少年と少女

 ヴィザがベルティストン家当主に見出されたのは、まだ少年というにも幼い頃だった。
 アフトクラトルは、四大領主が覇権を争いながら領地を治めることで、国として成り立っている。ヴィザが産まれるはるか前から脈絡と続いてきた争いは一向に終わりを見せない。その情勢において、膨大なトリオンを生まれ持ったヴィザは、力を求める領主には特別な存在だった。
 トリオンの豊富さは一番わかりやすい戦闘能力の高さだ。そして最も重要な才能でもある。戦術はいくらでも身につけさせることができ、身体能力は戦闘体になれば関係ないが、トリオンの成長だけは、当人の努力でどうにかなるものではない。
 だから、トリオンを多く持つ平民が領主に見出され、貴族の家に引き取られるのも珍しいことではなかった。彼らは貴族の家で奉公をしながら、戦闘術や兵法、さらに礼節を学び、軍人として育てられる。

 幼く、そして貧しかったヴィザに拒否権などなかった。膨大なトリオンを持って生まれ、それを見つけられた時点で――運命は定まった。
 領主に仕える軍人となり、祖国のために死ぬまで戦う。尊い血の流れない平民は、さぞ使い潰しやすいだろう。膨大なトリオンを重宝されても、最前線に送りこまれる死地の兵であることには変わりない。
 幼いヴィザには理解できないことも多かったけれど、それでも本能が告げていた。死の気配が、ぐんと近づいたことを。自分は戦って死ぬ――誰かに殺される運命にあるのだと。

 家族はヴィザの身に迫る危険を承知しながらも、得られる報奨金に喜んで己を差し出した。仕方のないことだ。貧しい、家だった。そうでなくとも存在する身分差は逆らうことを許さなかっただろう。あのとき、親のなかで己は死んだのと同じだったのだと、年を経るうちに理解した。恨んではいなかった。親を恨もうにも、その親子の縁も領主により切られている。
 けれど、恨んでいないのは、きっとヴィザがナマエと出会ったからだ。己が引き取られた先が――エリン家の人々が、どうしようもなくあたたかいひとたちだったから。
 エリン家に迎え入れられたときのことを、ヴィザは今でもはっきりと思い出すことができる。


