未熟な剣

 あれはいつだったろう。ヴィザが、エリン家の次男とともに厳しい鍛錬を積む傍ら、お転婆な令嬢であるナマエの従僕として勉学に励み付き従った日々。数日間に及ぶ雨の中の行軍の訓練を終えたあと、ばたりと倒れたのは、確か、十一の頃だ。
 トリオン体なのだから、雨に打たれたぐらいで風邪など引くはずもなかった。けれど、換装を解いた途端にヴィザは倒れ、驚きの声を上げたエリン家の次男と家庭教師によって屋敷まで運ばれたのだ。まだひどく降っていた雨の音と、水っぽい泥が跳ねる音をおぼろげに覚えている。

 次に記憶があるのは屋敷の自室、ではなく、来客用の上等な寝室で、居合わせていた薬師は疲労が溜まっていたのだろうと説明し、ヴィザに眠るよう促した。疲労と言われて思い出すのは、訓練と従僕の仕事を終えたあと、自主的に行なっている勉学と鍛錬のことだ。あれが原因なのだろうかと詳しく尋ねようとしたが、眠気がまぶたを重くし、それも叶わない。

 目覚めたり、眠ったりを繰り返していた。身体の末端が随分と遠くにあるように感じて、掛け布団のなかに篭った熱い空気が感覚を鈍くしていく。
 それでも、目がさめると決まってそこには誰かの姿があって、ヴィザに水や重湯を飲ませたり、汗を掻いてべたついた肌着を着替えさせてくれた。倒れたのはヴィザの弱さだったのに、そのことを誰も責めはしなかった。
「……ナマエ、お嬢さま、は」
 けれど、ただ一人、何故か姿を見せないひとがいて。
 ヴィザが掠れた声で尋ねると、誰もが困ったように「今は休みなさい」と促す。それに反論する元気もなくて、そっと目を閉じた。
 ここ最近は雨季のせいで、雨が続いていた。窓はカーテンが閉じられ、鈍くなった感覚は外が晴れているのか雨なのかもわからない。このうえ彼女にも会えないとなれば、空の蒼は果て遠い。
 看病など令嬢のすることではないから、ここにいないのは当たり前だ。
 けれど、あの瞳をみたいと思った。いつものような笑みを。ただ、そこにいて、ヴィザにそれを見せてくれたなら、今すぐにでも元気になるのに。
 それを願い出ることはできないと、成長したヴィザにはわかっている。エリン家の人々は優しいが、ヴィザの耳から鞭の音が消え去ったわけではない。教え込まれた身分の差は、根強く残っている。いや、あえて残しているのかもしれない。その線引きを忘れてしまえば、自分は何かどうしようもなく不遜な思いを抱えてしまいそうで。
 耳の奥で弾ける鞭の音は、その思いを散らすのに丁度良かった。

