花を束ねて

 大学に入って本格的に家の手伝いを始め、ひとつ気付いたことがある。花を眺める人の横顔は、それが誰であっても、真剣で、幸福で、綺麗だということ。
 百花荘は昔から商店街にある花屋だ。なまえの実家でもあるそこには、老若男女様々な人が訪れる。主に生花やドライフラワー、小さな鉢植えの販売、それから花束やリースを作っている。家族経営の、細々とした地域密着型。こじんまりした店に百以上の花。店内の棚には溢れんばかりの緑。色とりどりの花。曇り天窓から降り注ぐ陽光が花びらを淡く照らし、強すぎない自然の花の香りが満ちている。デリケートな花はガラス製の冷蔵室で行儀良くバケツに入り、通りに面した窓にはドライフラワーやブリザードフラワーで作ったリースが並ぶ。
「誰かへの贈り物ですか?」
 なまえは花を見つめている青年に声をかける。店内に入って数分、色々な花に目移りをしていたらしい彼の視線が向く。前髪を後ろに撫で付けた青いたれ目、よく見ると中々整った顔立ちをしていた。花がよく売れるシーズンでもないから、彼女へのプレゼントだろうか。
「そんなところ、です」
「何かお悩みですか?」
「あー……、好きな花とか、そういえば知らなくて」
 青い瞳が気まずそうに彷徨う。そういうお客さんは多かった。花束というのは大抵サプライズで渡されるものなので、本人に聞いていない場合が多い。好きな花は意識していないと案外知らないままだ。それが家族や恋人の近しい人であっても。
「イメージでミニブーケもお造りいたしますよ。よろしければ花選びのお手伝いをさせてくださいね」
「……お願いします」
 ぺこり、と青年が頭を下げた。なまえは今時珍しく律儀な人だとそれを見つめる。見た目は少し軽そうなので、意外でもあったけれど、きっと大切な人に贈る花なんだろう。慎重に、丁寧になるのも頷ける。だってあれだけ真剣な瞳で花を見つめていたのだから。
「好きな色とか、イメージとか、ありますか? お客様のでも、贈り先の方でも」
「……黄色とか、薄い橙色とか、柔らかくてあったかい色、……の服を、よく着てます」
 微妙な間は何だろう。少し照れているのかも知れない。店内を見渡す横顔に微笑む。
「穏やかな優しい方なんですね」
「はい」
 それだけはきっぱりと言い切って、それがなんだか面白い。着ている服の色ではなくて、いやそうなのかもしれないけれど、多分その色は彼が抱いているイメージなのだろう。明確な肯定に優しい笑み。甘やかなそれに見ているなまえが照れてしまう。
「恋人さんにですか?」
「……いえ。色々と、お世話になっている人です」
 残念、外れてしまった。心の中で呟く。けれどその言葉をそのまま鵜呑みにできるほど、彼の表情は恋から遠くない。とはいえ彼がそういうのなら、そのための花ではないのだろう。
「そうでしたか。お花はお礼に、ですか?」
「です。……でも、別に感謝を伝えたいわけではなくて。花を見るのが好きみたいなので、なんというか、見ているだけでうれしいような花束だったらいいなと思ってて」
「見ているだけで嬉しいような……」
 そういう目的で花束を贈るような間柄は、何だかとても近しいような気がするけれど。だけれど、伝えていないのだろうか。真摯に、ひたむきに、ただ相手のよろこびを願っているのに。それを伝えればきっとうまくいくと思った。根拠なんてないけれど。
 何か予感と自信を裏付けるような経験があればいいのだけれど、残念ながらなまえは恋と縁遠い。咲き誇る花と違って枯れた自分の人生を思い出して泣きそうになったけれど、お客さんの前なのでぐっと堪える。
「あー、変、ですよね」
「いいえ、お気持ち分かりますよ。その方の生活にそっと寄り添うような、気取らない花束を贈りたいのではないでしょうか」
 それは例えば、恋人なんて通り越して家族に贈るような。
「……多分、そう、です」
 そういうことなら、と店の奥の、ガラスでできた冷蔵室をてのひらで示す。大きな冷蔵室に収まった花は花弁の多い華やかなものが殆どだ。
