泣かれると困る

 パリンッ、と嫌な音が響く。
 コウが洗い物の手を止め振り返ると、食器運びの手伝いをしていたはずのキヨが立ち竦んでいた。足元にはかつてグラスだったものが散らばっている。一目見て何が起こったか理解し、短く溜息を零す。キヨが慌てた様子でしゃがんだ。
「――っばか!」
 反射的に飛び出た声は怒声に近かった。びくりと肩が震え、小さな手が宙で停止する。排水溝を流れる水の音だけが響くキッチンで、キヨは今にも泣き出しそうな、戸惑いまじりの表情でコウを見上げた。どうやらこの子どもは、今自分が触ろうとしたガラス片の鋭さを知らないらしい。
「……素手でさわるな。おまえはあっちに行ってろ」
 まだ泡の残る食器を水に晒し、手に残ったぬめりを洗い流す。キヨは所在なさげに佇んでいた。溜息を重ね「片付けは俺がやる」とだけ告げる。
 箒とちりとりを探すコウの横で、キヨはどうしようか迷うように視線を惑わせていた。その様子にコウは「行け」と短く単語を放つ。だってうろちょろされても邪魔だと思ったから。
「……ご、ごめんなさい……」
 床に散らばった破片を集めはじめたとき、涙に滲んだ声が儚く震えて消えた。ぱたぱたと遠ざかる足音に顔をあげる。キッチンにはもう、コウと割れたグラスしか残っていなかった。

「コウ」
 低い声に呼ばれて、コウは小さなガラス片を拾い集める手を止めた。キッチンの入り口には、森の奥にそびえる巨木を思わせる男が立っていた。くすんだ金の前髪は長く伸び、垣間見える瞳は鋭くも思慮深く、夜闇のような暗い青を湛えている。ロダンだ。四十を越えてなお隆々とした体躯に見合わず、彼は音もなく歩み寄る。
「どうした?」
「グラスを割っただけだ。すぐ片付ける、気にしないでいい」
 溜息混じりに答えると、ロダンは「そうか」と頷き、少し離れた場所に散ったガラス片を拾ってポリ袋に放りこむ。数秒の沈黙を経て、ロダンは重たげな口を開いた。
「キヨが泣いていた。何か知らないか?」
「泣いっ……? あー……、」
 心当たりしかなかった。でもまさか。泣きそうな顔だと思ったし泣いているみたいな声だとは思ってはいたけれど、まさか――本当に泣くとは。いや、泣かせた、のか。吐き出した呼吸の代わりに何か重いものが肺に沈む。
「原因はこれか」
 ガラス片をもうひとつ拾って、ロダンが呟く。察しが良いものだ、と苦く思いながらも否定はしなかった。
「コウ、ミルクを温めてくれ」
「は?」
「後はおれが片付けておこう」
 それがどういう意味か、わからないわけではない。コウはぎゅっと眉間に皺を寄せて見せたが、ロダンは「キヨは部屋にいる」とだけ答えて、唇の端をわずかに持ち上げた。