 身体が回復し始めると、思考する余裕ができる。そうなるとヴィザはナマエの訪れない部屋で、ひとりきりで心を持て余すしかなかった。他の誰にも埋められない空白があって、それはたったひとりの笑みでたやすく消えてしまうのに、そのひとが来ないから、いつまでもぽっかりと穴が空いている。
 コン、と小さくノックの音が響き、ヴィザが返事をする前に、エリン家の当主が扉を開けた。ここ数日は領主の館へと出かけていたので、久しぶりの対面になる。ヴィザが倒れたことはすでに連絡がいっているはずだった。
 ヴィザを引き取ったときよりも少し歳を重ねた当主は、ベッドから降りようとしたヴィザを制してベッド脇に近寄る。上体だけ起き上がったヴィザに合わせて屈むのは、いつもの当主だった。近くにあれば、ふわりと雨のにおいが漂う。よくみれば肩が濡れていて、彼が帰って来てすぐにここに顔を出したとわかる。
「思ったよりも元気そうで安心したぞ」
「ご迷惑をおかけし、申しわけありません」
 ヴィザが倒れてから、三日が過ぎていた。もう大丈夫だとヴィザは言ったが、薬師はもう二日は安静にするようにと言っていた。当主も、その判断にヴィザを従わせるつもりのようだ。
「無理をさせていたか?」
「いいえ。そのようなことは、決して」
 ヴィザは深々と頭を下げる。この事態は、おそらくヴィザ自身のせいだ。早く、早くと焦ってしまった。エリン家で学ぶものでは足りないと思ってしまった。それを、己で補えると驕ってしまった。
 唇を噛んだヴィザは、白いシーツを見つめる。皺がよっているが、真新しい。毎日、新しいものと交換してもらっているからだ。それだけの手厚い庇護を受けていて、それでも足りぬと思った己のなんと傲慢なことだろう。当主も、指導者たちも、ヴィザのことを考えて訓練と教育の計画を立てていたはずなのに。
「では、しっかりと休むように。薬師の許可が下りれば、落ちた体力を戻してから、訓練を再開する。まあ、休暇だとでも思うといい」
「……はい」
 声を落として返事をしたヴィザに、当主の苦笑が重なる。
「これを機に、趣味の一つでも作りなさい。戦いばかりが人生でもない」
「趣味、ですか」
「そう。例えば私なら、馬の面倒を見ることだ。彼らはいい。丁寧に世話をすればしたぶんだけ、毛並みはよくなり、こちらを信頼する」
「それは、部屋の中ではできない趣味ですね」
「そうだな。ではそれは、床を離れてからにしよう。馬に乗っての遠乗りも、なかなかよいものだ」
 当主は、ヴィザが馬の世話を趣味とすることに乗り気のようだ。乗馬の訓練も受けてはいるが、それとは別に、馬とともに草原を駆ける日があっても、確かによいのかもしれない。
 想像のなかの新緑の草原を、エリン家の馬に跨ってかけていく。なだらかな丘陵が地平を曲線に変え、蒼く澄んだ空にふわりと浮雲が漂う。馬の背で感じる風は、冷たくもあるだろうが、きっと心地よいものだ。ナマエが、好きそうだと思った。
「ナマエお嬢さまは、……いかがされていますか」
 尋ねるのには少しだけ勇気がいった。当主は顔を曇らせる。
「まだ見舞いに来ていないのか?」
「……はい」
「あの子の性格からして、ここに詰めていると思っていたがな」
 ちくり、と当主の言葉がヴィザの胸の空白をつつく。ナマエなら、きっと止められたってヴィザの面倒を見ると、そう思っていたのに。けれど彼女はここにはいない。
「……なに、すぐに顔を出すだろう。いつまでも寝ているのも飽きていると見える。明日は久しぶりに晴れそうだ。庭を散歩でもして、身体の勘を取り戻しなさい。無理は、いけないが」
 気を遣わせてしまっただろうか。ヴィザとナマエの仲睦まじさは、屋敷の中に知らぬものがいない。だから、ヴィザがナマエのことを尋ねても、誰も見舞いに来ようとはしていないと、言えなかったのだろう。
「はい、わかりました」
「よろしい。では、眠りなさい。ついていてやりたいのだが、私は領主様から仕事を預かってきてしまってね」
「ご多忙のところ、申し訳ありません」
「気にするな、ヴィザ。おまえはエリン家の、領地の剣。当主として、おまえを育むことが私の責務だ。だから、おまえは焦らずともよい」
「……はい」
 ヴィザがベッドの上で簡易化された謝辞の礼をとると、当主は頷いて部屋を出ていった。
 ぽすり、と起き上がっていた背をおろして、天井を見つめる。そうして頭のなかを空っぽにすると、心の飢えも少しは耐えられる。やがてうつらうつらと意識が遠のいていき、ヴィザはそっと意識を手放した。
 ナマエは、今日も来なかった。


