞳に反射する。
「才能、ですか」
 ヴィザの言葉に、スピラルは緩やかに笑った。エリン家の当主が浮かべるものに似ているが、より一層気安く、彼が平民階級出身であることを思わせる笑い方だ。
「非常に稀有な、生き残るという才能です」
「それは才能なのでしょうか?」
「才能ですよ。私は多くの前途ある若者が死に急ぐ様を見てきました」
 彼の言葉の意味を、考えた。今日の初戦で、同じ年頃の少年が戦死したことはヴィザも訊いていた。
「アフトクラトルは、強大な国です。きみが私の年になる頃には更に勢力を増すでしょう。そんな中にあって人々は武功を争い、死に急ぐ。特に若い人たちは身を立てようと必死でしょう。生き急ぐのも死に急ぐのも同じだというのにね」
 貶める様な気配はなかった。ただただ悲哀を滲ませるそれは現役の軍人であることを忘れさせるようなひどくあまい優しさで、訊いた人間によっては彼を不適切だと詰るだろう。けれど、ヴィザはむしろ、その言葉に宿る思いを好ましく思った。
 ナマエがこの話を聞けばきっと頷くだろうなと思ったのは、無関係ではない。彼女もとても優しい人だから。
「きみのことはエリン家やベルティストン家から訊いていましたが、噂以上ですね。その才を大切に、尊びなさい」
 言葉がじわりと沁みる。生きて帰ってくるように。ナマエに誓った言葉を思い出し、ヴィザは深く頷いた。それから、葡萄酒を飲む彼に尋ねる。
「貴方にも、あるのですか。その、生き残るという才能が」
「……いいえ。私はただ死に損なっているだけです。彼の方が、私が死ぬことを許さないというだけのこと」
 かのかた、とヴィザが呟けば、どこにでもいるような中年の男性は側に置いていた杖を持ち上げる。杖に見えるが、鞘で隠された下に刃があることは戦場で見て知っていた。それこそが『星の杖』――アフトクラトルの国宝と呼ばれる、至高の黒トリガー。
 案外粗雑な置かれ方だったそれを拾い上げた途端に、隣に座る男は『星の杖』の使い手としての風格を滲ませた。しっくりと手に収まったそれを、スピラルはヴィザに見せるように掲げる。
「このお方です。このひとが、私に死なないことを選択させる。……私が死ねば『星の杖』は敵の手に渡ってしまう。それだけは避けねばならないと、そう私の心にこのお方が命じているのですよ」
「……『星の杖』は、ただの黒トリガーではないのですか?」
 生者になにかを命じられるほどの意志を持つなど、ヴィザは訊いたことがない。スピラルは笑って、「どうでしょう」と囁いた。
「しかし、ただの黒トリガーなど存在しません――『彼ら』はかつて意志を持っていました。それが本当に失われたと、一体誰が言えるのでしょう」
 ヴィザはスピラルの手にある黒トリガーに目を向ける。その存在感は破格だ。押しつぶされるような重圧が渦巻いていた。意志がある――そう一度でも思ってしまったヴィザの心には、畏れというべき感情が湧き出る。
「それに、このお方は気難しいですからね。もう少し私が生きて振るわねばなりません」
 もしかしたら、彼は『彼の方』を知っているのかもしれないと思った。ヴィザは、愛しさを持って『星の杖』を触れる男の姿にそんなことを思う。
 『星の杖』はヴィザが産まれる前からアフトクラトルに存在していたが、かといってそれは、はるか遠い昔の話ではない。人のいのちによってつくられるそれの生前を、彼が知っている可能性も十分にある。
「……このお方も、きっと、死に急がれるのは嫌いですからね。私の後継者が、ヴィザ、きみのような人であればいいのですが」
「それは……」
 黒トリガーを扱えるかどうかは、運と縁の巡り合わせだ。運命と言い換えてもいい。
 そのことは勿論スピラルも心得ていているらしく、「詮無き事を言いましたね」と苦笑した。ヴィザはちびりとホットミルクを飲んで返事を控える。彼も温めた葡萄酒をあおった。
「さあ、そろそろ御休みなさい。もう少し……続くでしょうから」
 ヴィザがホットミルクを飲み干したのを見計らい、夜の帳が降りた空を見上げて彼が言った。ヴィザもつられて空を見上げる。無数の国を映した空は、生まれた頃から見慣れた空だ。
 ――この空の下に、ナマエがいる。ナマエが笑い、息づく世界。それを守るために、きっとヴィザはここにいる。ここにいたいと思う。
「明日もよろしくお願いしますよ」
 「はい」と頷いて、ヴィザは己に割り当てられた天幕へと戻った。


 戦争は激化していった。手痛い目にあったアフトクラトルの混乱と怒りがロドクルーンに向き、ロドクルーンは初戦で得た優位を糧に、アフトクラトルへ決死の抵抗を見せ続ける。
 最早後には引けなかった。アフトクラトルは示談とするには失い過ぎたし、ロドクルーンは奪い過ぎたのだ。開戦前は逆の立場になると予想されていたが、それは裏切られたと言っていい。
 そして、大敗も辛勝も経験したことのない、常勝の軍事国家アフトクラトルには、退くという選択ができない。誇りを捨てればできるが――しかしそうすれば他国から侮られ、さらなる戦線が開かれることも領主たちは承知していた。過熱した思考を冷やせばこそ、継続するしか道がないと判断した。
 都では新たな軍を派遣するために編成が練られるも、ロドクルーンが繰り出してくるトリオン兵も一向に減ることがない。都からは新たに多くの物資が届けられ、上がこの戦争がどれだけ長引くと予想しているのかを、如実に物語った。
 スピラルがヴィザに語った通り、この戦争はまだまだ続くらしい。


