眠れない夜のこと

 その夜は、雨が降っていた。
 分厚い雲は極光を遮るから、悪天候の夜は極光観測も取り止めとなる。まさしく降って湧いたような休息を持て余し、コウは力なくベッドに横たわっていた。
 冬のラップランドに降る雨は、春を告げる天の声だという。みるみるうちに春になるよ、と副所長が言っていた。残念そうだったのは、やはりオーロラが現れなくなるからだろうか。休暇に入るのかと問えば、撮り貯めた記録の分析をすると返されたので、もしかするとその作業があまり好きではないのかもしれない。
 春になれば、夜ごと観測へ駆り出されることもなくなる。慣れない夜更かしに疲弊していたはずなのに、そのことをすこし残念に思う自分がいた。ずっと冬であればいいのにとさえ、思う。極光が雪と氷を照らす極彩色の夜。静かで穏やかな、閉ざされた大地――雨のない世界。
「……、」
 雨の気配が、する。
 断熱に重きをおいた建築は自然の音も遮ってしまう。そのはずなのに、コウの鼓膜は雨の囁きに震え、肺には湿気た空気が満ちている。心臓が重苦しく沈むような、思考が痺れるような、つむじから爪先まで糸が張り詰めたような。何をする気にもなれず、しかし意識を手放せもしない。ただ薄暗い天井を見つめて、無為に時間を消費している。
 雨の夜は決まって眠れない。
 この感覚を、コウはしばらく忘れていた。氷点下の世界ではたいてい雪にしかならないからだ。
 もう子どもでもないのに、と口のなかで舌先を噛む。じわりと滲む痛みだけが、コウを漫然とした記憶の再生から掬いあげていた。
 コン、と控えめなノックが響いたのは、かすかに鉄錆のにおいが掠めたときだった。
「……キヨ?」
 ほろりと転がり落ちた名前に、はっと口を噤む。自分はどうしてその音を紡いだのだろう。
 ベッドの上から扉を見つめれば、もう一度、ノックの音が響いた。やわらかく、遠慮がちな、そして少しばかり低い位置。ちらりと時計を見遣れば、日付はとうに変わっている。だが、この観測所の人間にとっては十分に活動時間の範囲だ。
 コウはゆっくりと起き上がり、重たい足を引きずるように扉へ向かった。ドアノブに手をかけ、キィと薄く開けば、廊下のひかりが線のように伸びて入り込んでくる。
「おこしちゃった?」
 眩さに細めた視界には少女の姿があった。カランッと氷が融けるような澄んだ声が夜をかすかに震わせる。直感は間違っていなかった。それが不思議で、少しばかり座りが悪い。
 キヨは両手で大きな枕を抱きしめていた。王侯貴族のマントのように羽織ったモスグリーンの毛布を引きずり、冴えた瞳でコウを見上げている。
「いや……どうした?」
 答えながら、コウはキヨの返事をなかば予想していた。いかにもベッドから抜け出してきたという格好がなくとも、自分がそうなのだから。
「……寝つけないの」
 キヨが言う。
「……だから?」
「いっしょに寝ようよ、コウ」
「スヴィに頼め」
 ぎゅっと眉を顰め、この観測所に常駐する唯一の女性の名前を告げる。艶やかなストロベリーブロンドを持つ彼女は、その見目に反して少々粗雑な部分はあるが、面倒見はそう悪くない。
 キヨが寝付けないのは、よくないが、よかった。ひとりで眠れないというのも、キヨがまだ子どもであることを思えばわからなくもない。しかしそこでコウを頼るのは間違いだから。
 問題は添い寝することの可否ではない。子どものほうから、家族でも何でもない他人にそれを頼んでくる無防備さだ。彼女にとってこの観測所は家で、そこに住まう人間は家族なのかもしれないが、それだけの認識で生きていくのは危うい。――少女がここを出て行くことがあるのかは、わからないが。
「だめだよ。スヴィ、今日はアーペリのところだもん」
 なけなしの気配りを、キヨはくちびるを尖らせて否定する。
「……は?」
「子どもがじゃましちゃいけないの」
 気の抜けた音がこぼれ落ちた。一拍遅れて言葉の意味を理解し、そういうことかと額に手をあてがう。言われてみればアーペリとスヴィは歳が近いことを含めても仲睦まじく、その距離感も恋人だからと知れば腑に落ちる。
「もしかして気付いてなかったの?」
 きょとんとした透明な瞳に見つめられ、コウは無言で肯いた。どうやらキヨのほうこそ気配りしてコウを訪ねて来たらしい。
「あー……、だからってな……一緒には寝ない」
「どうしても?」
「どうしても、だ」
 答えれば、キヨは目に見えてしょぼくれた顔をする。垂れ下がった眉にちくちくと胸を刺され、ぐっと息が詰まる。目の前で不安げに佇む子狐を、どうにも無碍にはできなかった。さっさと寝ろ、と扉を閉ざすのは容易いけれど、そうはしたくなかった。雨の夜に眠れない不安をコウは知っている。
「……おまえが寝るまでなら、付き合ってやってもいいが」
 ――君はずいぶんとキヨに甘いなぁ。昔の自分でも重ねているのかい?