「ヴィザ」
 ぱちり、と泡が弾けるように意識が覚醒する。慌てて周囲を見れば、そこは上等な寝室ではなく、昼の陽光が降り注ぐ森の奥の泉のほとりで、ヴィザは十一ではなく十四の少年になっていた。
 くすくすと笑うナマエが、こちらを見下ろしている。蒼い瞳にそっと安堵して、ヴィザは細く息を吐き出した。いつのまにか横たえていた身体を起こせば、ナマエもヴィザから少し離れる。
「申し訳ありません。眠ってしまっていましたか」
「ええ。とっても、気持ちよさそうに。なにか夢でも見ていたの?」
「……少し、昔の夢を」
 夢のなかでも自分は眠っていたのだと気付いて、ゆるく笑みを浮かべた。あの時はナマエに捨てられたのかもしれないと不安にも思ったが、そうではないことを今のヴィザは知っている。長く育んできた絆は繋がりを強め、この先も互いを捨てることはないだろうと、わかっている。たとえ道は別れようとも。
 日の傾きと影の伸びからして、眠ってしまったのはほんのひとときのことであるらしい。けれど、そろそろ帰らねばならない時間だった。
「それより、屋敷にお帰りになりませんと」
 ヴィザがそう言うと、途端にナマエが眉を寄せた。そのさまに苦笑する。
「けち」
「けちと言われましょうとも、私にはお嬢様をお守りする義務がありますので」
 この泉への遠乗りは、家の者の許可をとってあるとはいえ、あまり遅くなってはいらぬ心配をかけるばかりだ。そのあたりのことはナマエもわかっているはずだが、いつもの甘え癖が出たらしい。
 だが、もしも何かあれば、責を負うのはヴィザだ。そのことを仄めかして説得しようとするが、ナマエはいじわるく目を細めた。
「あら、ヴィザは義務がないと守ってくれないの?」
「それは……」
 思ってもみなかった言葉がかけられる。ヴィザがここにいるのは仕方ないことで、けれどヴィザがこうしているのは望んだことだ。その時点で、ナマエの隣にいることは義務ではない。それを、わかっているくせに。だからいじわるな顔をしているのだろう。
 答えに窮していると、ナマエは細めた瞳をとろりとやわくにじませ、ヴィザに笑いかける。
「冗談よ。ヴィザに守ってもらわなくても、私、戦えるもの」
 笑ってはいるが、まだ少し拗ねているような言葉だった。即答できなかったからかもしれない。
 ヴィザより劣るものの、ナマエも戦うには十分なトリオンを持っている。そして、大抵の敵には対抗ないし逃亡できるだけの実力も身につけている。前線行きを免れないヴィザに比べれば軽いが、当主は女子であるナマエの訓練にも手を抜いていないのだ。
 むしろ貴族においては、女子こそ家の伝統的な武術を学んでいることが多かった。いずれ家を出るものへの手向けなのだろう。アフトクラトルの情勢は安定していない。
「……それでも、私はナマエお嬢様をお守りしたく思います」
 別にもう、ヴィザがどこへでも着いて行って守る必要がないのは確かだ。それでも厳しい訓練の傍ら、ヴィザはナマエの従僕を続けている。
「義務ではないのなら、どうして?」
「それをお聞きになりますか?」
 困ったように笑って、けれど素直にそれを告げた。ナマエの蒼の瞳が、楽しそうにきらめく。
「あなたが、私にとって大切なお方だからですよ」
 主で、友で、家族だから。
 ただそれだけ。
 ただそれだけでヴィザは幸せなのだから、これ以上は望むべくもない。
 恋心など、もってのほかだ。分不相応な想いは抱くのもおこがましい。けれどそんな発想がある時点で、その影は潜んでいるのだった。
 ヴィザが軍人として武功を積めば、彼女とともに歩む未来もあるのかもしれないが、それまでに彼女は誰かの妻となっているだろう。数年前に、倒れてしまうほど己の成長を急いだのは、それが理由だったと今のヴィザならわかる。結局、そのときのツケで、ヴィザの成長と初陣は遅れているが。
 嘘をつくのも、何かを隠すのも、得意な方だった。大切なお方、と全て包んで答えれば、ナマエはすこしの疑いも抱かない。
「では、そんなあなたに免じて今日のところは帰りましょう。でも、馬はゆっくり走らせてね。家に帰っても暇だもの」
「連日の散歩は、そのお暇のせいでしたか」
「うん、そうよ」
 こともなげに頷くナマエに苦笑を零す。もともと自由奔放な性格とはいえ、ここ最近はこうして屋敷を出ることが多い。
 十六を迎えてこの奔放さは、本当に嫁入り先など見つからないのではないかという気持ちになる。それでもいいと思ってしまう自分もいるから、ヴィザは彼女の散歩を窘めはしても止めはしないのだろう。あまつさえ着いてきている。好きでそうしているのには違いないが、ナマエのせいでヴィザまで散歩が趣味なようになっていた。
「……ナマエお嬢様のおかげで、私はすっかり散歩が趣味になってしまいました」
「それはよかったわね。散歩はよいものよ。新しい発見に満ちているもの」
 きらきらとした瞳はよろこびに溢れている。きっと、彼女は貴族の小さな世界に収まる気質ではない。それでもいつかは夫人として家を守る立場になる。それなら、今くらいはこれでいいと、当主たちも思っているのだろう。
 ヴィザもつられて笑みを浮かべ、立ち上がってナマエに手を差し出す。
「お手をどうぞ」
 そう声をかければ、やや不満そうな顔をしたものの、ナマエは手を伸ばしてヴィザのそれに重ねる。軽く引いて立ち上がらせて、スカートについた葉や小枝を払い落としてやった。
「今日の散歩は、何を発見されましたか?」
「ヴィザの額にも蝶がとまるということ。ふふ、リボンも案外似合うんじゃないかしら? 見繕ってあげましょうか」
「……ご冗談を」
 本当にやりかねない。ちょっとだけ顔を青くするが、楽しそうな笑い声が応えるばかりだ。
 屋敷に帰ろう、とヴィザが告げたとき、一瞬だけよぎったような気がしたさみしさは、気のせいだったろうか。伺った横顔は晴れ渡っているが、そこには乾ききらなかった雨が濃いしみを残しているようにも思えた。
「……また、参りましょう」
「ええ、もちろん。ヴィザも、付き合ってくれる?」
「よろこんでお供させていただきます」
 草を食んでいた馬は、二人が近寄ってくるのに気付いていななきをこぼす。早く走りたそうにしているのに苦笑して、木につないでいた手綱を解いた。
 当主がヴィザにと用意した馬は、手塩にかけて世話をした甲斐もあってかヴィザによく懐いている。たまに乗せる程度の関係であるはずのナマエにも不思議と慣れて、二人を乗せるのも平気な顔をする、良い馬だ。
 先に、ひらりとナマエが跨って、ヴィザから手綱を預かる。すぐにその後ろに跨り、自身の腕のなかにナマエを包むようにして、手綱を返してもらう。ナマエの方が背は高いが、肩から前を覗き込めるので問題はない。ヴィザが馬の腹をやさしく小突いてやれば、馬は応えるように鼻を鳴らし、優美なわりに力強い足を前へと進めた。