『ヴィザ、そちらに何人か行きました――斬れますね』
 スピラルからの通信に、ヴィザは剣を振るって応える。幼少期からひたすらに剣を振り続け、そして今この戦争における実戦で磨いているヴィザにとって、それは最早腕の延長である。そして戦闘体を、人を斬るという行為にもすっかりと慣れていた。
「なっ……!?」
 驚愕に目を大きく開ける男を頭から真っ二つに斬り裂いた。勢い良く漏れ出たトリオンの煙が立ち上る。
 戦闘体を両断する感覚に心を痺れさせるわけでもなく地を蹴って、目ではなく音で敵を捉える。トリオン煙が視界を奪い、狼狽しているようだ。煙の中で近寄って剣を横に薙ぐ。首を跳ね飛ばした。それでもヴィザは止まらない。更に向かってくる敵たちの方へ、最高速を維持したまま駆け抜け、迎え撃つ。
 ヴィザの少年らしい体躯に勝機を見出すのか、敵たちはヴィザを目掛けて走ることが多かった。ヴィザは目を細めて彼らを見遣り、冷徹な剣を振るう。
 その剣筋の速やかさに、味方から感嘆の息が漏れる。ヴィザの剣はぶれることがない。国を守る――冴え冴えと澄みきった心が、まだ年若い少年にそれを可能としていた。

 粗方の敵を片付けて、ヴィザはスピラルの元へと近付く。
 今日の彼は、『星の杖』をただの剣として扱っていた。時々、撤退戦に突入したときは周回軌道を描く刃も発動され、ヴィザはいつも遠目にそれを見ることにしている。トリオン兵もトリガー使いも分け隔てなく両断していく様は、まさしく最高戦力に相応しい。
 スピネルの持つ『星の杖』の刀身は鈍く光っていた。赤く濡れているのは戦闘体ではない生身を斬ったせいだろう。生身に関しては手を出さないことが戦争における暗黙の了解だったが、ロドクルーンが先にそれを成したとあれば話は別だ。
 加えて、ロドクルーンはまさしく決死の覚悟らしい。戦闘体を破壊され、生身に戻った後であっても、隠し持っていたトリオン製の短剣で向かってくる。
 勿論、今ヴィザが斬り捨てたもののように逃げようとするロドクルーンの兵士も多かったが。彼らは他の仲間に捕縛されていた。捕虜となるのだ。
「残りを追いましょうか」
「いいえ、撤退の狼煙が上がりました。今日はここまでのようです」
 既に開戦から数日が経過し、戦闘は幾度となく行われている。しかし、どちらにも決定打はない。黒トリガーが作られるのを警戒してか、一気に追い詰めるような戦いを両国ともに行わないのだ。
「……あとどれだけ続くでしょうか」
「さて、ね。戦争が終わるのが先か、上が他の道で片付けるのが先か……今のところどちらもまだまだです」
「そうですか……」
「……それにしても、きみは随分と剣技が冴えてきましたね。目を見張るものがあります」
「本当ですか?」
「ええ」
 ヴィザは初戦以来、すっかり目をかけてくれるようになったスピラルと部隊を同じくしながら生き残り、着実に経験を積んでいた。
 味方と敵の動きをよく観察し分析する。それを己がものとして次の戦闘で使う。若さと才に恵まれた学習能力はスピラルという当代一のトリガー使いに見守られ、惜しみなく発揮される。領主に見込まれ、エリン家に育てられたヴィザの才は、まさしくこの戦場で開花しようとしていた。
 天才が現れた、と誰かが囁けば、それに賛同の声があがった。平民出身の者からはもちろん、貴族階級の若者でさえ、ヴィザという存在を強く意識している。多くの期待が、少年のまだ発育途中の背中に向けられていた。

 戦いの後のヴィザの日課はスピラルと話すことだった。彼は温めた葡萄酒を、ヴィザはホットミルクを飲む。ヴィザが活躍し戦闘に勝利した日、一度だけ温かい葡萄酒を渡されたが、未だ少年と青年の間を彷徨うヴィザの舌では美味と感じられなかった。それでいい、と子ども舌を恥ずかしく思うヴィザに彼は語った。
 彼と交わす言葉は、戦い方に関することであったり、あるいは戦争とは全く関係のない食べ物の話であったり、特に縛りはなかった。
 ただ、スピラルがヴィザに向けて、今日のあの剣筋はよかったとか、あの判断は悪かったとか、そういうことを語ってくれるときは、ヴィザもつい真剣になる。前のめりの姿勢で聴いているヴィザに、スピラルは『熱心なことです』と笑った。
 スピラルがヴィザを庇って負傷したこともあった。それはもちろん、トリオン体での話ではあるが。謝るヴィザに、彼は気にするなと応えた。もともとトリオンが多くないから、戦闘体はすぐに作り直せるのだという。
 その日の夜、詫びも込めて、ナマエから渡されていた砂糖菓子をいくつか譲ると、スピラルは大いに喜んだ。甘党らしい。あまりに喜ぶので、庇われるほどのミスをしたということもあまり気にならなくなってしまった。砂糖菓子をころがして頰を緩める姿は、本当に、どこにでもいる中年の男性だった。

