石畳を踏みながら

 いびつな石畳が敷かれた下町の路地はいつもどこか黴たような匂いがする。それを搔き消すように腕に抱えた紙袋を覗いた。市場で買ったばかりの艶めく林檎がひしめきあい、呼吸するだけで甘酸っぱい香りが胸に満ちていく。
 これを――こういう場所で林檎の香りがすると、懐かしいと思うのはなぜだろう。心当たりはひとつもないのに、胸の奥がざわりと騒ぐ。緑色の瞳が脳裏をよぎり、けれどその輪郭はつかめず靄となる。いつものことだった。
 ぼんやりと煉瓦の壁にもたれていると、路地の奥から青年が現れた。すらりとした、と言えば聞こえはいいけれど、実際は栄養が足りていないだけだろう。服の丈はすこし短く、ほつれを直した縫い目が見える。青年の後ろには数人の子どもたちが控えていて、緊張したようにこちらを伺っていた。
「……どうも」
 形ばかりの挨拶をした青年がノートを差し出した。それを受け取り、ぱらぱらとページをめくる。とある商店に出入りする客の記録だ。身なりの特徴や買ったものの他に似顔絵も添えられている。そのなかに見覚えのある人物を見つけて、つい笑みが浮かんだ。あたりだ。
「ありがとう。報酬は上乗せしておくよ」
 あらかじめ用意していた封筒に紙幣を重ねて渡せば、青年の瞳が驚いたように丸まった。やわらかな新緑色は彼のまとう雰囲気をすこしだけ幼く、年相応にする。
「こんなに? 前金だってもらってたのに」
「あれは経費も含んでいたし……後ろのおちびさんたちも手伝ってくれたようだから」
 わたしが依頼したのは青年ひとりだけれど、故意か不可抗力か人手が増えたのであれば彼らの報酬も支払われるべきだ。
「その代わり、このことは誰にも他言しないこと。報酬のことは、酔狂な観光客が似顔絵を高く買ってくれた、とでも説明するように」
 わかった? 問いかければ、青年は重々しく頷き、彼の表情が見えない子どもたちは笑顔で頷く。もし仮に子どもたちから話が漏れたとしても、その頃にはすべて終わっているだろうけれど。
「それじゃあ、これはおまけのおまけ」
 抱えていた紙袋から林檎をひとつ取り、残りは青年に渡す。彼は現金がよかったという顔をしながらもしっかりとそれを腕に抱えた。
「あなたにはまた仕事を頼むかも」
 青年にだけ聞こえる声で紡ぐ。彼は一瞬だけ顔を強張らせたものの、後ろに控えた子どもたちをちらりと見て「わかった」と囁いた。
 去っていく子どもたちをひらひらと手を振って見送り、林檎を手遊びながらノートを開く。似顔絵描きで小遣いを稼いでいただけはあり、青年の絵は特徴をよく捉えていた。ときどき混じる幼い文字はあの子どもたちのものだろう。絵は前衛的だけれど、目や髪の色はしっかりと記されている。
「――今のがてめぇの子飼いか?」
 目ぼしいページの端を折っていると、不意に声が響いた。ザンザス。呼びかけそうになったくちびるを閉じる。ここは敵地だ。
「……これから飼えたらいいなと思ってるよ」
 ひと呼吸おいてから彼の問いに答える。彼は路地の影にとけるように佇んでいた。いつもの威圧感はなりを潜めている。視線を合わせてもなおどこか希薄な存在感は、暗殺者として身につけた技術の賜物だろうか。赤く燃えるような瞳だけが力強くわたしを射抜いていた。
「孤児院のガキか」
「半端なギャングの手伝いよりは上等な小遣い稼ぎでしょう?」
 どうしてここに、とは問わなかった。彼がわたしに監視をつけているのは知っている。
「ちょうどよかった。例の件だけど、クロで確定したところ」
 ノートの表紙を見せる。当然のように伸ばされた手を前に、さっとそれを背に隠した。
「原本はだめ。コピーは渡す。あなた、目当てだけ残してあとはぜんぶ燃やすから」
 それの何が悪い、と言いたげな顔に「他の情報もうまくやればお金になる」と続ける。赤い瞳が不機嫌に細まった。彼の瞳を見ていると、あの緑の瞳がちらちらとよぎる。青年の新緑の瞳のほうがよっぽど色は近いのに。
「ガキどものため、とでも言うつもりか?」
 ザンザスは唾棄すべきものを見たように吐き捨てた。彼は貴族が行うような慈善を嫌っているふしがある。金の無駄だと思っているのか、あるいは、かつて受け取る側だったことが影響しているのかもしれない。
「寄る辺のない子どもが悪意に使い潰されるのは見たくないもの」
 街は支配する組織によってその色を変える。ここはほかと比べても悪意が近かった。日常と裏社会が密接に絡み合い、暴力は容赦なく弱者を食い散らかす。
「そうなるくらいなら、わたしがひろってわたしの手駒にするよ。彼らのためじゃなくて、そうしたいわたしのために」
「……勝手にしろ」
 ザンザスは不機嫌さを隠そうともしない声で紡ぐ。勝手にするね、と笑えばその表情がますます歪んだ。何かしら暴言が飛び出すと思ったら、こぼれたのは舌打ちひとつだけだ。
 意外に思って赤い瞳を見つめると、ザンザスはくるりと背を向けて歩き出す。赤い羽飾りが風になびき、それをたよりに後を追う。
「……車内で情報をまとめろ。アジトに着いたらコピーを寄越せ」
 カツコツと石畳を叩く足音にまぎれて低い声が落ちたのは、路地を抜ける寸前だった。
 この人はわたしがついてこなければどうするつもりだったのか。先に言えばいいのに。思いつつも、もしも彼が、わたしがついてきて当然と思ってくれているのなら――そう、信じているのだとしたら。それは、とても、うれしいことだった。
「おまかせを。……それから、ありがとう」
 原本ではなく写しでいいと言ってくれたのは『勝手にしろ』という自分の言葉を守るためだろうか。それとも、わたしの仕事に対する尊重や、子どもたちへの慈悲なのだろうか。尋ねればもろとも消し炭になるとわかっているから、確かめはしなかった。
 ちかりと光がさしこむ。薄暗い路地を抜けた先の太陽は眩しく、赤い瞳は煩わしげに細められた。


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