「きみを歓迎する、ヴィザ」
 領主の部下だという男に連れられてきたヴィザに、そう言って微笑んだのがエリン家の当主だった。穏やかな笑みは、同じ貴族である領主の部下とはあまりに雰囲気が異なり、ヴィザはしばし彼を見つめた。下手をしなくとも、実の親よりもよほど、その瞳はやさしい。
 当主がかがみこんだので、ヴィザはびくりと肩を揺らす。けれどすぐに、それがまだ小さな少年であるヴィザと目を合わせるためだとわかって、肩の力を抜く。節だった大人の手が、ヴィザの小さくざらりとした手をとった。
「遠いところから、大変だっただろう? よく来てくれた。緊張しているようだな。大人に囲まれたら誰だってそうなるが……。ああ、でも、安心なさい。きみ以外に受け入れている子供は、今のところいないが、二人の息子と、三人の娘がいる。みな、きみより大きいが、年の近い子もいるよ。それで、きみは二番目の息子の従僕についてもらおうと思っている。少しやんちゃなところもあるが、いい子だ。弟がほしいと言っていたので、きみにもよくしてくれるだろう」
 手を握られたまま、隣に立った領主の部下へと視線を彷徨わせれば、厳しい顔をした彼は眉間に皺を寄せたままヴィザを見下ろしている。
 バチッと頭の奥に雷が奔って、視界が白んだ。彼から学んだ、貴族に対する礼と言葉遣いを思い出すと同時、耳の奥で鞭の音が弾ける。
 教鞭をとる、という言葉を知ったのはつい最近のことだった。背中に残った傷跡が疼くのを感じながら、当主の手を振りほどくこともできず、まごつきそうになる口を動かす。
「っはい。……ありがとう、っございま、す」
「……ああ。多くを学び、育ちなさい、ヴィザ」
「は、い」
「では、みなに、きみを紹介しよう」
 当主はそこで一旦言葉を切り、ヴィザの手を離してすっと背筋を伸ばす。そして、ヴィザのとりあえずの教育係でもあった領主の部下に視線を向けた。下から見上げているせいだろうか、その目はヴィザを見つめていたときよりも冷たく見える。
 教育係の男は、いつもと同じ不機嫌そうな顔で当主を見返していた。
「ここまでヴィザをお連れくださり、ご苦労様でした。来たるべき時まで、どうか私どもにヴィザをお任せをと、領主様へお伝えください。エリン家の名と、ベルティストン家への忠義にかけて、彼を一流の軍人へと育てましょう」
「……事前に伝えしました通り、この少年は非常に強いトリオンを持っています。その才を適切に育むことができる環境として、領主様はエリン家の名をあげられました。その期待を裏切るような真似は許されぬことです。お忘れなきよう」
 応える教育係の声も、剣呑な響きが混じっている。居心地の悪さを感じるが、当主たちから目をそらすこともできない。
「領主様が目をかけられた若者を預かる、そのように誉れ高き任をお与えくださったこと、恐悦至極でございます。また、ヴィザのような将来有望な若者を見出された領主様の慧眼には感服するばかりです」
「この少年が将来有望となるかは、貴方の教育次第ですがね」
「はい。鞭を鳴らすばかりが教育ではないこと、私が証明してみせましょう」
「鞭、ですか」
「ああ、いえ。最近、暴力で子供を服従させようとする不届き者の噂を耳にしましてね。お気になさらず」
 にこやかに笑んだ当主に、なぜか背筋が震える。あてられたその感覚が当主の怒りだったとヴィザが知るのは成長したあとだったが、教育係の男には十分に伝わったらしい。己が鞭をふるって恭順させようとしたことを察せられたばかりか、それを真っ向から否定されて、顔が赤らんでいる。
「……先ほどの言葉、領主様に確かに伝えましょう。それがしくじれば、全て貴方の責任だということ、心されますよう」
 それ、とはヴィザのことだろうと思えた。教育係だった男に、名で呼ばれたことは殆どない。
「ええ、もちろん。ご心配痛み入ります」
 ふん、と尊大に鼻を鳴らした教育係の男が、形ばかりの礼をする。当主が礼を返すと、彼は大きな足音を立てて去っていた。
 バタン、と大きな音とともに扉が閉じ、静寂が戻る。当主は背後に控えていた執事に何か合図を送り、執事はそれを受けてすみやかに、そして静かに部屋を出て行く。執事がどこに行くのか、ヴィザが考えを巡らせる前に、当主は再び膝をついた。
「傷は痛むか?」
「っいえ、だいじょうぶ、です」
「やはり怪我をしているのだな。状態を確認しよう。どこが痛む?」
 ヴィザは少しためらってから、そっと背中を向けて服をめくった。真新しい傷に布が擦れて、ひりひりとする。
 背を向けたから当主の顔は見えなかったが、「よく我慢していたな」と低い囁きが聞こえた。先ほどの、背筋が震えるような感覚がまた肌をさし、きゅっと肩を縮こませる。
「薬を塗って包帯を巻く。そのまま少し待っていなさい」
「い、え。おれ、あ、わたしには、もったいない、です」
 薬は高価なものだ。しかも当主が手ずから手当をしてくれるなど、ヴィザに許されるはずがない。領主の部下が己に教えた平民としての貴族への対応にのっとれば、明らかに不敬だった。
 しかし当主はヴィザの静止の言葉を聞かず、棚からとってきたらしい軟膏をヴィザの背中に塗り込みはじめる。ひやっとした感覚が、傷の熱をそっと撫でていった。背中一面に軟膏が広がれば、あとはきつくない程度に包帯が巻かれる。
「もう服を戻してよい」
 その言葉を受けて、服をなおしてから当主に向きなおると、彼は指先を布でぬぐいながらヴィザに笑いかける。
「良き軍人とは、己の身体を大切にする。例え戦う体がトリオンでできていようと、生きる身体は生身なのだからね。我慢強いこともいいことだが、これからは怪我や不調は必ず申し出るように」
「……はい」
「よろしい」
 当主の笑みに、背中の疼きがおさまっていくような感覚がした。そのかわりとでもいうように胸の奥があつくなって、ヴィザはぎゅっと服の裾を握る。
「申し出る先は、今からきみを紹介するひとならば誰でもいい。まずは私の妻に紹介しよう。今の時間は娘たちと茶でも飲んでいるかな。そのあと、息子たちと、家庭教師。最後に、使用人たちだ。きみは使用人の扱いになるから、生活のことは彼らに訊きなさい」
「わかりました」
 頰のこわばりは、いつのまにか解けていた。落ち着いて言うことのできた返事に当主が笑みを重ねる。
 コンコン、とノックの音が響いた。当主が「入れ」と返し、先ほど部屋を離れた執事が顔を出す。
「奥様とお嬢様方は中庭にてお茶を楽しんでいらっしゃいます。ヴィザのことをお話ししましたら、ナマエ様がともにお茶をしたいと」
「全くあの子は……いつものことだが。まあいい。とりあえず、行こうかヴィザ」
「はい」
 部屋を出て行く当主のあとについて歩く。幼いヴィザには、国のためも、領主のためも、いまいち実感の湧かないけれど――彼のために強くなることは、望ましいことに思えた。

