恋人に噛まれる

「ぎゃあ!?」

 生駒くんに噛まれた。とつぜん。噛まれた。生駒くんに。生駒くんが噛んだ。生駒くんが、わたしを、わたしの手首を、噛んだ。噛んだ!?
「えっ…………噛んだ……?」
 色気のない悲鳴の残響が鼓膜を震わせ、手首にはかすかに赤い痕が残る。それでもいま起こったことが信じられずに、隣に座る生駒くんを見る。彼はわたしのベッドにもたれるように座り、ぱちりとまばたきを落とす。精悍な顔立ちはいつもと変わらずきりりと厳しく、けれどきょとんと呆けているようでもあった。
「えっえっ……いま、えっ……?」
 いま、と繰り返す。えっ、としか言いようのない感情を持て余していれば、生駒くんが、その真摯な眼差しが、わたしの手首を撫でる。ちりりと焦げそうな熱をともなって。そしてゆっくりとひらいた、おおきな口が――「まって!」と叫んだ。
「いま――私のこと食べようとしたよね?」
 手首に落とされていた視線が上向く。わたしを見つめる瞳は、平静に見えた。生駒くんは、すっと居住まいを正し、なめらかに土下座した。
「えっ」
「もうしわけない、つい噛みたくなりました」
「やっぱり噛んだんだ!?」
 顔を上げた生駒くんが、てへ、と舌を出す。てへ、じゃない。
 それから生駒くんはいつもの表情で、すっ、と右手を差し出した。きょとり、とそれを見つめる。
 日に焼けた皮膚、ぽこりと浮き出た血管と骨でごつごつとしていて、掌は大きく指は太く爪は短い。ぺんだこならぬ剣だこのある無骨な手。だけどとてもあたたかで、やさしいと知っている、生駒くんの手。を、どうしてわたしの口元に差し出すのです?
「噛んでええよ」
「噛みませんよ!」
 お互いに噛み合えばちゃらに――は、ならぬ。
「……なんで噛んだんですか?」
「それがジブンでも不思議やねんな。カワイイなあ思うてたらいつのまにか噛んでてん」
「そっ……そんなことある?」
「あってん」
 深々と、神妙に、生駒くんが頷いた。そうしていると冗談も通じなさそうな真面目な堅物に見える。いやたぶん彼は、真面目に言っているに違いないのだけれど。
「よく言うやん? 食べたなるぐらいカワイイって」
「言うかなぁ……」
「俺はいつも思うとるよ。カワイイなあ、て」
 真摯な眼差しに、少しだけ目を逸らす。付き合いはそれなりに長いのだけれど、不意に訪れる、一切の躊躇のない言葉は、今でも上手な受け取り方がわからない。
 するり、と少しだけかさついた指先が頬を撫でる。輪郭をたどり、くちびるの下までたどり着いたそれは、しかしあっけなく離れる。視線を戻すと、ふっ、とその目元がやさしくやわらいだ。もう噛まんよ、と低い声が囁く――ちょっと悔しかったので、そのくちびるを噛んでやった。


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