 赤と白、今日の分の葡萄酒と山羊の乳を温めながら、スピラルは新たに張られた天幕を見遣る。多くの軍人を喪ったはずの本陣は、再び活気を取り戻していた。
「戦争自体は長引いていますが、戦闘の調子は上昇傾向にあります。先程援軍も到着しましたからね。明日が大きな局面となるでしょう」
 開戦から幾日もが過ぎていた。
「第二陣も、都で出陣式を行ったそうですよ」
 と、スピラルが告げて、その言葉にナマエの姿が思い浮かぶ。ナマエはやはり、あの暗い顔で援軍を見送ったのだろうか。それとも、ヴィザのいない出陣式に彼女は出席しなかったのだろうか。奔放な彼女ならば後者も有り得る。
「戦争が終われば、帰れますね」
「生き残れば」
 少年らしい安堵を滲ませたヴィザに、スピラルはそう応えた。生き残れば。そう、全てはただそれだけの話だ。
 ふつり、と鍋の中に入れられていたふたつの液体の端に泡が立ったのを見てスピラルは火からおろす。木製のボウルにそれぞれ淹れ、彼はヴィザにホットミルクを渡しつつ、自分の分の葡萄酒を飲んだ。
「……ん、待ちなさい、ヴィザ」
 ボウルの端に口付けて飲もうとしていたヴィザを止める。先に葡萄酒をごくりとあおっていたスピラルは苦い顔をしていた。
「……どうやら悪くなっていたようです。そっちもかもしれません、止めておきましょう」
「はい」
 飲もうとしていたボウルを彼に返す。彼は地面に穴を掘り、二つのボウルの中身をそこに捨てた。穴を掘るのに使ったのは『星の杖』だった。
「……あの、」
「内緒ですよ。国宝をこういうのに使うとうるさい人もいるので」
 スピラルの、『星の杖』の使い手らしからぬ物言いにヴィザは押し黙る。黒トリガーが意志を持つと言ったのは目の前の人ではなかったか。
「大丈夫です。気難しくはありますが細かいことは気にしません」
 それは一体どういう性格なのだと思った。が、ナマエを思い出して察する。ナマエは気に入らないことはとことん気に入らないが、あらゆることに目くじらを立てるわけではなく、どちらかといえば何事にも大らかというかずぼらなところがあった。一度懐に入れたものに対しては特にその傾向が強く、事実としてヴィザへの扱いがそうである。『星の杖』にほんの少しの親しみを持った瞬間だった。
 スピラルは最後は手で土をかぶせると、両手を合わせて汚れを払う。『星の杖』の先端についていた土も落とし、彼は笑みを浮かべた。
「さて、ヴィザ。ところできみは何のために剣を振るのですか?」
「……? 国のため、です」
 急な問いに首を傾げながらも応える。ヴィザは軍人だ。軍人になるべくして引き取られ、ここにいる。そして軍人の役目とは国――アフトクラトルの政治を思えば領主とその治める地を守ること以外にない。
「では、国以外に戦う理由はありますか?」
「それは……」
 真っ先に思い浮かんだのはナマエだった。誰よりも共に過ごした幼馴染。主で、友で、家族で、そして――許されぬ想いを抱いてしまった人。その気持ちは、墓の下まで持っていくけれど。
「ヴィザも若いですね」
「……!」
 にやにやと笑うスピラルがいた。いつもの紳士然とした振る舞いではなく、下町の酒場に一人はいそうな中年親父といった体である。
 顔に赤みが差さないように努めて、ヴィザは咳払いをした。『星の杖』をスコップ代わりにしたり、今夜の彼の様子はいつもと違う。
「私は軍人ですから、国のために」
「ええ、私もそうですよ。けれど、他にひとつかふたつ、持っておくといいものです」
「持っておく……」
「護りたいものですよ」
 ヴィザを見つめる彼の瞳はひどく優しく、そして真摯だった。しかしその表情は寂しげに見えて、ヴィザは気遣うような視線を向ける。
「国を守るのは軍人の責務です。けれど義務で動くのは、実はとても苦しい。義務に喜びを見出すことは虚しい」
 するり、とその指先が『星の杖』を撫でた。『彼の方』ははたしてどんな人だったのだろう。不意に浮かんだ疑問に応えてくれる人はいない。
「だから私たちは護りたいものを持たねばなりません。責務でも義務でもなく、我儘を持たねばなりません」
「わが、まま」
 厳しい規律の中に身を置くことが良しとされる軍人らしくない言葉だ。「我儘です」と彼は続ける。
「そうしないと死んでしまいます。体は死なずとも、この心が」
「ですが軍人は、時に情を殺し、冷静な判断をすることが求められます」
「ええ、そうですね。そして軍人はそれを求められたとき、それに応えねばならない。そういう義務ですから。……けれど、だけれど、という話ですよ。それでも我々は人です。人であるのに、どうして我々だけ心を捨てねばならないのですか」
「……それは……」
 ナマエが言いそうなことだと思った。もしも彼女に言われたのなら笑みで誤摩化すところだが、目の前の彼には通用しないだろう。
「でも、やっぱり義務はありますから。だから、ひとつかふたつだけ。本当に大事なものだけ。護りたいものを持つのです」
 深い笑みを浮かべるスピラルは、けれどとてもちっぽけな存在に見えた。ヴィザは訊く。貴方の護りたいものは、と。彼は相変わらず笑みを浮かべながら応える。
「ひとつはこのお方――『星の杖』。長らくの間、ずっとそれだけでしたが……今は、ヴィザ、きみも」
「私も、ですか」
「ええ。私はこの年になるのに結婚もしてませんからね。息子ができたように思っていました。というと、エリン閣下に怒られてしまうでしょうがね」
 当主は怒らなさそうだが、ナマエは怒りそうだ。ヴィザは私の家族よ、とでも。
 ぽかん、としたヴィザの頭にはそんな感想が流れたが――いや待ってくれ。彼は、自分のことをそんな風に?
「さあ、ヴィザ。きみに護りたいものはありますか?」
 優しく促されて、その瞳は本当に父のようで。幼少期に引き離された家族のことを――自分を売った家族のことを思い出した。彼らよりも余程あたたかいことに喉の奥が震えた。
「…………あり、ます」
 ――ナマエ。
 ヴィザの愛しい年上の幼馴染み。仕えるべき令嬢。けれどそれ以上の。
 いつか、彼女は尋ねた。義務がなければ守ってくれないの? と。
 自分は、それだけではないと思ったのだ。
 ただ、あなたが大切なお方だから、守りたいのだと。
 ヴィザが国を守りたいのは、ナマエを護りたいからだった。ヴィザは軍人になる者としてナマエと出会ったけれど、それでもその剣を振るったのは。どんな訓練にも弱音を吐かなかったのは。この戦場で生き続けているのは――スピラルが評価した生き残る才能は。
 すべて、ナマエがいるからだ。
 そのことに気づいて、鼻がツンと痛んだ。どれだけ想いを散らそうとも、その心はここにある。
「よいことです。決してそれをうしなってはなりません。常に心にひとつ、置いておくのです。それがあれば、我々は、きっと心を失わずに済む」
 にっこりと微笑んだ。やはりどこかちっぽけな存在に見える。どこにでもいそうな中年の男性がそこにいた。千の敵を屠る脅威でも厳めしい軍人でもない、少し世話焼きの父親のような顔で。
 だからヴィザはその言葉を衝動的に言った。
「それから、あなたも」
 さっきのヴィザと同じように、スピラルはきょとんと目を丸くした。それから、くしゃりと顔を歪ませる。
「……光栄です」
 すこしだけ震えた声でそう紡ぐ。『星の杖』を優しく握りこんで、彼は何事かを囁いた。ヴィザには聞き取れなかったが、スピラルは微笑むばかりだ。
「……長話に付き合わせましたね。戻りましょうか。明日は大きな局面です」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ、ヴィザ」
 天幕の中にそっと戻り、与えられた寝床に腰を下ろす。体を休めるため準備を済ませ、枕元にトリガーを置いて寝転んだ。いつものホットミルクを飲んでいないせいかそわそわとしてしまって寝付けない。
 それでも、瞼を閉じればそこにナマエの笑顔が浮かぶ。亜麻色の髪に蒼穹の瞳のお嬢様は、今日も笑っていてくれただろうか。思い描いた彼女の姿に、ヴィザは口元が緩むのを止められなかった。

