最果ての日々

 電子音が鳴っている。瞼を薄くひらけば、ベッドサイドに置いた携帯端末がぼんやりと部屋を照らしていた。
 目覚ましの音だ。心のなかで呟く。起きなければならない。
 不鮮明ながら目覚めた頭が辛うじて判断を下し、どくりと動いた心臓が全身に酸素を運ぶ。コウは息を深く吐いて、それからひといきに起き上がった。めくれた毛布の隙間から熱が逃げていく。携帯端末を手に取ると、近づいた光に目がしぱしぱと眩んだ。
 時刻は午前10時30分。これでも、この観測所では早起きなほうだ。
 はめ殺しのガラス窓にかかったカーテンをひらく。遠く地平線まで真っ白い、雪と氷に覆われた平原。極夜の時期を終え、しかし春には遠い三月の陽光が雪に照り返し、網膜に刺さる。この景色を見るたびに、遠くへ来たのだと痛感する。
 フィンランドの最北、ラップランド。人の気配が希薄なこの地に、コウが身を寄せる極光観測所はぽつりと佇んでいた。
 感傷を振り払うようにカーテンを閉め、ベッドを降りる。洗面所の明かりをぱちりとつければ、鏡に不機嫌そうな男の姿が映った。コウは顔を洗い、髭を剃る。短く切り込んだ黒髪は特別な手入れも必要なく、手櫛で寝癖を誤魔化すだけでいい。それから適当な服を掴んで着替え、さっさと朝の仕度を終える。
 極光観測所は、その名のとおり極光――オーロラを観測するための施設である。
 成り行きで居着いたコウにはよくわからない世界だが、いくつかのスポンサーを抱えた私立研究機関らしい。全体的に白く無機質な建築は確かに研究所と呼ぶに相応しく、しかし研究員の住居としての機能も十分に備えていた。氷点下20度にもなるという外気を、この中ではかけらも感じない。
 長い廊下を抜けた先に共用の食堂兼キッチンがある。無垢材をつかった大きなテーブルに、横並びに座れるベンチと背もたれつきの椅子が並べられ、壁際にはキッチンスペースが設けられている。できた料理をすぐに運べるし、大きなダイニングテーブルは作業台代わりにもなるから、使い心地のいいキッチンだった。それに、ほっとする。食事をする場所だからか、研究機関らしい白白しさはなりを潜め、あたたかみのある調度品に囲まれているからだろう。
 食堂へ顔を出すと、珍しく先客がいた。研究員の一人、アーペリだ。傷んだ赤毛をひとつくくりにした彼は、コウを見るなりくたびれた顔に笑みを浮かべて迎える。
「やあ、コウ。朝ごはんかい?」
「ああ。あんたのも作ろうか」
「いやいいよ、今から寝るところなんだ」
 極光観測のため、研究員の多くは夜型の生活をしている。それは承知しているが、ずいぶんとひどい夜更かしだ。つい眉間に皺が寄る。アーペリは「ははは」と苦笑で誤魔化した。彼はコウが来るまで観測所で二番目に若かったとはいえ、三十は過ぎており、そろそろ無理のきかない体になっているはずである。怒りの気配を察知してかそそくさとキッチンを出て行く背中にため息をつき「夜には起きろよ」と声をかける。仰せのままにシェフ、と冗談まじりの声が廊下に響いた。
 観測所におけるコウの役割は、シェフではなく雑用係である。
 天文学どころか理数系の知識もほとんどない彼にできることは多くない。はずなのだが、研究者というのは大なり小なり生活力に乏しく、寝食を忘れて研究以外のすべてをないがしろにすることが多い。そうした環境において、特に夢中となる研究も持たず、一通りの家事をこなせるコウの存在は、それなりに頼りにされているようだった。

 研究員たち用に片手で食べられるサンドイッチをつくり終えると、もう正午を過ぎていた。そろそろ起き出してくるころか、と二人分の食事をつくりはじめる。これを朝食と呼ぶか昼食と呼ぶか、コウはいつも迷う。キャベツとベーコンのミルクスープに、根菜とブロッコリーの温野菜、ソーセージにチーズオムレツ、黒いライ麦パン。メニューで判断するなら朝食だろうか。オムレツの卵を溶いていると、背後に人の気配が立つ。
「コウ、おはよう」
 雪の結晶が砕け散るときに音がきこえたなら、きっとこの声に似ているのだろう、と思ったことがある。きんと高く澄んで、わずかに幼さの残る声だ。
「なにつくってるの? おてつだいしようか?」
