あなたになら殺されたっていいよ

 赤い瞳に揺らめく炎が見えた。
 夜に融けるような黒髪は掻きあげられ、額にはしる傷痕を惜しげもなく晒している。幼さのとれた輪郭も無数に刻まれた傷痕も見慣れないが、精悍な顔立ちには面影が――どこか既視感があった。誰かに似ているような。引き締まった身体はミケランジェロが削り出した彫刻のように美しく、気怠げにソファーへもたれた姿でさえ気品が漂う。
 牙を捥がれた獣。重い扉が開かれるまで、わたしはここにいる彼をそういう存在だと思っていた。古城の一室は豪奢に整えられた牢獄である。扉の向こうには護衛という名の監視が控え、常に神経を尖らせている。彼の手首には黒い腕輪がはめられていた。『復讐者ヴィンディチェ』が使う手枷を模した特別製で、彼が生まれ持った炎を封じる機能があるらしい。暴れ出そうものなら麻酔薬が投与される仕組みとも聞いた。ここに彼を崇敬する部下たちの姿はなく、彼はこの部屋から出ることも許されていない。牙は、捥がれているはずだった。
 それでも――その瞳は。
 暖炉で爆ぜる炎よりも激しく、赤く燃えている。燃え続けている。
 彼の瞳を烈火に例えたのはオッタビオという男だった。あまねくすべてを灰塵に帰すような怒りの色。それがひとつとして褪せていないことを理解し、どうしようもない安堵が満ちた。彼は、帰ってきたのだ。
「ザンザス……」
 声は少しだけかすれた。痺れるような歓喜が指先から心臓へ駆け上る。この八年、彼の名は虚空に消えていくばかりだったから。わたしを捉えた赤い瞳に、ゆらりと苛立ちがよぎった。ウイスキーに濡れた唇がゆっくりと開く。
「――失せろ。てめぇと話すことはねぇ」
 地の底を這うような声で告げ、ザンザスは目蓋を下ろした。サバンナで身を横たえる獅子と同じに、わたしを無視して眠るつもりらしい。拒絶の意志は明白だった。わかっていた、けれど。だって彼は数ヶ月も前から暗躍を始めていたのに、それをわたしに知らせなかった。八年前と同じだ。彼はわたしの知らないところですべてを為そうとして――今回も、失敗した。
 二度も大ボンゴレに反旗を翻し、首も四肢も欠けてないことは奇跡だ。あり得ないと言ってもいい。彼が率いる独立暗殺部隊ヴァリアーも、厳しい監視下には置かれているが処刑は免れた。それだけ九代目の恩寵が深いということだが、彼にとっては殺されるよりも今の状況のほうがよっぽど屈辱的だろう。それでも彼が自死を選ばず、その瞳に炎を宿したまま生きていることが、わたしはうれしかった。
「そう……八年も寝ていたのにまだ眠るの?」
 瞬間、ぞわりとした寒気が肌を撫でた。
 赤い瞳は再び曝け出され、怒りのままにわたしを捉える。上唇がぴりりと引き攣った。
「てめぇ……」
「『揺りかご』はそんなに心地よかった?」
 警告を発する本能を殺し、明け透けな挑発を重ねると、ザンザスは訝しげに瞳を細めてみせる。はてしない怒りのなかにあっても冷徹な視線は、どこまで知っているのか、と問いかけていた。わたしはにっこりと笑って答える。ザンザスが望むならば、わたしはどんな情報も差し出してしまうだろう。
「わたしがここにいるのは、九代目と取引をしたからだよ。『揺りかご』のことも『争奪戦』のことも、誰にも売らない。その対価として、あなたとの面会を願い出た」
 眉間に寄ったしわはいちだん深くなったようだった。不機嫌、疑い、苛立ち――様々な感情がゆらゆらと揺れている。
「どこにも所属しないフリーランスの情報屋が、ボンゴレ本部の奥深くで、あなたという反逆者の前にいるのはそういう理由。もっと言えば、あなたに会いたかったから、あらゆる手を尽くして会いにきたんだ」
「ハッ……そうかよ。望みが叶って満足か?」
 ザンザスは唇を歪めるように笑う。凍てつくような殺気に晒されてうなじがざわざわと粟立つ。恐怖と高揚が入り混じっていた。生存本能は今すぐにでもこの場から逃げろと命じるが、彼を待った八年の歳月は否と言う。彼とともにありたいと、叫ぶ。わたしはそのために、どこにも所属しない――彼のためだけの情報屋となったのだと。
「……まだ叶ってないよ、ザンザス。わたしの願いは、ずっと前からひとつだけ。あなたの役に立つこと」
「必要ねぇ」
 返事はにべもなかった。ザンザスがわたしを拒絶しはじめたのはいつからだったろう。彼に怯えない貴重な同年代として学友の席に着いたのは十四年前。あの頃から鋭利な空気をまとっていたし、話しかけても無視されることは多かったけれど、こうも強く否定されることはなかった。変わったのは……そう、わたしが情報屋として学びはじめ、彼がヴァリアーに出入りするようになってからだ。
「ヴァリアーがあるから、わたしは不要?」
「てめぇがオレの役に立ちたいなら今すぐその首を掻っ切るんだな」
 小さく息を吐く。必要ないというザンザスの言葉は、正しく、真実だ。わたしは別にいなくていいのだ。ザンザスには他者を従えるカリスマも、邪魔者を消す力もある。忠実な手足だってもう持っている。小賢しい情報屋をあえて引きこむ必要がないことは、わたしがいちばん理解している。
 ――けれど。だとしても。
 それは、わたしが彼から離れる理由にはならない。