「ガーベラなどおすすめですよ。黄色や橙に限っても色の種類が豊富ですし、華やかですがバラほど非日常感はありません」
「なるほど」
「本数を少なめに纏めれば主張も激しくないですし」
 冷蔵室に近寄って扉を開ければ、花の香りがふわりと広がる。ひょこひょこと着いてきた青年も柔らかく笑う。無条件で人を笑顔にできる花はすごい、となまえはいつも思う。
 グラデーションになっているガーベラの中から、淡いイエローを選び出す。優しい人に寄り添う色なら、あまり強すぎない色がいいかと思ったからだ。
「黄色のガーベラの花言葉は『親しみやすい』、その言葉の通りにほっと元気が出るような色ですし、贈り先の方のお人柄にも合うかと思います。いかがでしょう?」
「……それで、花束、お願いします」
「かしこまりました。……少しアレンジを加えても大丈夫ですか?」
「お姉さんのお任せで」
 へらりと笑った顔が案外幼い。少し年上かと思っていたけれど、同い年くらいかもしれない。
 枯れた自分との差異に余計かなしくなるけれど、それはともかくとして勧めた花が採用されると嬉しい。どことなく自慢げな淡いイエローのガーベラを数本抜き出す。青年に店内を見て回って待ってもらうように告げて、作業台に向かう。
 花のラッピングに使うのは和紙。少し透けた柔らかな色合いと柔らかい感触がよく合うはずだ。色はごくごく薄いクリーム色。リボンはとろけた手触りのイエローがいいだろうか。
 同じ品種のガーベラでも微妙に色合いが違うから、様子を見ながら合わせていく。明るい色味を中心に、暗い色味が偏らないように。淡い黄色だけだと少しぼやけすぎてしまうから、アクセントに青い花を合わせる。あの青年の瞳のように柔らかいベビーブルー。フェルトのような質感を持つブルースター。五枚の花弁が星のようでかわいいと雫は思う。ガーベラの間を埋めるように散りばめると、穏やかで、かわいさは残しつつも落ち着きがある花束になる。
 整えた並びが崩れないように、茎を紐で縛って、それから和紙で包む。手元にリボンを巻いて、店内を回っていた青年に声をかけた。
「お待たせいたしました」
「あ、青、」
「イメージと違いますか?」
「……いえ、すごく合います」
 出来上がった花束を見つめるその瞳の優しさ甘さといったら、なまえが裸足で逃げ出したい気分だ。これを受け取るのがどんな人であれ、この微笑みとともに渡されるのであれば、多分、むしろ絶対、幸せだろうと思う。
「そのお花、ブルースターというんですよ」
「これの花言葉は?」
「……、星の精霊、です」
「そのまんまだ」
「そうです、ね」
 本当はそれだけではないけれど、黙っておくことにした。間違いではない、ちょっと花言葉のセレクトが偏っただけだ。
「――あ、」
「何か不備がありましたか?」
「大丈夫です。ちょっと見え、……いや、予定を思い出して」
「良かったです。ではこちらでお会計を――」
 にこりと微笑んで、急いでいるらしい青年のために手早く会計を済ませる。花束をそっと抱えて出て行く後ろ姿も、なまえは好きだ。きぃ、と扉が開く音がする。外の雑踏の中を、花を潰さないように青年が歩いて行く。
 百花荘の扉をくぐって外に出て行った花達が、誰かを笑顔に、幸福にしてくれたなら嬉しい。花屋冥利に尽きるから。
「……でもあの人、まさしく『究極の愛』に『幸福な愛』、って感じだったなぁ」
 黄色のガーベラとブルースターの、伝えていない花言葉。恋することと愛することは違うと言うけれど、あの青年は自分が恋をしている人を愛しているのだろう。でなければ、『見ているだけで嬉しくなるような花束』なんてリクエストはしない。綺麗なとかかわいいとか、あっと驚くようなとか、気持ちが伝わるようなとか。そんなイメージを花束にしたことはあるけれど、そのイメージは初めてだった。
 その人と同じく花を見ているのが好きだからか、勝手に嬉しくなってしまって、ついお節介を焼いてしまった。花好きの人なら、もしかしたら花言葉を知っているかもしれない。ガーベラもブルースターも結婚式のブーケで人気の花だ。
