はだしのワルツ

 夕日に包まれたダンスホールで、わたしはひとりワルツを踊っていた。メトロノームに合わせ基本のステップを繰り返す。長く伸びた影だけがわたしと踊ってくれる。慣れないヒールは脱ぎ捨て、裸足で床を踏む。このほうがずっと踊りやすい。
 ——これで、すこしは上達していればいいのだけれど。
 ターンの合間に鏡を見る。ミントグリーンのワンピースがふわりと広がり、その下で踋はもたついていた。ひとつに結んだ髪はほつれて、煤けた灰色が頰にまとわりついている。眉間に寄ったしわは優雅な微笑みにはほど遠い。かろうじて形になっているだけと評するのが正しいような——ひどい有様だ。
 そう気付いた瞬間、ひざから力が抜けた。ぱたん、と一度でも倒れてしまえば起き上がるのは億劫だった。呼吸のたびにじんと肺が痛んで、心臓はノミのように跳ねている。
 ああ、もう。つかれた。
 ダンスホールの床は硬いけれど、ひんやりと冷たくて心地よい。脚は鉛みたいに重かった。足の裏のやわい皮膚がひりひりと熱を持っているのもわかる。
 勤勉なメトロノームはコチコチと鳴き続けている。その音をぼんやりと聞きながら、ザンザスのことを考えた。正しくは、彼と踊ったワルツのことを。
 昼間のレッスンはお互いの足を踏み合うだけの散々な結果に終わった。ザンザスはあからさまに怒りはしなかったけれど、苛立たしげに舌打ちをした。でも、わたしだけが悪いわけじゃないはずだ。先生と踊ったときは、それなりにステップを踏めたのだから、ザンザスのリードにもきっと問題がある。
「……責任を押しつけたってワルツは踊れないままだけど」
 踊れないのは、こまる。ため息がとけた。
 ころりと寝返りをうち、うつくしいシャンデリアを見上げた。夕日の赤い光が乱反射して、ちらちらと火花のように舞っている。
 ――彼の瞳に、すこしだけ似ていた。
 ゆっくりと深呼吸する。重たいからだを引きずるように立ち上がる。
 メトロノームが奏でる音に合わせ、ステップを踏んだ。わたしがきちんと踊れるようになれば、彼もリードを練習しやすいはずだから。
「ウーノ、ドゥーエ、トレ。ドゥーエ、ドゥーエ、トレ。トレ、ドゥーエ、トレ……」
 ワルツのレッスンがはじまったのは一昨日のこと。先生はまだ踊れなくて当たり前だと言ったけど、わたしたちには時間がない。
 ガーデンパーティーはもう三週間後に迫っていた。それは裏社会に君臨する大ボンゴレのボスの誕生日であり、ザンザスがその息子として初めて公の場に出席する日でもある。
 ザンザスは数ヶ月前まで下町にいて、教養や品格が不足している。一学年下のわたしでさえそう思うのだから、まわりの大人たちが彼を見る目はもっと厳しい。彼がこの屋敷に閉じこめられ、自由時間もほとんど与えられず家庭教師に学んでいるのはそのせいだ。
 そんな彼の、はじめての、お披露目の場。
 そこで成功を収めれば、彼の未来はすこし明るくなる。今よりも自由を得ることだって認められるかもしれない。
 だから、踊れなくては、こまるのだ。
「……オット、ドゥーエ、トレ!」
 くるりとターンをきめる。
 灰色の髪がなびき視界に被さる——その隙間から、赤い瞳が見えた。
「ザンザス?」
 思わず声をあげると、ぐらりとバランスが傾ぐ。ひやりとした浮遊感に襲われた瞬間、ザンザスの手が伸びてわたしの腕をつかんだ。引っ張られた関節が悲鳴をあげたけれど、床に打ちつけるよりは、たぶん、よかったはずだ。
「ありがとう」
 ぴりりとする関節を撫でつつお礼を伝える。ザンザスはふんと鼻を鳴らす。手はとっくに離れていた。赤い瞳は艶やかな黒髪にちらちらと隠れ、その感情を読ませない。
「なにか用事があったの?」
