息をすったらはくように

 影浦雅人というひとは、正直なところ、世間一般にとっては『恐い人』である。奔放に跳ねた黒髪から垣間見える金の瞳は鋭く、たいていは不機嫌をたたえている。いつもマスクが覆っている口はハンバーガーをほんの三口で完食できるほど大きくて、ぎざついた歯は肉食獣のそれに近かった。猫背気味にまるまった姿勢からしてきっとネコ科だ。見目に違わずちょっとだけ血の気が多く、言葉も粗雑で、おおよそ悪役というほうがしっくりくるひと――だけれど、わたしにとっては彼だけがヒーローだった。

 彼との関係をひとことで片付ければ『幼馴染』ということになるだろう。幼稚園からの腐れ縁とか、ご近所さんとか、そういうたぐいの同い年だ。
 わたしにとって彼はどのようなひとか。しばしばわたしの人生に現れる問いに、ヒーローと返したことはない。すきなひと、と返したことも。彼に抱いている気持ちをだれかと共有したいとは思わなかった。彼本人とさえも。ありふれた関係のわたしたちの間にある、ありふれた一方通行を、そうと知っているからこそ秘めたままにした。
 すきなところはいくらでも言えるけれど(でも秘密にしたいから言わない)、そのはじまりは覚えていない。なにか明確なきっかけがあったわけではないのだと思う。息をすったらはくように、夜が明ければ朝がくるように、わたしは彼がすきだった。

 *

「カゲくん」
 ぱちりと瞳をまたたかせる。夕飯おわりにアイスクリームが食べたくなって、ちょっとコンビニに行こうと扉をひらいて数歩。いまごろボーダーかな、お店の手伝いかな、と考えていたそのひとが目の前に立っていた。
 びっくりして、ほとんど溢れるように名前を紡げば「……おう」とだけ返ってくる。夕闇に浮かぶ金の瞳はわずかに赤銅
あかがね
を帯びて、学校ですれ違うときよりもおだやかだった。制服よりもラフな普段着だからそう見えるのかもしれない。
「どうしたの? こんな時間に」
 夜遅く、というわけではない。初夏の太陽はまだかろうじて空の端に引っかかり、うっすらと明るかった。ただ、ボーダーなりお店なりで彼がいつも働いている時間ではある。
「……回覧板。持ってけってババアがうるせえ」
 反抗期の名残を隠そうともしないのをたしなめるのは少し前に諦めた。ほれ、と差し出されたそれを受け取ろうと手を伸ばす。
 ふたつの手が並ぶ。その大きさの違いに改めて驚いた。筋張った手の甲、しっかりと筋肉のついた腕。ずっと近くにいたはずなのに、いつからその手が男のひとのものになったのかわからない。


 まじまじと彼の手を見てしまったことを誤魔化すように回覧板の中を確認する。次の古紙回収日と水道工事の連絡、それからネイバーに関する注意。
 代わり映えのない内容にぱたんと閉じ、勝手にゆるむ頬をほどほどに抑えながら「ありがとう」と告げる。
 彼はどういたしましての代わりにそっと眉を寄せた。なにか気に障るようなことがあっただろうか。ちらりと考えるとますます眉間の皺が深くなる
 そういえば今日はめずらしくマスクをしていない。暑かったからだろうか。晒された素顔は彼の兄に比べるとまだ子どもらしさを残している。への字に曲げられたくちびるはわたしのそれよりも薄かった。
 数秒か、あるいは一瞬だけ視線が交わる。先に逸らしたのは向こうだ。ちいさく息を吐き、それにまぎれるように低い声が問いかける。
「どっか行くのか?」
「え、うん。コンビニ……」
「なんで」
「アイス食べたくて」
「一人でか」
「うん」
 尋問でもされているような問いと答えにおかしくなってちいさく笑えば、彼はさらに表情を歪めた。付き合いが浅ければそれに萎縮もしただろうけれど、その表情が不機嫌に彩られるのはあまりに日常的で、そして本当に怒っているときとそうではないときの差も知っている。笑みを消す理由にはならない。
「さっさと置いてこい」
 顎でしゃくるように玄関を示し、ぶっきらぼうに声をおとす。金の瞳がどこか憎々しげに見遣ったのはわたしの手にある回覧板で、それを持ってきた両手はポケットのなかに隠されている。ぱちぱちとまたたく視界には、やっぱり彼が立っていた。
「……一緒に行ってくれるの?」
 勘違いかもしれない。期待はしないほうがいい。でも一応、確認だけ。跳ねる心臓に言い聞かせてどうにか脈を遅くする。「うるせえ」とシンプルな悪態が返ってきた。やっぱりちがった。じわりと恥ずかしくなる。
「食いたくなっただけだ」
 天にも昇る、というのはたぶん今このときのことを言う。
 十数年にわたって鍛えられた心臓と肺と頬は「うん」とだけ頷くことに成功してくれた。
「ちょっと待っててね」
 ぱっと数歩を引き返す。扉を開き「おかーさん、回覧板!」と奥に声を投げてすぐに戻れば、彼はもう歩き始めていた。
 ぜんぜん待っててくれない。とは思うものの、進行方向は彼の家ではなくコンビニだ。塀と道路の間にじゅうぶんな隙間をつくってくれている。小走りで彼のとなりに並んだ。

