翁と少女

「ヴィザ翁は、ご結婚なさらないのですか」

 静かな問いかけにヴィザは歩みを止めた。
 隣に並ぶのは、額から二本の黒い角を生やし、ラズベリーレッドの髪と氷のような美貌を持つ娘だ。名をミラという。年齢差はあれど、互いにアフトクラトルは四大領主家のひとつ、ベルティストン家に帰属する軍人だ。
 彼女はアフトクラトルの叡智の結晶であるトリガーホーンを有する選良階級であり、ヴィザと同じく稀少なブラックトリガーの使い手でもある。先立っての玄界ミデン侵攻では肩を並べ、作戦において重要な役割を担う彼女のことを、ヴィザも決して侮っていない。
 そのミラはヴィザをじっと見上げていた。二人は、領主にして指揮官のハイレインの召集に応じ、作戦室へと向かうところである。砦も兼ねる館の無骨な廊下は行き交う人も少なく、いたとしても足早に過ぎていく。こんなふうに立ち話をする人間は稀有だ。
 ミラは、ヴィザの前にあるときは冷徹な軍人としての姿勢を崩したことがなかった。だからこそ、ひどく私的な話題を出されたことに困惑がある。
 それも、よりにもよって伴侶に関することとは。ヴィザは驚きを悟らせないよう、いつもと同じ微笑みを保ったまま口を開く。
「はて。このような翁に嫁ぐものなど、おりませんでしょうに」
 ゆるやかに告げれば、ミラはほんのわずかに表情を歪めた。意に沿う答えでなかったからだろう。何か言いたげな表情を察して、ヴィザは視線と笑みで続きを促した。
 常に冷静沈着であろうとする彼女の、普段とは異なる様子に興味を引かれたのは事実である。それに雑談程度であれば、作戦室で待つハイレインもそう咎めはしないだろう。どうせ弟のランバネインはいつも定刻に間に合わない。
「そのようなことはありません……ヴィザ翁は、アフトクラトルが誇る戦士です」
「老兵には身に余る光栄ですな」
 表情をすこしだけ和らげれば、ミラは思慮深い瞳をヴィザに向ける。
「ご身分のことは聞き及んでおります。ですが、ヴィザ翁ほどの武功がある御方なら、望めば如何様にでも……」
「いかようにでも?」
「……伴侶を望むことはできましょう? それがたとえ――貴族であっても」
 成る程、とヴィザは細い瞳の奥でミラを見つめる。
 目の前の彼女は貴族である。それも、領地内においてベルティストン家に次ぐ有力な家の娘だ。彼女の伴侶は、領主家の人間であるハイレインかランバネインと決まっている。政略結婚だった。アフトクラトルではそう珍しいものではない。
 対してヴィザといえば、元は平民階級である。生まれついてトリオンが多く、当時の領主に見出され兵士となった。そして黒トリガーの使い手に選ばれ、この歳まで武功を重ねてきたヴィザは護国の英雄と称賛を受けるが、生まれは変わらない。
 護国の剣であり、国宝でもある『星の杖オルガノン』の使い手として軍略に組み込まれはしても、政略に組み込まれはしないのだ。ヴィザがそう仕向けている面もあるが、貴族の尊い血を保持せんとする古い因習のためでもあった。ようはヴィザのような平民の卑しい血を入れたくないと思う貴族が多いのである。
 とはいえ、当代唯一の『星の杖』の使い手という面で押し切れば、多少のわがままは許されるだろう。なにせまともに褒美を望んだこともない、謙虚な男としてアフトクラトルに名が響いている。卑しい血と蔑まれようと、それを黙らせてなお有り余る武威がある。望めば、それこそ領主家の娘でさえ伴侶とできるだろうとは思えた――今のヴィザならば。
「……ミラ嬢は、誰ぞか、望むお相手が?」
 彼女のいう、『望めば如何様にでも』という響きの裏には迷いがあった。政略結婚を課せられた娘に迷いがあるのは当然だ。しかし、ミラは曖昧に言葉を濁す。
「それは……」
「……失礼。困らせてしまいましたな。お許しを」