 彼はいつの間にダンスホールへ入ってきたのだろう? わたしが首を傾げると、ザンザスは憮然とした表情で「通りかかっただけだ」と答えた。返事があることにほっとする。たぶん、つま先ではなくかかとで踏んでいたら、しばらく口を聞いてくれなかっただろう。
「てめぇはなんでまだここにいる」
「今日は迎えがおそいから、それまでワルツの練習」
「成果がそれか」
 彼はハン、とばかにしたように笑った。そういう態度は女性にとるものではない。でも、鏡に写った自分の無様な姿もまだ覚えている。言い返す気にはならなかった。
「そうよ」
 微笑んだつもりだけれど、うまくいかなかったかもしれない。疲労のせいか頬がこわばっていた。ザンザスは顔を顰め「耳障りだ」と唸るように呟いた。そしてコチコチと鳴り続けていたメトロノームの振り子を止めてしまう。
 しんと静まるダンスホールは――しかし、次の瞬間にはピアノの旋律に包まれた。
「……踊ってくれるの?」
 オーディオの電源を入れた背中に、ちいさく問いかける。彼は振り返り、なにも言わないままわたしの手をとる。
「ザンザス」
「うるせぇ」
 ぶっきらぼうに言いながらも、彼はリードをはじめた。引きずられそうになって、慌ててステップを踏む。からんだ指先はしびれるように震える。腰に添えられた手があたたかい。
 ヒールを脱ぎ捨ててしまえば、ザンザスのほうがわずかに背が高いことに気付いた。出会ったときはわたしより小さかったのに。
「ヴィオレッタ、顔を下げるな」
 足を踏まないように、と床を見たとたんに声がかかる。でも、と紡いだ言葉は、いつもよりずっと近い位置にある赤い瞳に射抜かれて消えてしまった。
 つないだ手が導くままに彼とワルツを踊る。
 日没から晩餐までのわずかな時間は、彼に許された数少ない休息である。ほとんどは家庭教師が出す課題の山に食われてしまう、とても貴重なひとときだ。スパルタも真っ青な詰めこみ教育を受ける彼は、本当なら一眠りでもしたいはずで――なのに、わたしと踊っている。
 彼のリードは昼間よりもやわらかかった。わたしのステップだってたしょうはうまくなっていると思いたいけれど、ザンザスの上達は別次元だ。
「……ねぇ、ザンザス。わたしにもコツを教えてほしいな」
「体術と同じだ」
 呼吸や視線から次の動きを読む。息をひそめたネズミの気配を探って、あとは標的の動きに合わせて仕留めればいい……と、そのようなことをザンザスはぽつぽつと喋った。
 たとえが物騒だけれど、つまりザンザスは、ワルツをダンスや教養ではなく戦闘訓練と定義したらしかった。
「あなたらしいね」
 ほころんだ頰とともに肩の力が抜けていく。あんなに重かったはずの脚はふしぎと軽く、彼が導くままにステップを踏んだ。カツコツと鳴る彼の靴音に、ぺたぺたとわたしの足音が重なる。裸足を靴に踏まれたら痛そうだけれど、もう不安はなかった。
 影が重なり、離れ、また重なる。
 赤い瞳はおだやかな夕日に照らされて、明星のように煌々と燃えていた。その輪郭が、じわりとまどろみへとけていく。
「ね、パーティーの衣装はもう試したの?」
「……ああ、おまえが学校に行ってる間にな」
「どんなのだろう、楽しみだなぁ」
「どうでもいい」
「そんなこと言わないでよ」
 くすくす笑いながら、ささやくように会話する。いつもなら返事もしてくれないだろうに。わたしは機嫌をよくして「そうだなぁ」と呟く。
「もしもわたしがあなたの衣装を決められるなら……うん、赤色がいいかな、あなたの緑の目に……」
 彼が、訝しげに目を細めた――熟れた林檎のように赤い瞳を。その唇がなにかを告げる前に「ごめん」と謝罪が口をつく。
「……ごめん、ザンザス。色がひっくり返ったみたい。緑のシャツだと赤い目が映えて、すごくいいと思う」