   ◇

「おちびさんは赤ん坊に戻ってしまったのかな」
 ぐずっ、と鼻をすする音に、ドミニクは新しいボックスティッシュの封を開ける。そうしてベッドのうえに座るキヨに箱ごと差し出してやった。キヨは数枚とって、ぐしぐしと目元と鼻を擦る。雪のように白い肌は擦れて熱を持ち、赤く腫れ始めていた。ドミニクはにこやかな笑みを保ったまま「コウと何があったんだい?」と声をかける。
「……コウに、……」
 小さなくちびるは何かを言いかけて、閉じる。さっきからこの繰り返しだ。ドミニクは、こっちを引き受けたのは失敗だったかな、と溜息を笑みに変える。
 彼が同僚であるロダンと楽しくおしゃべり――ドミニクしか話していない――しながら廊下を歩いていたところに、ぼろぼろと涙をこぼしながら少女がやってきたのは数分前のことである。自室に飛び込んでいった背中に、二人は無言で顔を見合わせ、目配せで役割を分担した。ロダンはあたたかい飲み物とおやつの用意、ドミニクはキヨの様子を見るといった具合に。キヨはドミニクの入室を止めはしなかったものの、泣いている理由はなかなか口にしない。
「コウに何かされたなら、僕が彼を追い出して来ようか?」
「……ちがう。そんなことしないで、ドミニク……」
「でも君が泣いてる原因は彼にあるみたいだ。彼が君に害を為すなら見逃してやれないなぁ」
「ちがうって言ってる!」
「違うなら事情をきちんと説明しなよ」
 ドミニクは親切心――まして親心でこの少女に付き添っているわけではない。涙を零す感情に寄り添うのではなく、それをもたらした原因を排除することがドミニクの仕事だ。無視することはできないし、最も手っ取り早い解決方法を選ぶのも吝かではない。キヨはくちびるを噛んでかすかな唸り声をあげた。
「……ったの」
「ん?」
「……コウの、コップを、わっちゃったの!」
「どうしてそれで君が泣くのさ」
「だって! だって……」
 言葉を間違えた、と気付いたのは、新しい雫がその薄青い瞳に浮かんだ瞬間だった。
「……わかった、君にとっては泣くような大事件だったわけだ。ご説明どうも」
 両手をあげて降参を示す。キヨはくっと涙と呼吸を飲み込んだ。
「……わざとじゃなかったの」
「そうだろうね」
「でも、コウに、ばかって言われて」
「ひどいやつだ」
「ちがうの! コウはやさしいの!」
「違うのかぁ」
 ――ロダン、早く来てくれ。僕やっぱりこれ向いてない。いや、君があえて僕を当てておくことでそのあとのフォローをやりやすくしようとしてるのはわかってるけどね。と、同僚の計らいを思いながら、ドミニクはキヨを泣かせて面倒ごとを増やしたコウへの小言を考えることにした。