 ぺたぺたとルームシューズを鳴らしながら近づいてくる声に振り返らないまま「顔を洗って髪をとかしてこい」と告げる。ぴたり、と足音が止んだ。やっぱり今日も起きてすぐキッチンへやってきたらしい。
 ちらと視線をやると、白茶けた髪をあちこちへ跳ねさせた少女が、不満げにコウを見つめていた。この国でも長身の部類に入るコウと比べると、その身体は小さく華奢だ。顔立ちは丸さがとれかけ整っているがどこか危うく、十四という年齢にも追いついていないように見える。着替えを済ませているのは褒めるべきかと悩んだが、いやそんなことで褒めさせるな、と思ってやめた。
「顔を洗え。髪をとかして寝癖を直せ。メシはそのあとだ」
「おてつだいは?」
「おまえが間に合ったらな」
 短く返して、熱したフライパンにバターを落とす。じゅわじゅわと音をたててバターが溶け、あたりに香ばしいにおいが立ち込めた。そこに卵液を入れれば、少女の行動は早かった。部屋に戻る時間も惜しいらしく、シンクで顔を洗いはじめる。新しいパターンだ。食器棚のガラス戸を鏡代わりに手櫛で髪を整える。オムレツを作りながらその様子を窺っていると、どうやら寝癖のひとつに大苦戦しているようだった。
「――おわった!」
 右手で寝癖を抑えながら少女が言う。ズルしてるだろ、と指摘する代わりに「こっちも終わった」とフライパンの中でオムレツを半分に切ってそれぞれの皿に移す。少女は愕然とした様子でコウを見つめたのち「ずるい!」と叫んだ。
「……カトラリーをだしてくれ」
 仕方なしに仕事を与えると、少女はにっこりと笑みを咲かせて食器棚に向かう。右手が離れた頭から、ぴょん、としとどに濡れた髪が現れて揺れた。
 食卓に皿を置き、トースターであたためたパンのかご、バターとジャムも並べる。少女はナイフとフォークを二本ずつ持ってきて、皿に立てかけるように置いた。自分には水を、少女にはオレンジジュースを注いでやり、対面に座る。
「いただきます」
「イタダキマス」
 コウが言うと、少女もカタコトの発音で真似た。いったいなにが楽しいのか、彼女はコウが呟く日本の言葉を真似てはにこにこと笑う。この歳の子どもが考えることはよくわからん、とコウはいつも思う。まだ八年前のことでしかないのにだ。
「今日はなにするの?」
「車の整備。タイヤの空気がずいぶんと抜けてた」
「おてつだい、」
「いらん」
 この少女はやたらとコウの手伝いをしたがる。しかし極光観測所で唯一コウよりも歳下の少女は、それでも間違いなく研究員の一員であり、彼女にしか果たせない職務を与えられている。そしてこの少女は、研究以外のことは基本的になにもできない。
 彼女に生活の知識を教える必要性は感じながらも、コウだってまだここに来て短く慣れないことばかりだ。手伝いは足手まといと同義で、それを抱えながら仕事するのは、正直なところ疲れる。
「……明日は買い出しに行く」
 しかし、しょぼくれた顔でオムレツをつつく少女に、つい口が滑る。
「まだフィンランド語がよくわからん。通訳を頼めるか?」
「行く! ぜったい行く!」
 少女の顔がぱっと輝いた。好奇心旺盛な子狐のように、瞳を爛々と輝かせる。コウのほうも、思いのほかいい提案だったのかもしれないと思えた。観測所の共用語は英語だが、一歩外に出ると公用語はフィンランド語――彼らの言葉ではスオミ語となる。英語が通じる人間は多いが、会話にはどうしてももどかしさが生まれる。少女が通訳をしてくれれば買い出しも円滑に進むはずだ。
「副所長にはおまえから話しておけよ」
「うん!」
 とても元気のいい返事だった。少女は、あまり街へ出ない。だから行き先がこじんまりとした田舎町でも、少女にとっては特別な旅になるのだろう。
 コウはかすかに眉を寄せた。十四歳の少女が生活する場所として、ここはあまり相応しいとは言えない。そのことをわかっていながら、指摘できずにいる。
 コウは少女が差し出した小さな手をとってしまったから。
 少女の自由を犠牲にした恩恵を、受けている自覚がある。
