歩けない夜のこと

 極光観測所に帰ったとき、キヨは助手席で眠っていた。どうりで静かだと思った、とコウは穏やかな横顔を視界の端に留める。時刻は真夜中よりも夜明けに近く、子どもが起きていられないのも当たり前だが。キヨが帰り道で眠ってしまうことも、そう珍しいことではない。
「着いたぞ」
 シートベルトを外しながら声をかけると、キヨはかすかに呻いた。
「……ねむくて、あるけない……」
 うっすらと瞼を持ち上げたキヨが、ぽそぽそと呟く。こんなことを言うのははじめてだった。コウは一瞬面食らったものの、ふと、閉じた瞼のむこうで透明な瞳が注意深くこちらを窺っている気配を察する。こいつは起きてるし、歩ける。眉根を寄せた。
「じゃあそこで寝てろ」
 キヨを助手席に残して車を降り、トランクに積んでいた機材をガレージ直通の倉庫へ移す。積んだままにしないのは、この機材が物によってはジープより高価で、紛失してしまうと代替えが効かないからだ。特に重要な記録端末を回収していると、バンッ、と鈍い音が響いた。助手席の扉が閉じたのだ。
「眠くて! 歩けないの!」
 雪に濡れたジープにもたれかかり、ぎゅっと瞼を閉じた少女がそう叫ぶ。
 どこが、と思ったが口にはしなかった。指摘するのも面倒くさかったから。
 コウが粛々と片付けを進める間も、キヨは同じ姿勢でジープにもたれていた。寝たふりを続ける姿は健気と評してもいいのかもしれないが、どちらかといえば鬱陶しい。
 機材をすべて倉庫に入れ、記録端末を収めたケースを片手に持つ。それから倉庫にもジープにも鍵をかけ、コウは観測所につながる扉へ向かった。
「……こーーうーーー!」
 背後から雪玉を投げつけるような声が響いた。思わず足を止め、そうしてしまったことにこそ深々と息を吐く。ちらりと視線をやると、キヨは一歩も動いていなかったが、その透明に見える瞳をでコウを睨めつけていた。やはり起きている。
「自分で歩け」
「歩けないの」
「そりゃあ大変だな」
 ハンと鼻で笑いながら扉に手を掛ける。それでも、キヨは動こうとしなかった。背中に突き刺さる視線を感じる。責めている。それだけならどうでもよかったが、啜り泣くような呼吸がかすかに鼓膜を震わせた。
「………………なんで歩けないんだよ」
「あのね、眠いから」
 さんざ迷って絞り出すように問いかけると、訊かなきゃよかったと思うようなご機嫌な答えが返される。呆れつつも振り返れば、しかしキヨはコウが想像していたような顔はしていなかった。
 てっきり笑っていると思っていた。泣き真似でコウをまんまと騙して、得意そうにしているのだと。けれどキヨが浮かべていたのは、かなしげな微笑みだった。自分でもどうしたらいいのかわからない子どもが、大丈夫かと問われて、大丈夫です、と言うときの顔に似ている。無防備に晒された傷は、それだけ彼女がその痛みに無頓着であるということだ。キヨは、自分が今どんな顔をしているのか知らないだろう。
「……今、自分で歩くなら……ココアでもいれてやる」
 コウが言うと、キヨの顔がぱっと輝いた。そろり、と確かめるように一歩踏み出し、そして雪原を跳ねる子狐のように駆け寄ってくる。
 歩けるじゃねえか、とは言わなかった。一番最初にあるけないと呟いたとき、キヨはもしかしたら、ほんとうに、自分はもう歩けないと感じていたのかもしれない。だとしたら、自分がすべきは少女を抱き上げて寝室へ運ぶことではなく、おまえは歩けるのだと信じさせることだと思った。
「ひどい、コウ。置いていこうとするなんて」
 隣に並んだキヨがくちびるを尖らせる。
 コウは渋面をつくり「置いていかなかっただろうが」と返した。


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