   ◇

 部隊の再編成を行なったという通達があったのは、早朝のことだった。急なことだったが、アフトクラトルが連日の衝突で負った被害と、昨日援軍が到着したことを考えれば当然のことである。
 ヴィザとスピラルは変わらず同じ部隊に配属されたが、それ以外は総入れ替えだった。あまり馴染みのない顔ぶれだったので、援軍組なのかもしれない。部隊長だという若い男の挨拶が何となく鼻について、それを見咎めたスピラルが、笑みを滲ませた唇に人差し指を当てた。
「偉大なる黒トリガー使いと共闘できること光栄でございます。……部隊を率いる者として詳しい性能を伺いたいのですが」
「性能、ですか」
「ええ! 有利な状況、不利な状況――その他諸々、余すことなく」
 部隊長の言葉に、スピラルは鷹揚に頷いて解説をする。それは同じ部隊に配属された初日に聞いていたことなので、ヴィザは周囲へと目を配らせた。
 ヴィザと同じ年頃の少年はおらず、部隊長と同じ年代の青年たちが多い印象だ。それでも、隙のない佇まいと視線から実力者であることが伺えた。スピラルほどではないが。
「……成る程。性能は把握いたしました。十分に振るえるよう指揮をしてみせましょう」
「お願いいたしますよ」
 部隊長の自信に溢れた物言いはやはり引っかかる。顔に出ていたのか、スピラルは苦笑していた。


 違和感が強く出たのは本陣を出てからだった。『星の杖』という強力な黒トリガーを本陣から最も離れた森の中に展開するのは、経験の浅いヴィザとしても愚策に思えたし、何よりも部隊は一塊で移動していて個々の自由性が低い。
 勿論そうすることで得る利もあるが、それは各個人の戦力が十分ではない場合や、塊の中に必ず守らねばならない将や貴人がいる場合だ。そのどちらもこの部隊には当てはまらない。
『……ヴィザ、今日は私の側にいてくれますか?』
 行軍の最中、スピラルが戦闘体の通信機能を使ってそう言ってきた。隣を歩いているのにも関わらずだ。その意図を敏感に察知して、ヴィザは表に出さず通信を返す。
『分かりました』
 スピラルは味方が近くにいるのを好まない。触れられるほどの近さであれば問題ないが、中途半端に近いと自身の周囲を巡る刃で味方をも切り裂いてしまうからだ。それを熟知する彼が近くにと言うのだから、おそらくそれは触れられるほど近くに、ということだろう。さり気なく移動して、ヴィザはスピラルと距離を詰める。外套が触れ合うほどの近さで見上げた彼の顔は、随分と厳しいものだった。

 森を進むうちに、開戦の時刻となる。両国の巨大なトリオン兵がぶつかり合う音が、光景が、その始まりの合図だった。
 ヴィザが所属する部隊は戦場を避け森に入り、迂回しつつロドクルーンの本陣に近付き強襲をすることになっていた。基本は陽動として動くようだが、『星の杖』があるからには敵を殲滅できる可能性が高い。それだけの能力が『星の杖』には備わっている。
 だが――だからこそやはり、『星の杖』の能力を限定するような布陣は愚策としか思えない。
「……?」
 何かが引っかかった。それは鮮明さを増してヴィザの背筋を駆け上がる。それに完全に気付く前に、そんなはずがないと脳が思考を放棄しようとする。
「敵性反応があります」
 スピラルが部隊に呼びかけた。部隊長は訝しげな目で彼を見る。
「斥候からの報告はありませんが?」
「私のサイドエフェクトをご存知ありませんでしたか?」
「……ほう、サイドエフェクト? 聞いておりませんな」
「お聞きになられなかったもので」
 二人の視線が交錯した。ヴィザはそっとスピラルに寄り添う。――嫌な予感がした。
「では今お聞きしましょう。貴殿のサイドエフェクトとは? 先程のお言葉から敵の気配を読む、といったところですかな?」
「……近しいですね。私のサイドエフェクトは、己に向けられる敵意を認識するというもの――出会った瞬間から鬱陶しくて堪りません」
「…………」
『ヴィザ、もっと近くに』
 不気味に黙り込んだ部隊長と相対したまま、スピラルから入った通信に身体を密着させる勢いで寄る。放棄した思考を震える手で拾い上げ、それを見つめた。認めたくなくとも、認めるしかなかった。
「……最初から気付いていたということか」
「いいえ。サイドエフェクトは嘘です。単純に、気配も敵意も隠すのが下手くそということですよ」
 彼の声は淡々としていた。反して、ぶわりと空気が波打つ。ありとあらゆる方向から殺気を向けられていた。それは、そう、森に潜む敵だけでなく、味方からも。
「この戦争は、そもそもおかしいと思っていました。ロドクルーンはアフトクラトルの戦力をよく知る。歯向かっても敵わないと分かっている。しかし彼らは戦争を仕掛け、私たちは劣勢に立たされた。これは偶然ですか? それとも慢心という愚かさ故でしたか?
 ――いいえ、違います。この戦争は非常に狡猾に仕組まれたものです」
 ちゃきり、と音がした。ヴィザたちを中心に波紋のように広がるその音は、部隊の面々がトリガーを構えた音だ。ヴィザが腰元のトリガーに指を掛ければ、スピラルはそれを制す。
「貴方たちの狙いは何でしょうか? アフトクラトルの――四大領主の破滅? ロドクルーンの独立と再興? いえ、それは最終的な目的ですね。貴方たちがこの戦争で目的としていること、それは、」
 ざわりと空気が揺れて部隊が動いた。取り囲んでいた部隊がスピラルとヴィザに刃を向け襲いかかる。
 ヴィザがトリガーを抜く、その寸前に――しゃらんっと音がして、剣が抜かれた。