「話すの、ちょっと久しぶりな気がする」
 幼馴染として守ってきた関係は会話も困らない。彼は「クラスが違えからな」となんでもないことのように答える。
「結局いちども同じクラスにならなかったね」
「進路からして違うんだから当たり前だろうが」
「そうだけど」
「……つうか今更だけどよ、おまえなら六頴入れただろ。なんでうちにしたんだ」
 ほんとうにいまさらだけれど、それも仕方ない。彼は中学三年の冬にボーダーへ入隊したが、そのころはちょっと疎遠だった。いつも何かに苛立っていて、暴力的な言動も多かった時期だ。それがわたしに向けられることはなかったけれど、たんに彼がわたしにちらりとも近寄らなかったというだけである。
 避けられるよりも、なんでもいいからぶつけてほしかったのが本音だ。でも、彼だって無闇に誰かを傷つけたいわけではない。どれだけ恐そうな顔をつくってもそういうひとだと知っていた。わたしから遠ざかったのはやさしさだった。
「いちばん近かったから」
 端的に返しながら、もちろん近いというのは彼に近いという意味だとは言わない。片想いもここまで年季が入ると素知らぬ顔を貫ける。ひらいた距離はやさしさだと理解していても、わたしは彼の近くにいたかったのだ。
 こうして話せるようになったのだから悔いはない。でもたぶん、彼がひとを近付けてもいいという気持ちになれたのは、ボーダーでできたらしい友だちのおかげだろう。ボーダーの人たちといるときのほうが、彼は楽しそうだった。ちょっぴり羨ましいが、いい人たちなので恨む気にはなれない。数人のクラスメイトを思い浮かべて頬がゆるむ。
「そーかよ」
 訊いてきたのは彼のほうなのに、返事はひどく素っ気ない。いつものことだった。
「でも大学は外に出んだろ」
 続けられた言葉にそっと横顔を見上げる。猫背の彼の顔は思いのほか近いところにあるが、目を合わせてはくれなかった。
 声にさみしい響きが混じっていた気がするけれど、わたしがさみしいからそう思うだけに違いない。
「……まだ決めてない、けど」
 三門にも大学はいくつかある。けれど外に出ればもっといろんな選択肢が増えて、そのなかには心惹かれるものもあった。でも迷っている。決められずにいる。この街から、彼の近くから離れがたいと思ってしまう。
 なんて、言い訳につかうのは怒られるかな。離れがたいのはほんとうだけど、合格できるのかなとか、ひとりで生きていけるかとか、足踏みしてしまう不安はたくさんあった。
「……誰かに言われて断れねぇわけじゃねえんだな」
 確かめるようにゆっくりと、低い声がことばを紡ぐ。「うん」頷きながら笑みを滲ませた。
 彼は敏いひとだ。幼いころのわたしは、声をあげることが極端に苦手だった。嫌だとか、悲しいとか、さみしいとか、そういうのは特にだめで。でも、彼だけは、わたしが音にできなかったことばたちを丁寧に拾いあげてくれた。それがほんとうに、うれしかったのだ。
 歳を重ねるうち、わたしを救った敏感さを彼自身が厭っていることに気付いた。甘えたままではいけないと思い直して、今はもう、嫌なことは嫌と伝えることができる。それもやっぱり彼のおかげだ。紛れもなく彼はわたしのヒーローだった。
「じゃあビビってんのか」
「びびってるかも」
 頭上から降ってくる声にぽつりと返しながら、もう一度その横顔を見上げた。笑われたかな、と思ったのに、難しい顔をしてくちびるを引き結んでいる。やっぱり視線は合わなかった。でもたぶん、怒っているわけではない。

「……好きにしろよ。やりてぇことがあんなら」
 しばらくの沈黙のあと、彼はそれだけ言った。うん、と囁くように答える。わたしのヒーローがそう言ってくれるならなんだか頑張れそうで、その単純さに自分でもちいさく笑った。
「そんでまあ……だめだったときは好きなもん焼いてやる」
 声は、気のせいではなくやさしかった。ようやく動いた金の瞳がわたしを見下ろし、口元には笑みが浮かんでいる。ほんの一瞬だけ、だったけれど。
「お好み焼き?」
「文句あんのか」
 ちょっと怒ったような顔をつくりながらも声は笑っている。からかいを含んだ威嚇は彼の得意技だ。
「ううん、ないよ、ない。うれしい。すき。カゲくんのお好み焼き、おいしいから」
「かげうらの、な」
 危うく失言になりかけたことばを取り繕えば、律儀な訂正が飛んだ。彼はお父さんがつくるお好み焼きがいちばんおいしいと思っている。これはたぶん、わたしくらいしか知らない秘密だった。

