ナマエ

「ヴィザ」
 鈴の音のようなやわらかく美しい声がヴィザを呼んだ。
 陽に当たると透けるように輝く亜麻色の髪は風にふわりと靡いている。全体的に色素が薄いのが、彼女の特徴のひとつだった。雪のように白くきめ細かい肌いっぱいに春の陽射しを浴び、あらわになった爪先は泉の澄んだ水の中を揺蕩っている。空をそのまま移した蒼穹の瞳は笑みが滲み、ヴィザは苦笑しながら彼女の側に近寄った。
「いかがされましたか、お嬢様」
 答える声はまだ高い少年の声だ。次に歳を重ねれば十四となるのだから声変わりが訪れてもいい頃だが、ヴィザはまだ少年の声を保っていた。
 ヴィザよりも二つ年上のこの少女はどうやらこの声を気に入っているようなので、しばらくはこのままでもいいかと思う。一刻も早い成長を望まれている立場だと、そうわかってはいるけれど。
「それ、きらいよ」
 すこしだけ棘の生えた声が制する。ヴィザはそっと苦笑を浮かべた。その名を呼ぶときに緊張しはじめたのはいつからだろう。
「……どうかしましたか、ナマエ」
「よろしい。……呼んでみただけ」
 ぱちり、とひとつ瞬きを。それから破顔して、ヴィザは恭しく礼をする。二人の間に清涼な風が吹いた。
 森の奥にぽっかりと現れる泉のほとりは、ナマエが好む秘密の場所のひとつである。二人をここまで運んだ馬はやわらかい草をのんびりと食んでいた。
「もうしばらくここにいらっしゃいますか?」
「そうしましょう。屋敷に帰ると羽も伸ばせない」
 くっ、と力の入った爪先は溜息とともに弛緩する。ぱたり、と草地に身を横たえたナマエがヴィザを下から見上げていた。屋敷では許されないようなはしたない真似に苦笑する。
「私の目には普段からも十分羽を伸ばされているように見えますが」
「失礼ね。私だって貴族の娘よ。ちゃんと体裁は整えているわ」
「ええ、そうでしたね。流石はエリン家の令嬢たるナマエお嬢様です。とてもすばらしい」
「……あなたって昔からそうやってお兄さんぶるわね。年下のくせに」
 流石に、今の言葉を正面から信じるほど純ではない。けれど怒ったような顔を浮かべるあたりは素直だ。
 ナマエは今年で十六となる。身長は彼女の方が高く、顔の作りも子どもらしさが抜けつつあるけれど、くるくると色を変える表情や謳うように紡がれる言葉は、どれもヴィザより幼い子どものようで微笑ましい。
「振る舞いに年齢は関係ありませんよ」
「私が子どもっぽいといいたいの?」
「そのようなことは……」
 言葉を濁したが、ナマエにはお見通しだろう。澄んだ蒼の瞳は、心まで見透かすまっすぐさでヴィザを見つめている。
 けれど事実として、ナマエが『私は弟が欲しかった』と嘆くくらいには、ヴィザのほうがより大人らしく、そして兄らしい。ナマエも口では色々といいつつも、ヴィザには実の兄よりも甘えているところがある。
 生来の世話焼き気質は関わっているのだろうが――しかしヴィザがナマエの世話を焼くのは、結局のところ、そういう立場だからというのが正しい。ヴィザがナマエに仕える従者だからという理由が、もっとも相応しくあらねばならない。何故ならば目の前のひとは貴族で、ヴィザは平民だ。
 そんなことを考えていれば、明らかに不機嫌になったという顔をして、ナマエが口を開く。
「私だって、もう結婚できる歳なんですからね」
「ナマエのような方を伴侶に迎える男性の度量には深く尊敬の念を抱かずにはいられません。とても稀有な御仁でしょう」
「遠回しに結婚できないと言っているのかしら?」
「いえ、そのようなことは」
 にこりと微笑めば、じろりと睨まれる。それから、目を合わせて笑った。