 でも、ばれたらその時はその時だよね、となまえはのんきに笑う。彼には花屋の店員の勝手なアレンジという逃げ道は用意したけれど、でも頑張って欲しい。枯れた女でも、あんなにひたむきな愛を抱える恋の応援くらいしたいのだ。
 自分の仕事の出来に満足しながら、作業して少し散らかったスペースを片付ける。あともう少しするとなまえの父が配達から帰ってくるだろうから、そうしたら今日はあがろう。
 つらつらと考えていると、きぃ、と扉が開く音が届いた。扉を開いたのはまたも男の人。さっきの青年やなまえよりも年上に見える。つんつんしたオールバック気味の固そうな黒髪。おでこを出すのが最近の流行なのだろうか。目鼻立ちがはっきりした精悍な顔に似合っている。
 ばちり、と目が合う。
 花を見るわけでもなく、じっとこちらを見つめてくる視線に妙な迫力があった。内心、少しだけ後ずさりする。
「いらっしゃいませ」
 困ってる様子がない限り、あまり自分からは話しかけない。最近のお客さんはきちんと花の種類や花言葉なんかを調べてやってくる人も多かった。余計な口出しが嫌な人もいる。ただ、そこまで調べるような人にはぜひ数日前に花を予約して欲しい。と、父がいつも言っているのを思い出した。花屋はいつも同じ花を取り揃えているというわけでもないのだ。

 作業を続けて、しばらくしてから顔をあげる。花を選んでいる気配がない。困っているのならなるべく早く手を貸さなければ――と。
「ひっ」
 思わず声が漏れた。思ったよりも近い位置にあった瞳。それはなまえに注がれている。じっ、と。真顔で。それはさっき入ってきた、少し厳つい顔のお客さんから。視界いっぱいに広がった彼の顔は、別に特別恐いわけではないのだけれど、迫力がある。慣れない近さも引け腰の理由だ。
「……あ、あの、何かお困りでしょうか?」
 後ろに下がりそうなのを抑える。目の前の人はシャイな人なのかもしれない。それか花に全く詳しくないか。ともかくお客様を前に逃げるなど、店員失格だ。お困りのようには見えなかったけれど、自分で花を選ぶようにも見えなかった。
「花をな、選んで欲しいんやけど」
「はい」
 響いた言葉は独特の訛りを含んでいた。テレビで聞くような関西弁。あいにく、関西のどこかまではわからない。あまり三門では聞かない方言にちょっとだけ驚いて、それから楽しくなった。精悍な顔つきと低めの声に関西弁は少しきついようにも見える。けれど言葉の意味自体は予想の範囲で安心した。もう少し頼み方はあると思うのだけど。
「花束になさいますか?」
「そっちのが嬉しいもんやろか?」
「そうですね、一輪の花でも勿論喜ばれると思いますけど、花束だと特別な感じがして素敵だと思いますよ」
「オネエサンは?」
「はい?」
「オネエサンは花束のが嬉しい?」
「そうですね……嬉しいです」
「ほな花束やな」
「かしこまりました」
 表情はあまり変わらないけれど、何だか楽しそうな様子に笑みが零れる。ぐいぐい来るのは関西だからだろうか。三門市には穏やかな人が多い気がするので、すこし新鮮だった。
「どのようにお造りいたしましょうか。色やイメージなどはありますか?」
「好きな花で造ってもろたらええかなって」
「お客様のお好きな花は……」
「あぁ、ちゃうちゃう。オネエサンの好きな花で」
「えっ、私のですか?」
「おん」
「えーっと……」
 どういうことだろう、と首を傾げる。花に詳しくないから、花屋の店員のお勧めの花でということだろうか。それか、贈り先の相手がなまえと同じような年頃の女性なのだろうか。そういう意味でなら尋ねられることは多いので、言葉に混乱した頭を落ち着かせて、それから口を開く。
「女性に人気なのは、やっぱりバラですね。バラがお嫌いでしたらダリアもお勧めです。華やかで、」
「いやせやからオネエサンの好きな花で」
「す、好きな花で」