 中庭に出たヴィザを歓迎したのは、当主の妻のやわらかな声と、咲き誇る花と並べられた菓子の甘い香り――そして当主の三番目の娘であるナマエの、きらきらと澄んだ蒼い瞳だった。
 その瞳は、ちょうど今日のような澄み渡った春の空をそのまま移してきたようだ。宝石なんて見たこともないけれど、本物の宝石よりもきれいだと思った。
 陽に照らされて淡く金に輝く亜麻色の髪は、故郷の秋に見る麦の穂よりも薄い。夜空に輝く無数の星の、金と銀の光をとかしたようだ。
 当主が、妻、長女、次女と紹介する最中も一心にヴィザのことを見つめていた少女は、自分の番が来た途端、当主の言葉を遮って声をあげた。
「それから三女の――」
「ナマエ! わたしのなまえはナマエよ、ヴィザ! おねえさまってよんでいいわ!」
 他の女性たちとは違う、お淑やかさとは無縁の声が空高く響く。ヴィザよりも少し年上に見える彼女は、けれどなんだか幼かった。ヴィザが呆気にとられていると、隣に立った当主が溜息をつく。
「……ナマエ、ヴィザは使用人だ。おまえの弟にはなれんよ」
 ナマエはきょとんとして、それからむっと頬を膨らませた。
「おとうさまのけち」
 鈴のような声で呟いてキッと睨みつける。娘から非難めいた視線を向けられて、困ったという顔をする当主は父親の顔をしていた。
「しつじもメイドも、わたしのかぞくだもの。だからヴィザはわたしの弟でしょう?」
 不機嫌そうな顔のままナマエが言えば、当主は夫人と顔を見合わせた。夫人が苦笑して「家族のようなものだけれど、立場というものは互いにわきまえなければなりませんよ」と嗜める。
 母からも言葉を否定され、ますます意地になったのか、ナマエはつんと顔を背けた。長女と次女はあらあらと笑いながら、それぞれお茶やお菓子に手を伸ばし楽しんでいる。
「――ナマエ、おじょうさま」
 どうしようか、という顔をしていた大人ふたりと、拗ねていたナマエの視線が、ヴィザへと向く。深呼吸をしてから、膝を折って胸に手を当てた。貴族に対する最上位の礼だ。まだ不恰好ではあったけれど、付け焼き刃の知識もほんの少し役に立つ。
「このヴィザ、おじょうさまの、しようにんとして、おつかえさせていただきたくあります。どうか、ナマエおじょうさまと、よびますこと、おゆるしいただけますか?」
 顔を上げて、目を細めてにこりと笑えば、ナマエがぱちりと目を瞬かせた。みるみるうちに父に向けていた棘はすっかり消え失せ、花の綻ぶような笑みが咲き誇る。
「なかよくしましょうね、ヴィザ!」
 ちょっと違う、ということはヴィザにもわかったけれど、当主はそれで妥協することにしたらしい。ヴィザ、と呼ばれて立ち上がる。
「……ナマエについて、従僕となってほしい。訓練は予定通り次男と行うが、まあ……女性の扱いを覚えて損はないだろう。いいか?」
 貴族の言葉にヴィザが逆らえるはずがない。けれどそんな事情は抜きにして、ヴィザは「はい」と頷いた。
 この当主の命ならば素直に従いたいと思ったし――視界の隅で、いっとう嬉しそうに笑った少女がいたから。宝石よりも美しい蒼穹の瞳がとろけて、甘い砂糖菓子の香りがひろがる。椅子から降りたナマエが、ヴィザの手を引いた。
「それじゃあ、お茶にしましょう?」
 ヴィザが当主を伺い見ると、彼は苦笑しながら頷いた。末娘であるナマエに、家族は甘いのだとヴィザが知るのにそう時間はかからなかった。兄妹たちのなかでも抜きん出て幼い彼女を、屋敷に住む人々は慈しんでいるのだと。そして、その彼女より幼いヴィザにも、その甘さは滲んでいる。

 初めて飲んだ紅茶と、初めて食べた砂糖菓子はこの世のものではないような味がしたけれど、驚いているヴィザに笑いかけるナマエの存在が、なによりも夢を映したようだった。


close
横書き 縦書き