「……極秘に処理されたとはいえ、わたしたちは耳が早いよ、ザンザス」
 ソファーに預けられた肩がぴくりと震える。
「八年前と今回、二度も大ボンゴレを裏切ったあなたたちに阿る人間はいるのかな? いくらヴァリアーといえど、情報戦での孤立は避けられない」
 ずるい言い方、どころではない。これは脅しだった。あなたがわたしを隣に置かないのなら、わたしはあなたを情報において孤立させる、と宣言した。闇より深い闇として生きる彼らにとって、それは致命的だ。彼らを殺したい人間なんてごまんといる。その被害は彼自身とヴァリアーだけではなく、大元たるボンゴレファミリーにまで及ぶだろう。
 ザンザスはしばしわたしを見つめ、それからサイドテーブルに置かれたウイスキーを一息にあおった。カンッとグラスをテーブルに打ちつける音が響く。その余韻さえも消えた頃、ザンザスは表情を消してわたしを睨めつけた。
「……今ここでてめぇを始末すりゃあいいだけの話だ」
「そうだね」
 ふつう、そういう交渉をするなら入念な準備が必要だ。わたしの死を引き金として情報が出回るような、相手がわたしを殺せない状況をつくらなければならない。思いつきで言うものではなかった。
 ここには彼の愛銃も刃物もなく、憤怒の炎も封じられてはいるが、暖炉の火掻き棒は十分に人を殺せる。グラスを割れば鋭利な破片だって手に入る。武器に頼らなくても、彼はわたしをいつでも殺せる。昔よりもずいぶんと大きな手は、そう労せずしてわたしの首を折れるだろう。それは扉の外に控える監視たちが部屋に立ち入るよりも早く、たやすく。
 わたしは一歩、彼へ近付いた。ザンザスはソファーに座したまま、身動ぐこともない。わたしの非力な腕では彼を害することができないとわかっているからだろう。止められないと判断して残りの三歩を詰め、わたしは彼に跪いた。
「ザンザス――」
 煤けたような灰色の髪を片側に寄せ、彼がやりやすいように顎をあげて首を晒す。
「あなたになら殺されたっていいよ」
 赤い瞳がかすかに揺れるのを、わたしは少し不思議な心地で眺めた。その瞳孔には微笑んだわたしが淡く映っている。
 ぎしりとソファーが軋む。背もたれから身体を起こしたザンザスは無言のままわたしへ手を伸ばした。爪が滑り、指先は肌を包む。息苦しく圧された動脈がとくとくと悲鳴をあげる。まどろみたくなるような熱を感じて頰が緩んだ。
「――くだらねぇ」
 呼吸が止まっていたのはほんの数秒のことだった。ザンザスの手は呆気なく離れ、グラスにウイスキーを注ぐ。解放された喉は咳きこむこともなく、肌には痕も残っていないだろう。跪いたまま、わたしへの興味を失った顔を見上げた。
「役に立ちたいなら死ね、と言ったのはあなたなのに?」
「てめぇが勝手に死ぬならな」
 だろうね、と短く返す。
 わたしが死ぬことと、ザンザスに殺されることは、天地ほど話が違う。ザンザスは生存を許されてはいるがその立場は危うい。外の人間であるわたしを手にかければ、彼を殺したい人間に口実を与えることにもなる。
「あなたの役に立つならそうしてもいいけど、今は生きていた方があなたの役に立てるから、嫌だな」
「……」
「ねえ、ザンザス。不都合はないにしろ、いたらきっと便利なのもそうだよ」
 カランッと氷が滑る。ザンザスは何も言わなかった。でも、わたしがまだこうして息づいていることが答えだ。わたしを殺せば彼は窮地に立たされ、わたしを拒絶すればボンゴレが被害を受ける。自分自身と、ボンゴレファミリーの二者択一。けれど彼が尊重する唯一と無二は天秤にかけられない。ザンザスには、わたしを受け入れるしか選択肢がない。
「……妙な真似をすりゃあその日のうちにくびり殺す」
「どうぞ。でも、あなたのためにならないことはしないよ。ぜったいに。わたしは――あなたとともに生きると、決めたから」
 ね、と同意を求めて首を傾げてみるも、ザンザスはもうわたしを意識の外へ追いやっていた。赤く燃える瞳は遠く、はるか彼方を見ている。過去か、未来か。探るよりも先にノックの音が響き、退室の時間を告げた。
「また来るね」
 返事がないのをいいことに一方的に約束し、手土産代わりの紙片をサイドテーブルに置いた。今の彼が知り得ない外の状況を簡潔に記したものだ。次は質のよいウイスキーでも持ってこようと考えながら背を向けると、彼の呼吸がきこえた。
「ヴィオレッタ」
 ぽつりと落ちた低い声を、その音の意味を、一瞬ただしく理解できなかった。ザンザスに名前を呼ばれるのは、ひどく久しぶりのことだったから。ああ、ザンザス。瞳に軋むような熱と痛みが広がる。あなたは、帰ってきたのだ。わたしは、あなたの帰りを、ずっと待っていた。
 振り返る。ザンザスは、やはりわたしを見てはいなかった。手元のグラスを揺らし、目には薄く睫毛の影が落ちる。
「てめぇは対価に何を望む」
「……あなたに傅くこと。情報料を支払ってくれるという話なら……、そうだね、あなたなら、林檎でいいよ。とびきり赤くて、できれば硬くて酸っぱいやつ」
 冗談でないことは、きっと彼がいちばんわかっているだろう。ザンザスは不機嫌を隠そうともせず顔を顰め「失せろ」と言い捨てた。


close
横書き 縦書き