「せや、好きな花。あるやろ?」
「ええっと、そうですね……私はラナンキュラスが好きですね」
「らなんきゅらす?」
 なまえの言葉を復唱した彼は名前と花が一致しないらしい。それもそうだろう。あまり花とは縁のなさそうな人だ。
 これですよ、と冷蔵室の中の一角を示した。形はバラにも似ている。シルクのドレスのような手触りの、一枚一枚が緩やかな曲線を描く花びらが幾重にも重なって、輪郭はふんわりと丸い。咲き方が何種類かあるけれど、このころんとした手まりのようなカメリア咲きのものがなまえは好きだった。色も様々。白にほんのりピンクが滲んだものが、控えめで可愛らしいと思う。
 いかがでしょう、とお気に入りの一輪を引き抜いて、よく見えるように近づける。
「キレイやな」
「はい」
「じゃあこれで」
「いいんですか?」
「オネエサンが好きな花なんやろ?」
「それはそうですけれど……。では、何本ほど束ねましょうか?」
「ある分だけ全部」
「えっ」
「全部、アカン?」
「いえ、大丈夫ですよ」
 花としての種類が多いから、ひとつの品種ごとにあまり多く仕入れていない。少し大きな花束にはなるけれど、持てないほどにはならないはずだ。思い切りがよくてびっくりするけれど。
「ご希望のラッピングはありますか? リボンの色も何種類かありますが……」
「好きなふうにしてもろて」
「よろしいのですか?」
「オネエサンが好きなように作ってくれたら間違いないわ」
 そこまで信頼してもらえる要素がどこにあったのか、なまえにはわからない。けれど多分、彼が元々人好きするような性格なのだろう。アレンジも自由にしていいというので、ラナンキュラスとカスミソウを合わせる。白い、小ぶりの花がたくさん咲いたカスミソウは花束全体を優しく纏めてくれる。
 ピンクが綺麗に滲んだラナンキュラスを目立つ位置に置きつつ、カスミソウを寄り添わせていく。
 作業をしていると視線を感じた。関西の言葉を使う青年は、レジのカウンターに肘をついてなまえをじっと見ている。店の中を見てお待ちください、と言い忘れたせいかと思ったけれど、その視線はただなまえに注がれていて、他を回る気配もない。
「……どうかされましたか?」
「んー」
「お客様?」
「やっぱキレイやなぁ思て」
「素敵ですよね」
「ん? んー、せやな。 ……なぁ、花言葉ってあるんやろ? ら、ら……きゅ、……ナスはなんなん?」
「ラナンキュラスですね。ええっと、『あなたは魅力的』、『晴れやかな魅力』、『光輝を放つ』です」
「ぴったりやな」
「よかったです」
「そっちの白いんは?」
「カスミソウですか……」
 カスミソウはどんな花にも合わせられる万能性にあやかってか、花言葉もとても多い。『感謝』『清い心』『思えば思われる』『夢見心地』など。どことなく可憐な花言葉が揃っている。ラナンキュラスの花言葉、『あなたは魅力的』に合わせるなら、『無邪気』を採用するのも良いかもしれない。
 そんなことを噛み砕いて説明すれば、目の前の青年は笑みを浮かべる。「ええなぁ」としみじみ囁くさまがすこし年寄りくさくて、けれど幸せそうで可愛らしい。
 なんだか素敵だな、と思った。最近の男性はおでこを出すのと花を贈るのがブームなのだろうか。花は毎日見慣れているけれど、花束を贈られたことはない。相手の人が羨ましいとも思った。
「リボンはどれにするん?」
「淡い桃色と白の和紙をすこしずらして重ねて、濃いめのピンクのリボンで結ぼうかと思っています」
「カワイイもんが好きなんやな」
「ラナンキュラスとカスミソウによく合うと思いますよ」
「オネエサンにもお似合いやで」
「あ、ありがとうございます」
 ピンクが似合うはあまり言われたことがない。可愛らしいイメージではないことは自分でも知っていたので、別に不満はないが、言われてみると嬉しいものだった。
「花ってええもんやなぁ」
 花、のイントネーションがなまえと違う。は、が高くて、な、で下がる。けれど慈しむような声音は耳慣れたものだ。