 ばつがわるくて声がしぼむ。ときどき、こういうことがあった。赤と緑を反対に覚えているのかと不安になるけど、間違えるのは彼の瞳の色だけだ。林檎の色、と覚えたのが悪かったのかもしれない。林檎には赤も緑もあって……でも、黄色と間違えたことはないのだけど。
 ザンザスは何も言わず、ただその視線でミントグリーンの裾を撫でた。わたしは笑みを繕いながら、想像のなかの瞳を赤色に変える。ぼやけていた焦点がぱちりとザンザスに定まるような感覚があった。
「あなたはこういう淡い色じゃなくて、きりっとした色が似合うと思うよ……深い森の色とか、オリーヴとか……候補に残ってた?」
「さあな」
 瞳の色を間違えたことを、ザンザスは怒らなかった。珍しく機嫌がよい。なにかいいことでもあったのかもしれない。ひとりで受ける授業で、家庭教師にほめられでもしたのだろうか。
 くるくるとやさしい円を描きながら、ワルツは終わりへと向かった。最後の和音がぽろんと落ちて、ザンザスはつないだ手をほどく。わたしたちは最後まで、互いの足を踏まなかった。
「本番でも踏むんじゃねぇぞ」
 唇の端に笑みを乗せたザンザスに、わたしは首を傾げる。
「本番なんて、ないよ?」
 ザンザスの眉間にしわが寄った。なぜ、とその赤い瞳が問うので、わたしもすこし戸惑いながら答える。
「わたし、パーティーにはいけないもの」
「……聞いてねぇ」
「言わなくてもわかってると思ってた」
 ガーデンパーティーで――お披露目の場で誰と踊るか、ということは、ザンザスの今後をも左右する。ボンゴレファミリーに恭順を示したばかりの新参者の娘では力不足だ。順当に考えれば、彼の相手は九代目の姪か、幹部カポの娘や妹があてがわれるはず。それを、わたしもまわりの大人もわかっていて――でも、彼だけは想像もしていなかったのかもしれない。彼の近くにいる同年代はわたしだけだから。
 それにしたって、わたしが彼の怒りにふれても泣かないから――そして何かしでかしたとしても始末が容易だから、というだけの理由なのに。
「……じゃあ、なんで練習なんてしてた」
「練習相手にもならないくらいヘタだと、こまるでしょ?」
 ザンザスがどんな顔をしたのかわからない。黒髪がその瞳を隠して、引き結ばれた唇は舌打ちもこぼさなかった。オーディオは次の曲を再生しはじめている。太陽はついに沈んだのか、あたりは薄暗い闇に包まれた。長く長く伸びた影さえも、やわく闇へ消えていく。
「そのためだけにか」
 沈黙のはてに、ザンザスが呟く。わたしはすこし考えてから、首を横に振った。
「練習して、上手になって、たのしく踊りたいなと思ったの。練習でも、ザンザスと踊れることに変わりはないから」
「そうかよ」
 ハッと吐息のような笑みがきこえる。ザンザスはもういちどわたしの手をとり、無言のままリードをはじめた。
 大人しく身をまかせるように踊る。さっきよりも荒っぽかったけれど、ザンザスはやっぱりわたしの足を踏まなかった。わたしは、ほんの二回くらい、彼の靴の甲に足を乗せてしまったけれど。たいして痛くはなかったらしく、舌打ちも聞こえなかった。
「ザンザス、どうして踊ってくれるの?」
 夜にまぎれるような声でささやく。
 ザンザスはなにも言わなかった。問いを重ねることはかんたんだけれど、わたしは口をつぐんでワルツに集中する。だってザンザスは、わたしと踊ってくれている。理由なんてなんでもよくて、ただこうしていられることのほうが、ずっと大切なことのように思えた。
 結局、わたしとザンザスは迎えがくるまで三曲も四曲も踊り、翌日、わたしだけが筋肉痛に苦しんだ。そしてまったく平気な顔したザンザスは「おまえは体力がカスだな」と鼻で笑ったのである。


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