おでかけ

 カーラジオが伝える交通情報に、ふんふふふーんと気の抜けた鼻歌が重なる。コウはハンドルを握ったまま、ちらりと音の発生源を見た。キヨは助手席からほんのすこし身を乗り出し、窓のむこうで流れていく景色を眺めている。といっても、そこにあるのは真白い地平線と灰色の空だ。樹氷にまじって雪に埋もれた看板や家々が窺える程度で、この国に生まれたキヨにとってはさして特別な光景ではないはずである。しかし、その調子外れのハミングは彼女がいつになくご機嫌なことを知らせていた。ガラスに映る表情を確かめずとも、にこにこと笑っていることは想像がつく。
 キヨは随分とはしゃいでいた。こじんまりとした田舎町へ、日用品の買い出しに行くだけだというのに。冒険とも旅とも言えない、なんてことのないおでかけを、この少女はかくもよろこぶのである。たった、こんなことでだ。キヨが楽しそうに鼻歌を弾ませるほど、コウのあばらの内側には掬いきれない澱が沈んでいくようだった。
「……はあ、」
 深々とした溜息を吐いて感情を逃す。するとキヨはぴたりと鼻歌をとめて「運転、つかれちゃった?」と透明なまなざしをコウへと向けた。
「こんな真っ直ぐな道で疲れるかよ」
「運転って、道がまっすぐなほうが楽?」
「まあ、アクセル踏むだけでいいからな」
「じゃあ、わたしにもできる?」
「やらせるか」
 ばかいうな、と顰め面で告げれば、キヨはなにが楽しいのかくすくすと笑って、また鼻歌を奏で始める。何の曲かは、わからなかった。

 いっそ村と呼んだほうが正しいのではないかという田舎町には、そういくつも店はない。目当てである食料品と生活雑貨を取り扱う商店の近く、雪で覆われた空き地に車を止めて、コウはシートベルトをかちりと外した。いつもの極光観測に比べれば短距離ではあるが、人を乗せて運転するのはやはり疲れる。コウがばきばきと肩と腰を伸ばしている間に、キヨは上着だけ羽織ってさっと外へと出ていった。助手席に手袋もマフラーも置いたままにして、だ。
「……おい、キヨ――」
 バタン! と言葉が終わらないうちに助手席の扉が閉じる。聞いちゃいない、と小さく舌打ちを落とし、コウは自分とキヨのぶんの防寒具をひっつかんで車を降りた。キヨは真白い雪に点々と足跡を残しながら、気ままに歩いている。そして空き地の端に雪だるまを見つけ、立ち止まってしげしげと眺めていた。抜け落ちそうな木の枝の腕を押し込み、ボタンの目の位置を整えてやる。地面に残る轍の跡をつついたり蹴ったりして、さらに常緑樹に実る赤い実を摘む。
「キヨ」
「うえっ」
 放っておくと次から次へと興味が移って、終いには駆け出して迷子になりそうだ。そうなる前に首根っこを掴めば、潰れた羊のような声が漏れた。青まじりの灰色の瞳は非難するようにコウを見上げる。
「勝手に動くな。大人しくしてろ」
「うー……」
 呻くキヨは、ごちそうを前に待てを命じられた子犬に似ている。昂る気持ちと理性が戦っているらしい。キヨは瞼をおろし、すう、はあ、と深呼吸してから「わかった」と頷いた。理性が勝利したらしい。彼女が理性より感情を優先することは、おそらくコウが思っているよりもずっと少ないのだろう。だからこそ、こんな田舎町へのおでかけでああもはしゃいでしまうのだ。
 ご機嫌な鼻歌は見る影もなく萎れてしまっていた。しょもしょもと下がった眉がちくりとコウの胸を刺す。溜息を落とすと、びくりとキヨの肩が跳ねた。『怒ってる?』とそのまなざしに問いかけられて、溜息の代わりに言葉を探す。
「……夜まで時間はあるだろ」
 沈黙のはてにコウはそれだけを告げて、あちこちに跳ねた白茶けた髪のうえからマフラーを巻きつけてやる。キヨはきょとりと目を瞬かせた。自分でつけろと手袋を渡せば、ようやく自分がコウも防寒具も置き去りに飛び出したことを理解したらしい。それから言葉の意味も。
「ありがと!」
 マフラーに顔を埋めるようにしてキヨが笑う。コウはふいと顔を逸らし「先に買い物を済ませるぞ」とだけ呟いた。


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