「綺麗で、かわいくて、素敵ですよね」
「やっぱオネエサンも好きなんや」
「そうですね、花屋の娘に産まれたせいもあると思いますが、小さな頃から花は好きでした」
 将来、なまえは百花荘を継ぐのだろうか。店主の父からはまだ何も言われていない。それとなく聞いてみても、今すぐ決めなくていいと言われるばかりだ。
 けれど、なまえは花が好きだし、花屋の仕事も好きだ。やっぱり、好きなのだ。だから多分、なまえはこの店を継ぐだろうし、これからも花に囲まれながら暮らす。
「ええなぁ」
「お花、お好きなんですか?」
 花の名前を知っていることや、詳しいことが花を好きということではないとなまえは思う。花に癒され、花を慈しめば、それはつまり花が好きということだ。
「ん、んん、んー……」
 眉がぎゅっと寄せられている。難しい顔をした青年が不思議なハミングを奏で、なまえは首を傾げる。
 その間にも作業に慣れた手は花束を整えていて、ずらして重ねた和紙でくるりと包む。さっき作ったガーベラの花束よりもひとまわりもふたまわりも大きい。ラナンキュラスの華やかさも合わさって、豪奢な花束だ。けれど白を基調として、可憐なカスミソウが散らばった花束は、案外嫌味がない。仕上がりに満足して、ピンクのリボンを結ぶ。あまり目に痛くない、ふんわりと柔らかいキャンディピンク。
「お待たせいたしました。仕上がり、これでよろしかったですか?」
 清楚で可憐な色合い、そしていっぱいのラナンキュラスが華やかさを付け足す。目の前で出来上がるのを待っていた彼に見せれば、あまり崩れなかった表情がふっと緩んだ。
「キレイやな」
 花に言ったのだと分かっていたけれど、その視線が花を飛び越えて自分に向かっているような気がして、どきりと心臓が跳ねる。顔に熱が集まってくるのを、ゆっくり呼吸して誤魔化して、「ありがとうございます」と応えた。
「なんぼ?」
 花束の値段を告げる。たくさんのラナンキュラスを使ったから、少々高い。しかし青年は躊躇う素振りを見せず、数枚の紙幣を置く。一旦花束を脇によけてレジを通し、おつりの硬貨を差し出された手にそっと置く。並んだ手の大きさが違う。骨張った手に分厚そうな皮膚、花屋の仕事で少し荒れた手が少し恥ずかしい。
「どうぞ。落とさないよう気をつけてくださいね」
「おお、ありがとさん」
 大きな手が花束を受け取る。この花を受け取る人の手はどんな手だろう。喜んでもらえたら、自分も、彼も、花も幸せだなと何となく考える。
「ほな、これ、受け取ってください」
「え?」
「花」
 横に向けて渡したはずの花束が、なまえの目の前に突き出された。ラナンキュラスの甘い香りが感じられるほど近く、花を向けられているのが自分だというのは疑いようもなく。
「……え、えっと?」
「好きなんやろ、花」
「それは、はい、好きです」
「うん、せやから」
「わ、私にですか?」
「オネエサン以外に誰がおるん?」
「彼女さん、とか」
「生まれてこのかた一度もおったことないな」
 大真面目な顔が照れもせず言葉を紡ぐ。花束は未だ、なまえに向けられたまま。今度こそ顔に熱が集まった。いや、だって。と、頭の中でもたもたと誰かに言い訳する。花屋に、花束を造ってもらって、それを渡すって。どういうことなの。初めてのことに混乱して、はくはくと口を開閉する。頭の中で言葉は巡るのに、声に出ない。
「もらってくれん?」
 誰にも渡せんから、無駄になってまう。と、少しだけ落ち込んだように眉が下がる。それにはっと冷静さを取り戻した。花屋として、花が無駄になることほど悲しいことはない。
「なんで、その、私に?」
「? 好きな人に何か贈りたい思うんは普通やろ?」
「好きな、ひと」
「おん」
「って、誰、ですか」
「オネエサンやけど」
「はぁ」
「なんや溜息? 脈ナシやった?」
「あっ、う、いえ、あのそういうことでは、なくて、あの、本当に……?」
「嘘ついとるように見える?」
「み、見えませんっ……!」