 *

 耳慣れたメロディを聞きながら自動ドアをくぐり、まっすぐアイスのコーナーへ向かう。彼は気怠そうに売り場を覗き込み、ひょいと棒付きアイスを選ぶ。ソーダ味のかたいやつだ。それからわたしを見て、「どれにすんだ」と眉を寄せた。
「いろいろあって迷う……先に行ってて」
「溶けんだろうが」
 わたしが選ぶまでまだかかると判断したのか、袋を戻して言った。先に帰っていてもいいという意味だったけれど、待っててくれるらしい。これはただ彼の根っこがいい人なだけで、特別な意味はない。わかっているのにそわりと心臓が跳ねた。
 ううん、と唸りながら冷凍庫を見つめる。このまま悩んでいたらずっととなりにいてくれるのかな、とか頭の隅で考えていたら、彼は他の棚を見に行った。当たり前の対応だった。

 店内を一周してきたらしい彼が手ぶらで戻ってくる。
「あの、絞り込めてはいる」
 言い訳がましく告げれば、再びとなりに収まった彼が売り場を覗き込む。
「どれとどれで迷ってんだよ」
 これとこれとこれと、あれ。四つ指差す端から大きな手がそれを拾い上げる。え、と声がうまれる前に「めんどくせえから全部買え」と身もふたもない言葉が鼓膜を震わせた。そのままソーダ味の棒付きアイスも持って、スタスタとレジのほうに歩いて行く。
「まって、わたし二百円しかもってない」
「いらねえよ」
 ばあか。
 付け足されたのは紛れもなく暴言だ。でも、その言い方があまりにやさしくて虚を突かれた。その間に会計が進んでいく。せめてどうにか二百円を受け取ってもらいたかったが、彼は完全なる無視を決め込んだ。

「帰んぞ」
 ビニール袋を腕に引っ掛けて、ポケットに手を突っ込み彼が歩く。やっぱり車道側だった。その背中を追いながら、うれしくて、ほんのすこしさみしい。お互いに無言でいても心地よいのも、彼がわたしにやさしいのも、ぜんぶ幼馴染だから。そこにそれ以上の意味はないことを知っていた。
 他の子にも気が向けばアイスをご馳走するだろうし、落ち込んでたらお好み焼きを焼いてあげるんだろう。わたしはただの幼馴染であって、それを独占する権利はない。
 ――彼に恋人ができたら諦めよう。
 そう決めたのはたしか高校二年生のときだった。同じチームだという女の子と親しげに話しているのを見たとき、そういう可能性もあるのだと思い出した。
 わたしだけが彼のいいところを知っているわけじゃないし、わたしだけが彼をすきなわけでもない。この気持ちが彼の幸せの邪魔になるときも、きっとやってくる。
 息をすったらはくように、夜が明ければ朝がくるように、わたしは彼がすきだ。だからきっと、花が枯れるように、氷がとけるように、彼のことが好きではなくなるはずだった。
 でも、彼をすきなままでいられなくなっても、彼がわたしのヒーローであることは変わらない。それでよかった。それでいいと言うために、わたしはこの気持ちをだれにも伝えなかった。

「……なんか落ち込むようなことあったか?」
 角を曲がったところで彼が振り返る。訝しげに細められた金の瞳がわたしを見下ろしていた。背中に目があるわけでもないのに、彼はいつでもわたしの気持ちに気付いてくれた。
「……ん、まあ、ちょっとだけ」
 内容を言わずに肯定を返す。嘘を吐けば、それさえも敏感に察知する彼が傷つくと知っている。でもまさか、あなたをすきなままでいられなくなったときのことを考えていた、と言えるはずもない。それが落ち込んでいるように見えたのも恥ずかしかった。
「……でも、大丈夫。だめだったときは、カゲくんのお好み焼き食べにいくから」
 進路のことで悩んでいるのだと思ってくれたらいい。それだって嘘ではないから。
 笑みを浮かべながら言葉を紡げば、彼は眉間に皺を残したまま「おう」とだけ答えた。

 *

 もうすこし遠くてもいいのに。いつもと違うことを思いながら家に辿り着く。玄関先まで送り届けてくれた彼はビニール袋から自分のアイスだけを取り出した。
 袋をひらき、大きな口で水色のアイスにかじりつく。「そんじゃあな」とやはり顎でしゃくるようにして家に引っ込むことを促した彼は、これからボーダーに行くらしい。彼はもはやわたしだけのヒーローではなかった。わたしにとってのヒーローは彼だけでも。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
「おめーが心配するようなことは何もねえよ」
 ぶっきらぼうな返事に「それならよかった」と返しながら、アイスの空き袋を引き受ける。
 サンキュ、と低い声が告げた。その一言にたまらなくうれしくなってしまうから、わたしはやっぱり彼がすきらしい。
 それでも――恋とは別のところにある憧憬のほうがずっと大事だ。遠ざかる背中を見つめながら言い聞かせれば、今日も明日もわたしは彼の幼馴染だった。


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