 小さな嫌悪感は自分に向けられたものだった。少女はそんなことも知らず、オムレツとパンを口いっぱいに頬張って、もごもごと一生懸命に咀嚼している。欲張って大きく食らいついたのだろう。安穏としか言いようのない光景を前に息をつく。
「キヨ」
 名前を呼んだ。より正しく発音するならキーヨゥとなるが、少女はこの簡潔な響きを好んでいるようだった。
「なあに?」
 透明にも見える青まじりの灰色の瞳が、きょとんとコウを見つめ返す。
「食べかすが引くほど顔についてる」
 白い肌にぱっと赤が散る。キヨは紙ナプキンをとり、ごしごしと口元を拭った。

   ◇

 ガレージでの洗車と整備を終えたのは四時過ぎだった。オイルで汚れた布を放り込んだバケツ片手に長い廊下を歩きつつ、分厚いガラス越しの外を見やる。広々とした雪原は黄金色の光を受けて輝いていた。ラップランドの雪は五月頃まで残るらしい。コウにとってこの地は雪と氷の国で、春の姿は想像がつかない。
 けれど、いずれは知ることになるのだろう。
 春になっても、コウはきっとここにいる。
 ――どこにも行くあてなどないのだから。
 するりと忍び込んだ冷たいものが、ふ、と心臓を掴んだ。あばらの内側に生まれた空白を埋める手立てはあるのだろうか。コウにはわからない。ずっと、この空白とともに生きてきた。
「コウ!」
 思考を掬い上げたのはキヨの声だった。ぺたぺたと足音を鳴らし、ぶかぶかの白衣を翻しながら長い廊下の向こうから駆けてくる。寝癖はちっとも直っていなかった。
「ね、今からごはんつくるんでしょ? てつだうよ」
「仕事は」
「終わったもん」
 えへん、とキヨが胸を張る。白衣の襟がめくれあがっていた。コウは無言で襟を直してやり、それ以上は口を開かずキッチンへ向かった。キヨは「ねえねえ今日はなにつくるの」とご機嫌にまとわりついてくる。バケツを持とうとするので、キヨには届かないだろう高さに抱えた。窓の外をちらりと見る。日没まであと一時間ほどだろうか。
 極光観測所は、夜を迎えてからが本番だ。

 夕飯時の食堂はこの観測所が最も賑やかになるひとときである。
「今日のロールキャベツは絶品だ」
 と、アーペリがにこにこしながらロールキャベツを頬張る横で、副所長を務める老紳士が「街へ行くならお使いを頼みたいのだが」とコウへと声をかける。コウが「リストをください」と返せば、近くに座っていた白髪混じりのダークグレーの髪の男が、アンバーの瞳を意地悪そうに細めた。
「副所長の手を煩わせるものではないよ」
「……あとで、メモをとりに行きます」
「いいんだよドミニク。コウ、ありがとう。わかりにくいものもあるから、あとできちんと説明しよう」
 ドミニクと呼ばれた男は肩をすくめ、コウを流し見た。彼のことは少し苦手だ。コウは目を逸らし、鍋のなかを覗く。研究員たちが大きなテーブルを囲むその団欒に、コウはいなかった。
 くすんだ金髪の大男が「潰れてないな」とぼそりと呟いたのは、フォークですくったマッシュポテトのことだろう。「それキヨがつくったみたいよ」と、ストロベリーブロンドの女が軽やかに答える。大男はそうかと頷いてそれを口に含み、様子を窺っていたキヨにちいさく頷いてみせた。
 そのほかにも、研究員たちは好き勝手に話す。業務報告も兼ねた会話を適度に聞き流しながら、コウはキッチンに向かい夜食づくりを続けていた。
 食事会が終われば、研究員の何人かは極光観測へ出る。気まぐれなオーロラを捕まえるために、この観測所では夜ごと二人一組で雪原を走り回ることになっていた。残るほうも徹夜だ。
「コウもたべないと」
 ひとり食卓を離れたキヨがコウの隣へやってきて、そう苦言を呈した。研究員ではないコウも、運転手として観測に付き合う。それもキヨと二人でだ。少し前まではコウとキヨと副所長の三人で行っていたが、もう任せられるとお墨付きを賜ったのだった。他の研究員は持ち回りで担当するが、キヨとコウだけは晴れた日の夜は必ず外へ出る。
「あとでな」
「コウはいっつもそう言って、スープが冷めちゃう」
「あたため直して食べてる」
 夜食はラム肉と野菜をたっぷりと入れハーブと塩を効かせたスープに、チーズを挟んだライ麦パン。それから眠気覚ましの珈琲を人数分の保温ボトルに淹れる。コウが夜食をつくり終えて食事を取っている間に、他の研究員たちが観測のための機器を車に積みこみ、ガレージ前を除雪してくれることになっていた。