 森の中はゆっくりと馬を歩かせ、草原に出れば少し速める。しばらくすれば踏み固められた土の道が見えた。トリオンを燃料とする街灯がぽつりぽつりと並んでいる。この周辺では背の高い作物を育ててはいないから、遠目にもよくわかる。
 街道沿いは避けて、そのままゆるやかな早さで草原を走った。腕のなかに大人しく収まったナマエはまっすぐと前を向いている。馬に揺られても恐れず伸びたままの背筋が、彼女らしくて好きだった。ヴィザの視界を塞がないようにと、前へ流された髪の束は、それでも乱れてうなじが見えている。
 ナマエの熱をすぐ側に感じる、この距離が許されていることは幸福なのだろう。湧き上がる思いを殺す手間を考えれば、あるいは不幸なのかもしれないが。
「ねぇ、ヴィザ」
「いかがなさいましたか?」
 風に散らされるせいでナマエの声は遠い。表情が見えないこともあってか、その声色に感情が希薄のように思えて、少しだけ騒ぐ心を抑える。
「……、ヴィザも、いつか戦場へ行ってしまうのよね。ほんとうに」
「……はい」
 ナマエの二人の兄は、すでに初陣を終えて領主の軍に参加している。いずれは家の管理のためにどちらも戻ってくるだろうし、戦場から遠のくことにもなるだろう。
 しかし、ヴィザはそういうわけにはいかない。かつてエリン家の当主が表現したように、ヴィザは一振りの剣だ。領地の剣として生きるヴィザが、一度戦場に出れば、離れられるのは死をもって他にない。
「心配、してくださるのですか?」
 かなしい響きが混じっていた気がした。ヴィザが問いかけると、ナマエがこくんと頷く。相変わらず、その顔は見えなかった。
「当たり前じゃない」
「それはそれは。我が身には余るほど、光栄です。恐悦至極でございます、ナマエ様」
 ヴィザの恭しい返答が面白かったのか、少しだけ笑う気配が届いてほっと胸を撫で下ろす。
「あなたの初陣は、きっと見送りに行くわ」
「お嬢様のような貴婦人に見送られる栄誉をいただけるとは、おそらく私は国一番の幸せものでしょう」
「ヴィザって意外とお調子者よね」
「そのようなことは初めて言われました」
「嘘よ、だって私よく言ってるもの」
「それは……忘れました」
「もう」
 怒った様に言っているが、本当に怒っているわけではないことを知っている。くすくすと笑う声に安堵しながら、ヴィザも目を細めて笑った。主人たちの機嫌の良さを感じ取ったのか、馬もぱからっと軽快に駆けていく。
「ナマエお嬢様に初陣の無事を祈られては、神も従わざるを得ないでしょう」
「神様を脅しているみたいだわ」
「お嬢様ですからね」
「今の、どういう意味?」
「さて、なんのことでしょう?」
「……とっておきのリボン、用意しておくわね?」
 低くなった声が囁く。「お許しを」とことさら申し訳なさそうに言えば、「今回だけよ」と笑う声が答えた。


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