「――『星の杖』を奪うこと」

 言葉と同時に、周回軌道を描く刃が展開された。あまりにも疾い。備えられ、しかし隠されていた刃は無慈悲に円を描く。
「アフトクラトルに入り込んだロドクルーンの刺客、あるいは祖国を売った裏切り者、といったところですか」
 侮蔑の瞳が敵方を射抜いた。それに竦んだものを端から刻んで、『星の杖』はその本領を発揮する。味方に囲まれているならともかく今の状態では格好の的だ。スピラルに触れるな、とでも言いたげに、彼を中心に展開される刃たちは淡々と周囲の空間ごと切り裂く。
「ッ引くぞ!」
 部隊長をはじめとして難を逃れた面々が大きく後退する。『星の杖』の射程距離はそれほど長くない。確実に刃から逃れた敵たちは森の中に潜み続けている。
 『星の杖』で炙り出したいところだが、ロドクルーンの本陣が近かった。向こうがどの程度『星の杖』に注意を向けているか分からない状況で、自らの位置を知らしめるのは得策ではない。
『ヴィザ、合図を出したら私と一緒に跳んでください』
『本陣に戻りますか』
『いいえ、森は出ません。向こうの遠距離攻撃の射線が通ります。木々の間を跳ねて動きますよ――ついてこれますね?』
『――はい』
 三、二、――いち。
 周回軌道の刃を仕舞いスピラルが跳ぶ。ヴィザは彼にぴたりと追従していた。その視線の方向から着地点を、次の進行方向を見定める。咄嗟にスピラルに呼吸を合わせるヴィザの才に、彼は戦闘中だというのに柔らかく笑んだ。
 木々の合間を飛んでくる銃弾をスピラルが『星の杖』の刃で弾き、その先に向かってヴィザが短剣を投擲する。悲鳴があがって命中を知らせた。

 森の中を駆け巡りながら敵の数を少しずつ減らしていく。ロドクルーン側から離れつつもアフトクラトルの本陣に戻らない理由を、ヴィザは薄々察していた。――裏切り者がそこにもいないとは限らないせいだ。特に今日の部隊を編成した指揮官は怪しいことこの上ない。
 今のヴィザたちの最善は、ここで敵を殲滅することだ。アフトクラトルにもロドクルーンにも気付かれぬよう、全てをなかったことにする。
 とはいえ、このままでは非効率が過ぎる。森を抜けないよう配慮しつつ緩やかにロドクルーンの本陣から離れていくのは『星の杖』を振るえるようにするためだが――流石に敵もそれが分かっているらしく、阻止するための攻撃は緩まない。
「っ……!」
『! どうしました』
 スピラルの押し殺した呻き声があがる。通信を介して尋ねたヴィザに向けて、彼は口元に笑みを浮かべた。それが周りを囲む敵へのブラフであることは続く言葉で知れる。
『一度彼らを撒きます――不味いことになりました』
 無言で応える。短刀を仕舞い、速度をあげた彼の側にぴたりと張り付く。頬を銃弾が掠めたが、発砲音からして距離は稼げている。
『降りますよ』
『はい』
 切り立った崖をスピラルが飛び降りるのに、何の疑いも抱かず続く。空中で身を翻して出っ張った岩肌につかまり、スピラルが身体をねじ込んだ横穴の中に、ヴィザも身を滑り込ませる。無理な動きに体が軋んだような感覚がしたが、痛みはない。便利な体だった。