 脳裏をよぎったのはドミニクの言葉だ。慇懃無礼という言葉が形を為したかのような胡散臭い笑みと、それとは裏腹に冷たく見透かした目をしている彼のことが、コウは正直なところ苦手だった。巫山戯たような、からかうな口調で、しかし言っていることはいつも正しいのが最悪なのだ。
「ほんとう⁉︎」
 半ば投げやりな気持ちで紡いだ言葉を、しかしキヨは満面の笑みで受け止める。
 キヨがやった、と両手を宙に突き上げると、ばさりと毛布が波打った。
「待て」
 早速コウの部屋へと入ろうとする少女の、その小さな頭を片手で掴んで止める。キヨはうえっとかすかな悲鳴をあげ、指の隙間から「うそつきなの?」とじっとり睨んだ。
「おまえを寝かせるベッドは俺の部屋にはない」
「コウのベッドでいいよ」
「俺の寝る場所がなくなるだろうが」
「一緒につかったらいいのに」
「だめだ」
「じゃあどうするの?」
 ぷん、と怒った顔をして見せたキヨに、短く「食堂」と返す。この観測所で人々の憩いの場として整えられた食堂には、大きな食卓のほかに暖炉とソファーがふたつ置かれているのだった。

 ホットミルクをくぴりと飲んで、キヨはほとりと頬を緩ませた。三人掛けのソファーは少女の軽さでは対して沈まず、彼女が持ち込んだモスグリーンの毛布が苔のように広がっている。コウはそれをなんとはなしに眺めながら、ちろちろと揺れる炎に薪を重ねる。少し前まで誰かが使っていたのか、暖炉には置き火が残っており、一から火を起こさずに済んだのは僥倖だった。
「ベリーでジャムをつくる約束、覚えてる?」
「ああ」
 ひとり掛けのソファーにどしりと腰を下ろし、キヨにやった余りのホットミルクに口をつける。マグカップの半分にも満たないそれはこくりこくりと喉を落ちて、ほわりとからだをあたためた。
「たくさん作ろうね。あのね、なんでもジャムになるんだよ。グレープフルーツも、ルバーブも、玉ねぎも、なんでも。コウはなんのジャムがすき?」
「どれでもいい」
「コウはいつもバターしかつけないもんね」
 なにが楽しいのか、キヨはいつにもましてにこにこと笑みを咲かせる。
「わたしはやっぱりベリーのジャムがいいな。春ってすごく短いから、すぐ夏になって、そしたら森にはいろんなベリーが実るんだよ。いろんなベリーを混ぜてもいいし、一種類ずつジャムにするのも楽しそう」
「食べ切れる量にしろよ」
「……でも、余ったらオスソワケしたらいいでしょ?」
「誰に」
「……村の人とか!」
 まともに話したことないくせに、と思ったが口にはしない。極光観測所から最も近い村まででも車が必要な距離だ。それに何度か一緒に行っているが、少なくともコウよりはキヨのほうが村人に受け入れられている。それこそジャムを分けにいけば仲良くなれるのかもしれない。
「村のやつらも余らせてたら?」
「そしたら、交換したらいいよ。つくるひとによっても味がかわるって、アーペリもラウリも言ってたもん」
「そうかよ」
「ベリー摘みもジャムも楽しみだけど、春のあいだに森へいったらたくさん花が咲いてるんだろうね。白くて小さい花、かわいいの。実らせるためには摘んじゃいけないのがちょっとだけざんねん」
「そうか」
「そこは、じゃあいっしょに見にいくか? って言うところだよ!」
 心なしか声を低めたキヨは、コウの真似でもしているつもりだろうか。けれど、コウがそれに気づくことはなかった。とりとめのない言葉たちは耳を滑っていくばかりだ。