「コウといっしょに食べたいの」
 くい、と裾を引かれて眉間に皺を寄せる。キヨは、副所長をはじめ研究員たちには聞き分けがいいくせに、コウに対してはよくわがままを言う。年齢が近いせいか、あるいはコウは自分が拾ったのだという自負があるからか。どちらにしろ、いつでもなんでもそれに応えてやれるほど寛容ではない。
「あとで」
 頑なにそう返すと、アーペリが「キヨ、こっちおいで」と気を利かせた。キヨは大人しく席に戻ったものの、その背中には不満と書いてある。コウは息をつき、スープの鍋に浮かんだ灰汁をとった。

「コウはどうしていっしょにごはんを食べてくれないの?」
「……朝は食べてるだろ」
「夜のこと!」
「仕事があるからだ」
「コウが来るまえは夜食なんてみんなカロリーメイトだったよ」
 助手席に座ったキヨが拗ねたようにグローブボックスを小突く。行儀が悪い、と顔を顰めると「ごめんなさい……」とすごすご足を戻した。コウはナビゲーションを見つつハンドルを切る。
 月明かりに照らされた雪原はほんのりと明るい。舗装された道はとっくに外れているが、雪原用に整備されたジープは悪路も易々と走る。防寒対策もしっかりと施されており、時おり石に乗り上げて揺れる以外は快適なドライブだった。
 星々が輝く空は見事な快晴で、雪は果てなく地平まで覆う。自分たちの他にはなにも動くものがない、静かな夜だ。
「……おまえはカロリーメイトのほうがよかったのか?」
 キヨは小食の傾向がある。体が小さいから仕方ないと思っていたが、食の好みなのだとしたら、その責任はコウにあった。訊ねると、キヨはぶんぶんと首を横に振った。
「コウのごはんがいい」
「じゃあメシを一緒に食えなくても文句を言うな」
「……はあい」
 キヨが黙ると、車内は途端に静かになる。暖房とエンジンの駆動音だけが鼓膜をかすかに撫で、けれど少しも耳障りではない。穏やかな沈黙が心地よかった。
「ねえ、コウ」
 しばらく進んだあと、不意にキヨがその柔いくちびるをひらいた。
「――たのしい?」
 無垢に問われて、咄嗟に答えられなくて、ハンドルを握る手に力がこもる。
 楽しいか、どうか。それはコウの人生にはなかった尺度だった。あるいは目を背けてきた基準だった。楽しくなくてもやらなければならないことはいくつもあったし、楽しくても諦めなければならないものも多かった。だからコウは、たぶん、もうずいぶんと長いこと、楽しいかどうかで物事を決めなかった。極光観測所に来たとき、少女の手をとったとき――この先に楽しみがあるかもしれないだなんて、期待すらしなかった。
 自分は今、楽しいのだろうか。
 そんなふうに問い直さなければならなかった。そうしてみても、わからなかった。
 キヨは返事の催促をしなかった。代わりに、助手席の窓を指差して笑う。
「見て、コウ! 狐を捕まえた!」
 小さな手が示した先には、光がある。
 緑から青、時に黄色がまざりあいながら揺蕩い、輝く――極光だ。
 大気粒子が生み出すその神秘的な光は、この国ではレヴォントゥレットという。直訳すると狐の火だ。科学が発達する前は、雪原を駆けるキツネの尻尾が舞い上げた粉雪が火花となり夜空に現れるのだと伝えられた。それにならって、極光観測所の研究員はたまに狐と呼ぶのだ。
 蕾のようだった光はあっという間に夜空を覆い、ドレスのようにゆらめいて翻る。
 ほとんど毎晩オーロラを追って、もう何度も見ているけれど、その光景はいつもコウの心臓を揺さぶった。天蓋に満ちる火は、雪原と同じように果てしなく、この体がひどくちっぽけなことを知れる。そうすると、あばらの内側の空白も、ちいさなことのように思えるのだ。
 車を停めた。トランクから機材を出し、撮影と計測のセッティングをはじめる。
 真夜中を迎えた雪原の風は、防寒を重ねた服装でもじわじわと熱を奪う。耳が痛くなるほどの静寂に響くのは衣擦れと呼吸、そして雪を踏みしめる音だけだ。コウが作業をしている間も、キヨはあたたかな助手席からじっと極光を見つめていた。いつもの手伝いたい病もこのときばかりは発症しない。それで正しかった。