 暗く湿った横穴の奥へ進む。土のにおいが強いが、獣の匂いはしない。スピラルは何年か前にこれを見つけていたらしい。地形の把握は重要なことだと静かな声が告げる。
「これは、どこに繋がっているのですか?」
「……エリュシオンの果てでしょうかね」
「エリュシオン……?」
 耳慣れない単語に尋ねると、スピラルは緩く首を横に振った。
「冗談です。この横穴はどこにも繋がってはいませんが、入り口は見つけにくい。だから、休息にはちょうどいいのですよ。万が一、敵が入ってきても幅が狭いので囲まれませんし、奥へ行けば地表に近づくので、這い出ることもできます」
 言葉の通り、二人が並んで歩けないほどに狭い洞窟だ。冷えた空気に声が響くが、風の通る音はしない。休息には丁度いい、という言葉に、ヴィザはスピラルを観察する。薄暗く、光はほとんどないが、『星の杖』が淡く光を発しているので、彼を見ることは容易い。先ほどの攻防を思い返しても、深手を負っているように見えなかった。
「――!」
 なぜ、と問いかける前に答えが示される。
 先行していたスピラルの体が崩れ落ちたのだ。
 とっさに支えに回れば、トリオン体が解除されていく。自分が気づかないうちに換装が解けるほどの深手を負ったのかと彼を見上げれば、その土気色の肌に目を奪われる。
「スピラル、様……」
 紫に変色した唇が、震えながらも笑みを形作った。か細い呼気がもれる。
「……トリオン体は、生身の生命維持が困難になったときにも、解除されます」
「何が……まさか、そんな」
 ごほっ、とスピラルが咳き込む。その口から赤い――血液が零れ落ちて、その体の危険性を如実に伝えた。口の端の血を指先で拭えば、赤が線を描く。
「……毒です。おそらく昨日の葡萄酒ですね……遅効性だったとは油断していました」
 その言葉に目を見開く。いつも飲んでいる、習慣付いていた夜の語らいと、共にされる飲み物。昨夜の葡萄酒、彼が飲むのを止めさせた、あの。
『……どうやら悪くなっていたようです。ミルクもそうかもしれません、止めておきましょう』
 では、あの言葉は。本当に悪くなっていたと思ってなどいなかったのか。ヴィザにホットミルクを飲ませなかったのは、そこにも毒が混ざり込んでいる可能性を察してだったのか。
 そうだ、冷静に考えれば。味方が裏切ったということは、あの本陣にも――裏切り者がいたということだ。
 視界が赤く染まるような錯覚をうける。それを怒りと呼ぶことを、ヴィザは知っている。
「……即効性にしなかった、ということ、は……全てが裏切り者というわけでも、ないようです。私が死ねば、黒トリガーは本来、国に返される、っう、……はず、ですから」
 呼吸は細く、言葉は絶え絶えとしている。せわしなく上下する胸、思わず握った手は驚くほど冷たい。死の音が迫っているのだと、わかる。
「……さて、ヴィザ」
「……っはい」
 冷たい手を握りしめ、彼を支えながら見つめる。思考を切り替えなければと思った。解毒剤はあるのか、あるのならば、ヴィザはどうすれば入手できるか。どうすれば、このひとを死なせないことができるか。
「彼らが深追いを、してこないのは……私が黒トリガーになることを、恐れてです。私一人だと、それは警戒しなくていいですが……黒トリガーは、生成されたときにその場にいた人間を選び易い、傾向があります」
 策を授けられることを期待した耳に、望まない言葉が響いた。
「……おやめください。それを、選ばないでください」
「…………きみが側にいたことは、彼らにとって、予想外、だった……だから、とりあえず、きみの主家である領地は、白といっていい。そんなきみに、いま、私ができることは、なにか」
「生きることです。生きて、本陣に戻ることです。それ以外に決してありません。あってはなりません、お願いです……!」
 手を握り、ヴィザは彼を見つめる。その瞳が潤んでいることを、軍人らしくないと責めるものはいない。彼は穏やかに笑った。
「ヴィザ、私はここで死にます」
 しにません、ヴィザは震える声で紡いだ。
 黒トリガーになど、させません――と。駄々っ子のようだ、という自覚はあった。スピラルは少し困った様な顔でヴィザの頬に手を伸ばす。冷たい、なんて冷たい手なのだろう。
「……きみ、まで、……死ぬ必要は、ない。生きる、べきです」
「いいえ、あなたが死ぬ必要こそ、ありません」
「……ヴィザ、けれど私は、死ぬのです」
 必要があろうと、なかろうと、ね。
 彼は微笑み、ヴィザはくしゃりと顔を歪ませる。穏やかな声が、笑みが、それでも苦しくて苦しくて仕方がない。
「……私は、義務でしにたくないのです。恥ずかしながら、ね。だれかのために、このいのちを使いたい」
「あなたが生きているだけで、私は、」
「――――ヴィザ」
 穏やかなのに有無を言わせない、強い声がヴィザの言葉を遮る。指先が唇にあてがわれる。無理矢理閉ざされた口、自分が今どんな顔をしているのか知りたくない。
「オルガを……『星の杖』を、きみに」
 その一言が空間に滑り落ちた途端、指先から力が抜けた。
 いのちがひとつ、抜けていったかのように。まるでその言葉が最期だと言っているように。
「……、どういう、こと、ですか」
「……オルガは、きみを……っ、認めています。……きみには、才能がある。生き残るという、今、私にとって何よりも重要な才能が……っ、」
「受け取れません。それに、起動できる確証も、ありません……!」
「受け取りなさい。保証は私がします。――私が、信じられませんか?」
 その笑みに抗う術を誰も教えてくれなかった。いや、その笑みに抗わない幸福をヴィザは知っている。無茶な願いをそれでも叶えたときの、あの幸福を、ヴィザは知ってしまっている。だから。
「…………ずるい、です」
「ずる賢さは、年寄りの専売特許、ですよ」
 『星の杖』を懐に押し付けられる。冷たい手がヴィザの手をとり、その掌に握り込ませる。覆う手に自分の熱が移らない。触れ合う肌はあたたかくなるはずなのに。かさついた、皺の刻まれた手。ヴィザの手とはあまりにも違う。それでもいのちを手放すにはまだ早いはずだった。
「……、オルガ、お願いしますね」
 囁く声に、握り込んだ『星の杖』が瞬いたような気がした。それは一瞬のことで、気のせいかもしれない。けれど、スピラルはその口元、赤い血で汚れた顔をちっとも気にせずに微笑んで、そっと瞼を閉じる。
「っ、待って、待って……ください……!」
 掠れる声の応えは抱きしめられた力の弱さ。じわじわと彼の身体を蝕んだ毒は、今、最後の牙を振るう。
 けほっ、と上下した背、囲んだ腕の中の呼吸の幽かさ。暗い横穴の中、湿った匂いと血の匂いが鼻につく。
「……ヴィザ……」
 耳朶に響いた声を最後に、ヴィザの剣が――トリガーが輝く。トリオン体から生身へと変わっていく感覚に、自分のトリガーが彼の支配下に陥ってしまったことを感じた。やめろ、と換装を止めようとするが、そんなことができるはずもなかった。
 いのちを糧に生み出されるそれは、あらゆる摂理を超えて、強大な力として存在する。