「それで?」
 コウはさも面倒げに問いかける。キヨはこてんと首を傾げた。
「なに?」
「……寝つけない理由に心当たりは」
 それを訊ねようと思ったことに、深い意味はなかった。このままでは延々ジャムだとかベリーだとかの話を聞かされそうだったし、あるいは、ほんの少し、キヨという少女自身のことを知りたいと思ったからかもしれない。
「うーん、いつも起きてるから?」
「じゃあおまえは雨の日のたび寝つけないわけか」
 無意識に溢れた言葉は、彼自身がそうだからに他ならない。口にしてからそのことに気づいて、コウは目の前の少女に見えないよう小さくほぞを噛んだ。つきりとした痛みはいつだって余計な感傷を払ってくれる。
「そうかもしれないね」
 キヨがくちびるに微笑を湛えたまま囁いた。その透明な瞳は、たった今滲んだ鉄錆のにおいさえも見透かすようで、なのになぜか心地よい。
「雨の夜は……ちょっとだけさみしくて、でも安心するの」
 パチッと薪のはぜる音が響いた。こちこちと時を刻む針の音に、キヨの澄んだ声と、毛布とソファーが立てるかすかな衣擦れが重なる。
「オーロラがね、みえないから。雲のうえにはきっと今日もオーロラがあって、この星はゆらめく光のように好き勝手におしゃべりしてて、でもだれにもそれを聞いてもらえないんだと思うと、……なんだか、そう、かわいそうなかんじがする。だってわたし、お話しするなら聞いててほしいもの。でもね、ドミニクはね、オーロラの言葉がわかるのは君だけなんだから、オーロラのほうもまさか聞いてるやつがいるとは思ってないだろうしいいんじゃないかい、って言うの。おチビさんは無視を覚えるべきだよって。そのくせドミニクの話を無視したら、怒るんだよ。ほっぺをつついてくるの。やめてって言ってるのに、やめないんだよ。ああいうの大人げないと思う……聞いてる? コウ」
「……ああ、」
「よかった」
 反射的に頷いてから、瞼がずいぶんと重く感じることに気づいた。雨があがったのだろうか。耳を澄ませば、しかし音を確かめる前にキヨの声が鼓膜を震わせた。
「なんの話だっけ、ええっと、そう、ドミニクじゃなくて、オーロラの話。さみしいけど、安心もする。雨の夜は、彼らの話を聞かなくてもいいから……あ、ちがうよ、べつにいつも話を聞きたくないわけじゃないんだよ、だってそれがわたしの仕事だもんね。みなさんの生活はわたしの研究が支えているのです。えっへん!」
 そうだな、と返した声は掠れている。コウのからだはすでに微睡みはじめていて、柔らかなソファーと暖炉の温もりが――少女の声が、穏やかな夢へと誘う。
「彼らの話を聞くことは、すきだよ。うん、すきだと思う。……だれも教えてくれないことも、極光は知ってる。わたしが聞いた彼らの言葉をね、じょうずにつかうと、世界はちょっぴり良くなるんだって……これドミニクが言ってたことだから、うそかもしれないし、証拠もないけど、でも、そうだったらいいなって思うもの。でも、だけどね、……雨の夜、今日は彼らの言葉を聞かなくていんだって思うと、たぶん、安心しちゃうの。だって言葉はいつも目まぐるしくて、たくさんの人が一斉に喋ってるみたいに渦巻いてて、なんだか溺れそうになる……光が、極光が、ゆらゆらゆらゆら、ゆれて、またたく、まどろんで、灼きついて……目を閉じてもあの光が離れなくなって……だから、ときどき……こわくなるの」