   ◇

 キヨの部屋の前で、コウはノックのためにまるめた拳をついぞ動かせずにいた。片手に持ったマグカップからは白く水蒸気がゆらめき、みるみるその熱を失いつつある。
 この扉のむこうに、泣いている子どもがいる。その事実はコウのあばらの内側を重くさせた。どうしたらいいのかわからない。泣き止め、と言ったら、もしかしたらキヨは泣き止もうとしてくれるかもしれないけれど。でも、そうさせてはいけないことは、わかる。
 深く息を吐き、吸い込む。呼吸を止める。そして拳を振った瞬間に、ドアノブが内側から回った。すかっと空を切った拳は行き場を失くしてふらりと落ちる。
「やあ。猫舌のおチビさんのためにミルクを冷ましてやってるのかい? 君は優しい人だね」
 扉を開けたのはドミニクだ。アンバーの瞳を嗜虐的に細め、コウを見据えている。コウが扉の前で逡巡していたことを見通し、そのうえでちくりと刺すような――優しい、なんてかけらも思っていなさそうな眼差しである。こいつがいるとは訊いてないぞ、と心の中でロダンを呼んだ。もちろん返事はないし、助け舟も来ない。続けて言われるだろう嫌味に身構えていると、自分のものではない溜息が響いた。
「キヨ、君の犬が尻尾を垂らしているよ。ブラッシングでもしてやったらどうだい」
 返事の代わりに、ぐずっ、と鼻を啜る音とかすかな衣擦れの音がある。あからさまな涙の気配を前にしては、ドミニクの言葉に噛み付くことも憚られる。ドミニクは戯けたように片眉を上げて「お呼びだ」とコウに道を譲った。
 刺さる視線に背を押されるように部屋へと踏み込む。ドミニクは扉を閉めて近くの壁にもたれた。出て行く気はないらしい。彼はいつもコウに対して警戒心を隠さない。あえてだろうから、そのことを気にするのはやめた。
「…………キヨ」
 声を絞り出すようにして、ベッドのうえの毛布の塊を呼ぶ。このあいだコウが洗濯したばかりの毛布だ。サイドテーブルにマグカップをコトリと置けば、毛布の塊が震えた。
「……ロダンが……、あー……冷める前に飲め」
 ドミニクが座っていたのだろう椅子に腰掛け、コツ、と指先でサイドテーブルを叩く。うー、とかすかな唸り声ともうめき声ともつかないものが毛布から返ってきた。
 しばらくしてから、キヨがもそもそと顔を出した。透明にも見える薄青の瞳は潤み、眦は痛々しいほど赤い。目を伏せ、しょぼくれた顔をしたキヨは、コウのほうを見ない。いつもあちこちに跳ねた毛先さえしゅんと下がっている。その姿はちくちくと心臓を刺すけれど、だからって、どうしたらいいのかは、わからなかった。コウは言葉のために息を吸って、けれど結局無音のままに肺を空にする。
 ふう、と白い水面を吹き冷まし、こくりとひとくち飲み込んだ少女の瞳から、また新しい雫が落ちる。ぐっ、と息が詰まる。キヨは袖で涙を拭ってから、ひとつ大きな呼吸をした。
「……コウ……、ごめんなさい……」
「……なんでおまえが謝るんだよ」
 コウのほうが謝りに来たはずなのだ。怒鳴って悪かったと、そう言わなければならなかった。なのにキヨのほうから謝るものだから、ますますどう反応すればいいのかわからなくなる。
「だってコウの……コウのコップわっちゃった……」
「俺の? あんなのいくらでもあるだろ」
 割れたグラスを見たときも片付けているときも、それが誰の物かなんて考えなかった。各々が愛用しているものでもない、画一的に仕入れられたグラスのうちのひとつだ。
「でもコウがつかってたコップだった!」
 けれどキヨは、それをコウのものと認識していて――ただのグラスではなく『コウのもの』を損なってしまったと謝っている。
「……だから、それは俺のじゃないだろ」
 ――コウには『自分のもの』だと思うものがひとつだってないことを知らずに。キヨはまたぽろぽろ涙を零し、それを隠すようにマグカップを傾ける。
「あー……確かにおまえはグラスを割ったけど……別にわざとじゃないんだろ」
 背中に刺さる視線は剣山に似た鋭さだ。慎重に言葉を選びながら告げれば、キヨは「うん、」と頷く。
「グラスはあるもんを使えばいい話だ。だから……泣かなくてもいいだろ」
 ベッドの上に投げ出されていたティッシュボックスから数枚とり、キヨの目元に充てがう。キヨは自分では持たずに――両手でマグカップを支えていたからだろうか――仔猫が額を寄せるようにして涙を拭った。
「……コウ、ごめんなさい」
「だから謝んなって……くそっ…………悪かった、怒鳴って……、でもおまえが素手で触ろうとするから……あー……いや、いい」
 短い前髪をくしゃりと掴んで引っ張る。かすかな痛みは心臓のそれを上回ることはなく、焦燥がぐるりと巡る。
「なあ……どうしたらおまえは泣き止むんだ?」
「……おこってない?」
「こんなことで怒るかよ」
「、わたし、おてつだいぜんぜんできなかった……コウのおしごと、ふやしちゃった」
「まあな。……怒ってねえからな」
「うん……。あのね、ばかって言われて、びっくりしたの」
 キヨがガラスの破片に手を伸ばしたとき。咄嗟のことで、言葉も、声量も、選んでいる暇はなかった。怯えたような眼差しを思い出し「悪かった」と溜息を吐く。
「お片づけも、したかったの……」
「……それは俺の仕事だから、別におまえはやらなくてもいい」
「したかったの! ……コウに、ごめんなさいって、すぐ言いたかったの……言いたかったのに、できなかったの……」
 言いながらも瞳にはまた塩水の膜が生まれている。コウは怒ってないのに、何勝手にこの子どもは泣いているんだと戸惑った。何なんだ、と言いかけたところに「キヨ」とドミニクの声が重なる。
「君は――自分が情けなくて泣いてたのかい」
 コウに向けるよりも随分と優しい声だ。キヨはこくんと頷き、マグカップを置いて毛布のなかに潜っていく。ドミニクは「わかったよ」とだけ呟いて部屋を出て行った。部屋にはキヨと呆気に取られたコウだけが残る。
 コウはかすかに上下する毛布の塊を見つつ、ドミニクの言葉を反芻した。この少女は、自分が情けなくて泣いていたのだという。グラスを割ってしまったこと、すぐに謝れず、片付けも出来なかったこと。けれど、割ったあとのことは、コウが怒鳴ってしまったせいなのに。
「おまえは……」
 溜息が再び溢れる。毛布がびくりと震えたので、くっと吐息を飲み込み、言葉を探す。
「……次……次に、うまくできりゃ、いいだろ」
 つぎ? とくぐもった声が答える。次だ、と返した。
「次は……俺も怒鳴らないようにする」
 数秒迷ってから、コウは毛布の塊をぎこちなく撫でた。ブラッシング、みたいなものだ。
「……もうわらないもん」
 キヨが唸るように呟く。拗ねた声ではあったけれど、泣かれるよりはいい。コウは「そうしてくれ」と溜息混じりに答えた。


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