 生身に戻ったとき、腕の中から彼は消えていた。薄暗い洞窟に、彼の姿はない。
 はらりと布が落ちる。主人を失った、服が。
「あ、……」
 膝の上に落ちた重み。『星の杖』と、それともうひとつ、新しい。それがこんなにも軽くていいのか、ヴィザには分からない。布の中からそれを拾い上げる。それに温もりはない。ただ冷徹な、無機質なそれは掌に収まるほど小さく、それにいくら願ったところで、彼は現れない。彼に拒絶されたわけでないことは分かっていた。ヴィザが、こうなってしまった彼を拒絶している。彼の死を、認めていない。
 人のいのちを糧にそれは生まれる。人のいのちを糧にそれは作られる。他ならない彼自身によって。
 握りしめる。それに熱は移らない。それは熱を返さない。死の温度がそこに宿る。『星の杖』を掴む。やはりそれも、あの手のように冷たい。けれど両手にあるそれが、似合いに見えたのは、どうしてだろうか。
 いっそ、脈動していればいいのに。とくとくと、心拍の音が今もなお伝わればいいのに。『彼ら』の意志があったこと、あること、教えてくれたらいいのに。

 悲しみに塗り潰された心の望むまま、慟哭をあげたかった。けれど駄目だ。敵はまだいる。敵に居場所を知らせてはならない。出口が一つしかないこの横穴では、いくら隊列を組めないといえど嬲り殺される。刻まれた教えが頭の中で反響する。
 ヴィザは『星の杖』に縋った。『星の杖』が応える感触があって、身体がトリオンに入れ替わっていく。そのことに意識を割く余裕もなかった。
「っ、あ、あぁ……!」
 泣くことも取り乱すことも許されていない。押し殺す、衝動を、激情を、必死に。許されていない、のだ。ヴィザは、軍人だから。情を殺すべき人間だから。
 ――できるはずがない。
 彼はヴィザの心だった。よすがだった。うしなってはいけないものだった。けれど、だからといって心のままに叫ぶことは。生きろと言った彼の言葉を、裏切ることで。
「、っ、うう、ああぁっ!」
 その死を悼むことのできないヴィザにできることは、その生を憎むことだけだ。
 無理矢理に口を閉じて、跳ね上がる肺を押さえ込むように胸を強く叩く。息が荒い、はやるそれをなるべくゆっくりと、長く。封じ込めることのできない心があるのなら、それを尖らせよう。冷徹に、冷淡に、貫こうと。
 トリオンでできた体は、便利だ。意志を込めれば平静に戻っていく呼吸、震えない手足を確認する。

 『彼』を、懐に仕舞い込む。心臓の上、最も守りが堅いその場所に。落とすことのないように。彼の生きた証を失わぬように。彼の生が、その全てが、こんなちっぽけな意味だとは思わない。けれどその存在の証は、ただそれだけ。
 『星の杖』を、右手に。少年の体躯にそれは長すぎる。杖としては使えない。けれどそれは剣だ。

 この剣の切っ先を向ける相手をヴィザは知っている。

 ふらりと立ち上がる。靴底が砂利を擦り、不愉快な音が反響する。布を拾い上げて、折り目正しく畳む。すん、と鼻を鳴らせば、血に混じって彼の残り香が漂っている。いずれ消えてしまうと分かっていた。だからそれは、ここに置いていく。だって、何故、もう一度、うしなわれていくその様を眺めなければならない。もう、耐えられはしない。
 何ができるか。何をすべきか。答えは、出ている。
 横穴の向こう、光の方へ歩いていく。その先にいる敵を全て葬るために。


 森の中で、けれど障害物を避ける必要はない。少年の周囲を旋回する刃が邪魔するものを全て斬り払う。木々も、敵も。
 当然のように使役する『星の杖』、少年は誰に教わるでもなくその使い方を理解していた。『星の杖』が少年を拒むことなど微塵も思いもしなかった。あの人の見立てが正しかったこと、それを思えば喪失の悲しみに押し潰れそうだったけれど、視界を飛び交う刃が少年に今の立場を知らしめ、立ち止まることを許さない。
 切り崩された幹の破片に飛び移り、蹴り上がる。ふわりと、浮いた感覚。上から下を見下ろす。敵の本陣が見えた。遠くでは味方との小競り合いが続いている。だが、将がいるのは本陣だと分かっていた。あそこに、裏切り者どもが手に入れるはずの『星の杖』の受取人が、首謀者ないしそれに最も近い者が――あの人を殺した人間がいる。
 少年は駆け抜ける。小さく周囲に留めた刃たちは敵からの攻撃さえも刻む。元から膨大だったトリオンは『星の杖』の補助を受けて倍以上に膨れ上がる。
 追ってくるものはいつしか消えていた。森を抜ける。川を越えて、開けた平原へ。
 守りを担うトリオン兵が向かってきた。大型だ。普通のトリガーならば壊すことも一苦労だが、今の少年の相手ではない。触れる前に斬り刻む。崩れ落ちる前の巨体を足蹴にし、更に奥へ、中心へ跳ぶ。
 敵に認識された。向かう敵意を肌に感じる。
 もう隠れる必要が――この衝動を抑える必要がないことを知って、少年は口を開いた。溢れる気持ちをそのままに、小さな身体の全霊をもって叫ぶ。