 わたし、いつかあの光へとけてしまうんじゃないかな、って。
 落ちゆく意識が辛うじて捉えた囁きは、おそらくもう返事を求めてはいなかった。夜に翻る極光がそうであるように、だれに聞かせるまでもない言葉たち。けれど、コウは瞼の裏の暗闇、夢と現実の狭間で口を開く。
「……、……」
 眠りの淵に立った思考は、自分が何を言ったのかわからなかった。いや考えたくもない。きっとそれは、少女にとっては到底実現し得ない、夢物語みたいなことだっただろうから。
「でも、だからコウに会えたんだよ」
 澄んだ声がちいさく微笑む。それでぜんぶがチャラになるわけがないだろ、と言ってやりたかったけれど、音にはならなかった。

 ◇

 物音に瞼を持ち上げると、目と鼻の先にニヤニヤとした薄笑いを浮かべる男の顔があった。白髪混じりのダークグレーの髪は隙なく整えられ、ブラウンとイエローが滲んだアンバーの瞳は愛嬌と意地の悪さを破綻なく同居させている。ドミニクだ。
「おはよう。酷い顔だよ、コウ」
「誰のせいだ」
 ぎゅっと眉間に寄せた皺は窓から差す朝日ばかりが理由ではない。そんなことドミニクもわかっているだろうに、離れていく顔に張り付いた笑みはかけらも損なわれなかった。
「だいたいあんた、なんで俺の部屋、に……」
「おや、いつからここは君の部屋に?」
 ドミニクは態とらしく目を丸め、とん、と指先で顎を叩く。
「僕の記憶が確かなら、ここは食堂ではなかったかな?」
「……寝起きで忘れてただけだ、いちいち揚げ足をとるな」
「これは失礼。性分でね。なにせほら、我々は曲がりなりにも言葉を扱っているわけだから。キヨもそう思うだろう?」
「今のはドミニクがいじわるだったと思う」
 声は、背後から聞こえた。振り返れば、窮屈なソファーに押し込められた身体がパキパキと音を立てる。キヨは食器棚からガラスのコップを出しているところだった。主に彼女のために常備されているオレンジジュースを注ぎ、けれど自分では飲まずに、コウへと差し出してくる。
「おチビさんは優しいねぇ」
 ニヤついた呟きを無視して、オレンジジュースを受け取った。太陽に似た色の果実は甘酸っぱく、少しだけしみて痛い。一息に飲み干せば思考は冴えた。立ち上がるとモスグリーンの毛布が床に落ちる。キヨを見ると、ぱちりと目が合った。
「おはよう、コウ。昨日はごめんね、運べないし、置いてけぼりにしちゃった」
「声をかけてくれたら僕が運んであげたのに」
「……おまえは部屋で寝たのか?」
「うん」
「ならいい。今、何時だ?」
「いつもよりちょっと早いぐらい。朝ごはんつくるならてつだうよ」
「……着替えてくるから待ってろ」
「はあい」
 無視はよくないと思うなぁ、などと嘯くドミニクのことは無視して、コウは食堂を出る。長い廊下を歩きながらふと窓を見て、立ち止まった。
 どこまでも広がっているはずの雪原は、ペンキが剥がれ落ちて錆が現れたように茶色く染まっている。雪が溶けて、大地が覗いているのだ。常緑樹には朝露が滴っている。春が近いとはいえ、まだ夜は冷えるはずなのに、だ。だから、雨は夜通し降っていたのだろう。
 ――キヨも眠れたのだろうか。
 雨の夜に、悪夢に魘されることもなく眠れた事実に思い当たって、浮かんだのはそんなことだった。


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