 困ったような様子にはっとなって詫びる。彼女は、政略結婚を課せられた娘だ。迷いはあって当然だが、それを口に出すことさえ許されてはいない。政略結婚というのはそういうものだ。貴族の家同士の契約であり、利益のために行われる取引。平民はもちろん、当の貴族でさえ文句を言えるはずもない。
 らしくもない失言をしてしまった。やはり動揺しているのだろうか。ミラが気にしていないというように小さく首を横に振った。その優しさに感謝しながら、話題をそらす。
「さて、私の妻の話ですが……私は『星の杖』の使い手としてアフトクラトルにこの身を捧げております。若い時分からそう思っていたせいで、すっかり婚期を逃してしまっただけですよ」
 自分に呆れているように苦笑を浮かべる。あながち間違いでもなかった。戦争から戦争へこの身を費やしていった日々の果て、気が付けば己は老人といっていい年齢になっていた。しかしミラは、そのような老人の言葉を素直に受け止めてはくれない。
「ですが、御子を残そうとは思われなかったのですか。ヴィザ翁の血を引くものは、ヴィザ翁と同じくアフトクラトルが誇る戦士へとなられるでしょう」
「血など引かなくとも、教えは伝えられます」
 ふと、脳裏にまだ若い青年の顔がよぎった。ヴィザが剣を教えた彼は、今は玄界に取り残されている。自分と同じく平民階級に生まれた彼のことをヴィザは可愛がっていたのだ。その彼を見捨てることを良しとしたのも、ヴィザではあるが。
「もし、ミラ嬢のお父上がそのことを心配していらっしゃるのなら、どこかから養子を受け入れましょう」
「……父は関係ありません」
 ではミラは本当に単純に、純然たる興味として――あるいは教授を請うてヴィザに問いかけたのだろう。ヴィザが妻を迎えないその理由を。けれどその本当の理由を教えることはできない。ずくずくと記憶の奥底が痛む。
「残念ながら、今更妻を迎えるような歳でもありませんしね。子を成すことが目的ではないにしても――今の私にそのような欲はないのですよ」
 若い娘にいうには下世話だったろうか。少しだけ心配したが、ミラは難しい顔で考え込んでいた。思えば彼女は、まさに子を成すことを双方の家から求められている。そして彼女の性格からして、そのことに対する覚悟そのものは決まっているのだろう――貴族の令嬢とはそういうものだ。そういうものだから、その姿はヴィザの胸をちくりと刺す。
「……まだ、焦るような時期ではありますまい」
 言葉を選びながら、ヴィザはできるだけやさしく聞こえるような低く深い声を出す。
「私の若い頃はもっと婚期が早かったものですが、近頃は晩婚傾向にある。加えて、ミラ嬢は『窓の影スピアスキア』の使い手でもあらせられる。……そう、焦ることではありません」
 時代は移ろった。ヴィザがまだ少年と呼ばれていた時代とは違う――変わらないこともあるが。
 ミラの内面にあるものを明確に汲み取れたとは思っていない。同僚ということを抜いても、『窓の影』の使い手は個人的な事情で粗雑に扱いたくない。
 けれどヴィザが言えるのはこれだけだ。もしかしたらヴィザが本当のことをいえば、彼女になにがしかの光明を与えられるのかもしれない。それでも、どうしても、墓場まで秘すると決めていることは明かすわけにいかなかった。
「さあ、作戦室に向かいましょう。そろそろランバネイン殿もご到着なされているでしょうし、そうなればハイレイン殿も我々をお待ちでしょうから」
「……はい」
 穏やかさを武器に会話を終わらせる。平民と貴族という身分差はあれど、軍部において実力と地位を尊重するミラは、何も言わず歩き出したヴィザの後に続いた。

『ヴィザっ!』

 頭の奥底でやわらかい女性の声が響く。少女の甘さをわずかに残した、けれど凛としたうつくしい声だ。花が綻ぶような満面の笑み。己に向かって伸ばされる白魚の指。褪せることがない尊い記憶。

 ――ナマエ。

 その名を、心の内でそっと呼んだ。もう二度と口にすることは許されない名を、けれど忘れたことはなかった。


close
横書き 縦書き