 極光を観ること。
 否――読むこと。
 それが、キヨに与えられた最も重要な職務。十四歳の少女が、この最果ての地にいる理由のすべてだった。
 極光は星の言葉だ、と副所長は言う。
 あの光は語っているのだと。星にとけた死者の言葉や、大地に刻まれた記録、大気に漂う可能性を、語っている。ただそれを理解できるものは限られている。その一人が、キヨなのだと。
 極光観測所は、キヨの読んだ星の言葉を記録し、解析し、研究するための機関だ。
 はじめてそれを聞いたとき、御伽噺のようだと思った。けれど確かに、キヨは極光を読むのだ。あの曖昧に色めき、気まぐれに揺れる光たちのなかに、物語を見出す。世界の片隅に住まう少女には決して知り得ることのない情報を、極光から拾い上げる。
 だから少女は、この最果てから離れられない。
 星が語る世界をいくつもいくつも知っていても、それに手を伸ばすことは叶わない。
 機材の設置を終えて、運転席に戻る。キヨは集中して極光を読んでいた。その横顔にかすかに笑みが浮かんでいるのを見てとり、そっと安堵する。今日の星はなにか楽しいことを語っているらしい。
 星はあるがままを語る。よろこびもかなしみも、十四歳の少女が知るにはあまりに残酷な世界も。いくつもの孤独と苦痛を、少女は読んできた。それを知りながら、少女は無力で、なにもできなかった。
 少女が掴めたものは、おそらくコウだけだった。
 少女だけがコウに気づいて手を差し伸べ、コウだけが少女の手が届くところにいた。コウが少女にしてやれたことは、その手をとることだけだった。自分はなんの役にも立たないと理解しながら。
 ――おまえは楽しいのか。
 もしもコウがそう問いかけたなら、キヨは頷くのだろう。それがわかるから、コウは黙ってリクライニングシートを倒し、瞼を閉じた。星が言葉を語り終えるまでの間は眠ることにしている。職務を果たしたキヨを観測所へ安全に連れ帰るために、必要なことだった。

「……コウ……コウ、おきて。おわったよ。かえろう」
 耳元でうつくしい声がする。砕け散る雪の結晶の音。儚く澄んで、とりとめのないようでいて得難く、ふれれば壊れてしまいそうなもの。
 ゆっくりと瞼を持ち上げると、キヨの顔が目の前にあった。近い、と声に出さず呻くと、透明な瞳が遠ざかる。リクライニングを起こし、ぱきこきと体をほぐした。
「……どれだけ経った?」
「二時間くらい」
 キヨが保温ボトルの蓋をあける。珈琲の香りが車内に広がり、残っていた眠気を攫った。キヨはすでに夜食を食べたようで、シートにパン屑が散らかっている。あとで片付けさせなければならない。
 空にはもう極光の輝きはなかった。星と月だけが静かに雪原を照らしている。しん、と静まった世界にキヨがこくりと珈琲を飲みこむ音が響く。コウも自分のボトルを出して、苦い珈琲をすすった。
「あのね、コウ。今年の夏はベリーがいっぱい実るんだって」
 キヨはにっこりと笑った。極光は森の恵みを知らせたらしい。
「いっしょに摘みにいこうね。それでジャムもつくるの」
「……つくったことねえよ、ジャムは」
「教えてあげる」
「おまえが?」
「アーペリが」
「ジャムつくれるのか、あの人」
「スオミの人はだいたいつくれるって言ってたよ」
 たのしみだね。キヨが囁いた。コウはしばらく言葉を探して、結局は諦めて「ああ」とだけ答えた。それでも、キヨは笑みを深める。
「じゃあかえろー!」
 と、キヨが元気よく手足を伸ばした。つま先がグローブボックスにあたり、がん、と音を立てる。
「……キヨ」
 キヨは、えへ、と笑った。
 コウは深々と息をつき「機材を片付けてからだ」と一言だけ告げて車を降りる。キヨも慌てて続いた。ほの明るい雪原に、ざくざくとふたり分の足音が響き、こぼれる吐息は端から白んでいく。
「さむいね。はやく片付けて、はやく帰ろうね」
 キヨが言った。
 ふたりで帰るのだと信じて疑わないその声が、この最果てにコウの居場所をつくっている。


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