 ヴィザは従者でナマエは主だ。だから本当は、ナマエと呼び捨てることも、今のような不遜な言葉も許されるはずがない。けれどナマエは、ヴィザにそれを請う。主従ではなく友人のような、家族のような、そういった関係を望まれて決して悪い気はしない。
 よくないことだとはわかっている。けれどヴィザにとってもナマエは大切なひとだから、願いを無下にはできない。結局は甘やかしてしまいたいのだ。
「まあ、でも、縁談もじきにくるでしょうね」
「少し気が早くはありませんか?」
「……どうかしらね。あなたの初陣よりは後だと思うけれど」
 どこか気怠げに瞼を伏せた横顔が、ヴィザの胸をぎゅっとつかむ。戦場に出るようになれば、こうして彼女とともにいれる時間もなくなっていくのだろう。
「それについては当主様も悩まれているようでした。もういつでも出れるだろうというお言葉はいただきましたが……」
「じゃあやっぱり、私の婚約だっていつでもできるということよ」
「……そのようですね」
 では、きっとこの時間はもう幾許もない貴重な時なのだ。
「さみしい?」
「寂しいのはナマエのほうでしょう」
「そうかしら」
 綺麗な笑みを形作ったナマエが仰向きに寝転んだままヴィザを見上げる。蒼い瞳が空を写していっそう深みを増し、陽に照らされて白く光を放つ肌は彼女が日中の労働をしない貴族階級であることを思い出させる。よく手入れされた白魚の指先が空へ、ヴィザへと伸ばされた。
「お姉さまたちはもうお嫁に行かれてしまったし、お兄さまたちも軍人になったわ。一の兄さまは家を継ぐためにそのうち戻ってくるでしょうけれど、その頃には私も他所へお嫁に出ているでしょうね……ヴィザを婚家に連れていけたらいいのに」
 くるり、と空をかき混ぜた指先をとることはできなかった。ヴィザはただ苦笑を浮かべる。
 ヴィザは領主家であるベルティストン家直属のエリン家に所属する軍人見習いである。自分を見出したのはベルティストン家の当主だが、所有しているのはエリン家だ。よほどのことがない限り、ヴィザはエリン家を離れられない。ナマエもそれはわかっているはずだった。
「私がもうすこし上等な家に生まれていればそれも叶ったのですが……申し訳ありません」
「どうして謝るの」
 きゅっと眉を寄せたナマエが批難の混じった声をあげる。
「私は、あなたとこうしていられて幸せよ」
「……ええ、私もです、ナマエ」
「生まれを変えられないことくらいわかっているの。でも、それでも生き方は見いだせる。そうでしょう?」
 きらきらと蒼い瞳が輝いて、ヴィザをまっすぐと射抜く。苦労を知らぬ白魚の手は、それでもヴィザの豆や傷がいくつもできた手よりも力強く見える。曖昧に空を漂っていた指先がぎゅっと握り込まれた。
「ヴィザが、エリン家にいることは仕方のないこと。それでも私とこうして過ごす生き方を選んでくれたこと、本当に嬉しいんだから。……変えられないことを嘆く趣味はないの」
 諦めているような、そんな言葉なのに、その声には力がある。見据える瞳の力強さが余計にそう思わせるのかもしれない。
「ナマエらしくていいと思いますよ」
「またそうやってお兄さんぶる」
「私としては、もっとナマエにお姉さんぶってほしいところですが」
「言ったわね」
 きっ、と険しい視線が飛んできたので、ヴィザは両手を挙げて降参の意を示す。そうすると、ナマエは満足げに微笑んだ。あまりにもちょろい。つくづく歳上には見えない。それでもナマエの方が歳上なのだから世界というのは不思議だ。身長も、まだ追いつけていない。もう二、三年で追い抜くだろうと周囲も言っているが、身長が伸びようと伸びまいと、この関係は変わらないのだろう。ナマエが家を出るまでは。