 天を劈いた絶叫は何を言っていたのか、そもそも人の言葉を成していたのか。知る術はもうない。


 恵まれたトリオンが『星の杖』の真価を示す。刃が描く軌道が増え、円の直径が格段に伸びる。
 少年は敵陣の真ん中でその脅威を振るっていた。思い出す。思い描く。昨日まで『星の杖』を振るっていたその人の動きを。見てきた。考えてきた。彼は――見せてくれていた。教わる必要などない。少年の頭にははっきりと、使い方が浮かんでいる。自らが吸収したその全てを、少年は素直に表出する。
 身の回りで周回する刃を潜り抜けてきた敵を『星の杖』そのものの刃で斬る。『星の杖』は今まで少年が使ってきた剣よりも軽く、少年の意志をそのままに反映させる。
 『星の杖』は少年に――新たな使い手に身を委ねていた。気難しいが細かいことは気にしない。あの人が言っていた、そのままのトリガーだった。
 もっと疾く。もっと鋭く。もっと、もっと。
 トリオンを込める。
 『星の杖』が輝き応える。
 一兵卒たりとも逃す気はない。殲滅する。皆殺しだ。皆があの人を殺したのだから、当然だ。
 少年は振るう。託された剣を――護国の剣を、自身の護りたかったもののために使う。
 鋭い針のような剣が投擲された。周回する刃で断ち切りその威力を殺す。雨霰のように降り注いだ弾丸は軌道の直径を狭め刃を重ねて傘を作り防ぐ。土煙で少年の姿が、そして目視できる範囲に刃が見えなくなり――ひとつの瞬きの間だけ気を緩めた敵を、一気に展開された刃が悉く斬り裂く。
 煙さえも払った刃の中心、少年は地を蹴り体勢を低く真っ直ぐと駆ける。刃の軌道の範囲外へと逃れた敵を追うために。
 特別な技術は必要ない。発展途上にあって未だ成長を続ける若い身体とその身に宿る膨大なトリオン、そして国宝とまで言われる黒トリガー。アフトクラトル最大の殲滅兵器。少年はただ恵まれたその力を存分に振るい、その理不尽を敵に浴びせるだけだ。少年は圧倒的な力で蹂躙し、その戦場に君臨していた。



 少年は荒野に立っていた。
 周囲にはトリオン兵や人の残骸が散らばり、不気味なほど静かだ。今にも崩れそうな重い灰色の雲が天を覆っている。屍肉を貪る鳥たちもまだ現れない、終わったばかりの戦場だった荒野に、少年はただひとり立ちすくむ。目の前には将と思われる軍人が倒れていた。まだかすかに息が続いている。
「貴方たちの負けです」
 穏やかな声がそれを紡ぐ。穏やかで、波立たず、だからこそ冷たい氷のような声が。
「後悔しなさい」
 温められたミルクの味を思い出した。蜂蜜を入れてくれていて、ほんのりと甘くて、ほっと息がつけた。
 隣で温めた葡萄酒を飲んでいたあの人を思い出す。ふわりと果実の華やかな香りが広がって、けれど飲めば少し苦味がある葡萄酒を、穏やかな顔で飲んでいた。ひと口飲んで微妙な顔をした少年から、彼は器をとりあげて、いつもと同じホットミルクを渡してくれた。
 ある夜は、砂糖菓子を分け合った。舌のうえで甘いかたまりを転がして、おいしいですねと目尻を下げて、あの人は楽しそうに笑っていた。
 ただの指導者や先達ではなかった。
 師のような人だった。
 父のような人だった。
 護りたい人だった。
「……後悔、しろ」
 ひゅーひゅーと、かすかに息を続けていた軍人の顔が険しくなったように思えた。計算違いだっただろう。自分に『星の杖』を向けられることは。アフトクラトルに歯向かわなければよかったと、そう思っているはずだ。けれどそれは、少年の悔いよりも深くなることはない。

 ――護れなかった。

 ただその想いだけが、少年の小さな胸の中で巡る。すうっと心が冷えていく。熱く煮え滾っていた臓腑が、ぞっとするような寒さで覆われる。
 少年の心は死に向かっていた。揺れた心を、その欲求のままに従った、だからこそ。残っていた心を使い切ってしまったから。

 どうしよう。
 静かな問いかけに、返す言葉が見つからない。
 これから、どうしようか。
 杖は応えてくれない。胸の中の『彼』も。
 この身体はまだ若く、成長を残していて、自然には死ねない。まだ放棄できない。心が死のうと、少年は生き続ける。心をうしなった軍人として、人ならざる殲滅兵器として。義務を超えてそれらしくなってしまう。
 彼への拠り所、彼が護りたかった『星の杖』だけは手放さず、そうやって呼吸するのだろうか。
 ぽつ、ぽつ。雨が当たる。降り出した大粒の雫、疎らにぶつかる感覚をそのままに空を見上げる。
 全てを覆う灰色の空。かつて彼と見たあの夜空はどこを探しても見つからない。もう、見れない。彼と、静かに言葉を交わしながら、あたたかい飲み物で臓腑と心を慰めながら、過ごした夜。あの優しい闇の中にいることはできない。
 強まる雨がヴィザの身体に飛び散った返り血を洗い流していく。濡れる感覚も、トリオンの体ならばそう不快ではない。それとも不快と思う心さえ死んでいこうとしているのだろうか。目も開けていられない大雨のはずなのに、目を開けていたくない現実のはずなのに、ヴィザの瞳は彼を探して彷徨う。
 けれど、見つからない。だって彼は、いま、ヴィザの胸元で小さな小さなトリガーになってしまったから。

 これから、どうしようか。
 どうしたいだろうか。
 どうなりたいだろうか。
 何も思いつかない。何も――何も?

「……ナマエ?」

 口をこぼれた名前に、心が震える。
『ひとつだけ誓って、ヴィザ。――必ず、生きて帰ってきなさい』
 彼女が、いる。ヴィザにはまだ彼女が、ナマエがいた。いてくれた。この世に二つとない、なくなってしまった、ヴィザの護りたいもの。心の在りどころ。
 壊れてしまいそうだ。心まで死んでしまいそうだ。
 けれど、この空の下に、彼女がいるなら。彼女が生きる世界があるなら。まだ、まだヴィザは。
 ――――彼女の元へ帰りたい。
 ヴィザが望むのは、ただ、それだけだ。今となっては、もう、それだけが彼が人として生きていける理由だ。
 ナマエ。譫言のようにその名を呼ぶ。ナマエ、ナマエ。雨がその微かな声を遮ろうとも。『星の杖』に縋るように。祈るように。彼女を護れた、彼女は護れた。それを誇りたいと思って。
 ふたつのトリガーが、とくんと脈打った気がした。気のせいかもしれないけれど、ヴィザを励ますように、背中を押すように。

 ロドクルーンへの粛清戦争は、アフトクラトルに甚大な被害と新たな英雄を残し、終結した。


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