ありふれたものたち

 例えば側溝から顔を覗かせる名前も知らない花とか、グラウンドのネットの端に絡んだ青々とした蔦とか。雨にけぶる街並みにぴかぴか光る信号とか、水たまりに浮かぶ滲んだ空とか。あとはそう、何気ないだれかの横顔が不意にうつくしく映る瞬間だとか。
 そういうものを見かけると、生駒は決まってかつての同級生のことを思い出した。あの子が描くのはこういうものばかりだった。ありふれていて、だからこそ見過ごしてしまううつくしいものたち。
 彼女がキャンバスにうつしとったそれを見たとき、生駒はただ好きだなと思った。理由なんて後から追いつけばいいと思えるような、素直な直感だったことを覚えている。
「絵を描くのは癖みたいなものなんだ」
 放課後になると、彼女は学校のあらゆるところでスケッチをしていた。彼女が剣道場の近くにいるときは、部活の休憩時間によくちょっかいをかけに行った。なんとなくさみしそうに見えたのもあるし、単純に生駒は人と話すのが好きだったので。彼女もいつもちいさく笑って迎え入れてくれたから、嫌がられてはいなかったと思う。
「わたし、描いたものはたいてい覚えられるから」
「天才やん」
「褒めてもなにもでません」
 言いながら、彼女はスケッチブックの端に犬の絵を描いた。ぴんと伸びた耳ときりりとした目元が男前で、なのに首の傾げ具合なんかに妙な愛嬌のある犬だ。目の前にお手本があったって生駒には描けない躍動感のある絵を、彼女はさらりと描いてみせる。
「むかし飼ってた犬」
「でてきてるやん、褒めたら犬」
「たしかに。出しちゃった」
 へへ、と控えめに笑う。親の都合で引っ越してきたのだという彼女の、標準語とか、淡く微笑む感じだとかが、慣れないはずなのに不思議と心地よかった。
「でもあれやな。みょうじさんが忘れたくないもん描いとるから、イイ絵になるんやな」
 思い浮かんだ言葉をそのまま口にすると、彼女はすこし困ったように笑った。謙遜にしてはかなしげなそれに失敗を悟り、かといってうまい言葉は浮かばず、
「俺はみょうじさんの絵めっちゃ好きやで」
 と我ながら薄いなとなるような言葉を重ねると、今度はうれしそうにはにかんでくれたから安堵した。

 あの日の彼女に滲んだかなしみを、なんとなく理解したのは三門に来てからだ。
 初めて訪れたはずの街には既視感が溢れていた。ニュースで見たから、ではない。生駒の視界に引っかかるそれらは、荒れ果てた街並みでも傷ついた人の影でもなく、どこの街にもあるようできっとここにしかないものたちだった。
(昔のスケッチブックを見してもろたときの、)
 たぶん、彼女が描いたものはそっくりそのままは残っていない。それはかつてこの街に降った雨のせいではなくて、彼女が描いていたのは元々そういうものたちだから。
(……なくなるってわかっとるものを描いてた、ん、やろか)
 もうどこにもなくなってしまっても、たとえその絵がすべて燃えてしまっても、彼女の手はそれを忘れないだろう。あの犬のように、その指先にいのちは残り続ける。
 ――彼女が生駒の絵を描きたいと言った理由を、生駒は今でも知らない。
 夕日を横切る電線と小鳥の影にすこしだけ目を留めて、生駒は見慣れ始めた街を歩く。ふと。彼女の手だけでなく、目や耳にも覚えておいてほしいなと思ったので、ひとまず今夜電話しよか、と決めた。


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