「……さみしくなります」
 いつか必ず、ヴィザはナマエの背を追い抜いて、その頃にはナマエも家を出ているのだろうか。そう考えると勝手に言葉がこぼれ落ちた。寝転んだままのナマエがそっと眉を下げる。
「……ヴィザってそういうところ、ずるいのよね」
 ぽん、とナマエが自身の寝転ぶ横を叩いた。やわらかな草の上に投げ出された手はすぐによけられて、ナマエがヴィザを見る。ヴィザはおとなしく隣に座り、近くなった顔を覗き込んで笑う。
「屋敷で鍛錬しているときにあなたのお転婆な声が聞こえなくなると思うと、本当に寂しいです」
「失礼ね。そんな声出してないわ」
「そういうことにしておきましょう」
 すこし拗ねてしまいそうだったので、ヴィザはナマエの言葉に同意しておく。彼女は出会った頃からお転婆な娘としてエリン家の当主の頭を悩ませているのだが、この様子からして一応当人にもその自覚はあるらしい。
「……出会ったころはもうちょっと素直だったのに」
「お嬢様は出会ったころからお変わりなく」
「変わってるわよ! 何年前の話だと思っているの!」
「十年近くと記憶しております」
「そうよ。ヴィザも私も、いろいろと変わったわ」
 そうだろうか。と、ナマエの顔をじっと見つめる。
 やわらかそうな亜麻色の髪も、まっすぐと相手を見つめる蒼の瞳も、それからお転婆な性格も変わりない。猫をかぶるのはうまくなったが、ヴィザの前では相変わらずこの有様だ。
「女性の変化に聡くなくては、紳士とは言えないのよ」
「ご心配は無用です。私は軍人ですので」
「かわいくない弟」
「ナマエは、かわいい姉ですとも。昔から」
「それで誤魔化されると思ったら大間違いよ」
 そんなことを言ってみせる口元には笑みが浮かんでいる。わかりやすいと笑いそうになるのを抑えて、勉強になりますと返した。
 昔はかわいらしいと言うだけでころりと機嫌が良くなっていたものだが、今は一応取り繕うらしい。確かにそういうところは変わっている。子ども扱いし過ぎただろうかとも思ったけれど、しばらくはこんな扱いでもよさそうだ。
 そのしばらくが、だから、もうほんのすこししか残っていないわけだけど。
 移ろう時の流れの早さと、積み重ねてきた日々を思う。
 庭で訓練をしていれば、決まって己を呼ぶ声がした。窓の向こうに立ったナマエが『いま、そっちに行くわ』と窓枠をよじ登ろうとしたのはいつだったろう。慌てて剣を放り出して窓辺へ走り、ころりと落ちてきた小さな体を己で受け止めた。鳩尾に膝が入って思わず呻いてしまい、彼女の顔が青褪めた。そんな顔を見たくなくて、ただ笑っていてほしくて、ヴィザは痛みをこらえて笑いかけ、『だいじょうぶですよ』と涙を拭ったのだ。
 小さな少女だった彼女はどんどんと大人になっていく。自分がいないとき、ナマエは貞淑な貴族の令嬢の猫を完璧にかぶっている。それだけの振る舞いができるだけの淑女になったことを、ちゃんと心得ている。
 けれど彼女は、昔と変わらない。隣の領地から来たという貴族の少年がヴィザを馬鹿にしたときは、ヴィザよりも怒ってくれた。まだ幼いころ、訓練の厳しさに疲れていたヴィザをお茶の時間に誘ったときと同じような親しみの感情は、成長とともに消えるどころか大きくなっていさえする。

 ヴィザは、幸せだ。主として、友人として、家族として。こうも大切に思えるひとに出会えたことは。そのひとから、同じように想われていることも。きっとこれ以上ない、幸せなのだ。


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