 至極、大真面目な顔が向けられている。精悍な顔つき、真っ直ぐとなまえを射抜く瞳が力強い。おずおずと手を伸ばして、花束を受け取った。花束に罪はないのだ。いや、目の前の青年にも、なまえにも、罪はないのだけれど。
「――うん、やっぱりぴったりやな」
「えっと、……あの……、えぇっと……」
 言葉にならない音が口から漏れだす。顔が熱いのはもう隠しようがなくて、けれどなまえの動揺とは裏腹に青年は冷静さを欠かない。
 大真面目な顔が逆に態とらしくて信憑性がないと思うのに、なまえの手にある花束が、それを見つめる瞳が優しい。だから、きっと嘘ではないのだと分かってしまう。
 何か、何か言わなくては。何を言おうか。意気込んだもののこういうことには不慣れで、どう反応するのが正しいのか分からない。
 なまえがわたわたと戸惑っていれば――pipipi……とアラートが響く。
「アカン、シフト入っとるん忘れとった。マリオちゃんに怒られる」
 ポケットから端末を取り出して、うへぇと呻いた青年は、なまえに視線を戻して、
「また来るな」
 ずいっと近付いて、言う。間に花束がなかったらもっと距離が詰められていただろう。花の向こうに彼の顔がある。大真面目な、けれど熱っぽい瞳が。
 何か返す前に、ばっとその顔が離れて、彼は出口へと向かう。何か予定があったらしいというのは理解したけれど、だからってこのまま放置されるなまえはどうすればいいのだ。
「っあの! お名前!」
 扉に手をかけた彼がピタリと立ち止まって、ぐるん、と振り返る。つかつかと近寄ってきて、またあの距離感。すぐ近くにある顔。
「タツヒト、生駒達人や、よろしゅう。オネエサンの名前は?」
「、っみょうじなまえ、です」
「うん、名前までカワイイな」
 にかり、と生駒達人と名乗った青年が笑った。目尻に淡く朱が滲んでいる。ようやく見せた、どこか照れたような顔。いや絶対このタイミングで照れるのはおかしい、となまえが思うと同時に、アラートが再び鳴る。
 肩をびくりと揺らした彼が、「ほんとごめん絶対また来る」と早口にまくし立て、扉の方へ足早に向かう。
 きぃ、と扉が開いてバタンと閉じた。リースの並んだ窓ガラスの向こう、生駒はなまえにひらりと手を振って、道の向こうへ駆けていく。
 静かになった店内にいるのは、ラナンキュラスの花束を抱えたなまえだけ。ぽかんと窓の向こうを見つめる。嵐のように去っていった。花束の重みだけが現実感を与えてくれる。
「な、なんだったの……」
 ラナンキュラスの花束に、花をいじめないようにそっと顔を埋める。火照った顔を、冷蔵室から出たばかりのすこしつめたいラナンキュラスが優しく撫でた。

   *

「キレイやなぁ」
「い、生駒さん……その、見られるとやりにくい、です」
 百花荘の一人娘、みょうじなまえの元に今日も生駒は訪れる。なまえに花を選んでもらって、なまえに花束を造ってもらって、今日も彼女に贈るつもりだ。あの日から、たくさん、たくさん、花束を贈った。
「同い年なんやし、さん付けいらんで?」
「それは、お聞きしましたが……」
 どうやら自分は年上だと思われていたらしい。もっとフランクに、と生駒は言っているのだが、なまえはあくまでも百花荘の店員であり、お客様を呼び捨てにはできないと、その説明がいつも返ってくる。少し寂しい。
「でも見るのは堪忍してや? なまえちゃんが花いじっとん見るの、好きでな」
「変わったご趣味、ですね」
「イケズなところもカワイイなぁ」
「生駒さん、それ、誰にでも言ってるの知ってますよ。迅さんが教えてくれました」
「あいつ……俺がいじらんでやっとるのに俺のこといじってくるとは心狭いな」
「ということは本当なんですね」
「……カマかけられたか。でも、キレイやって思ったんは、なまえちゃんだけなんやけど」
「どこがですか」
「花を見てるときの、やさしー顔。別嬪さんやなぁ、って、あれで惚れたわ」
「ほ、れっ……!?」
 かっと顔に赤みが差す。白い肌に滲んだ桃色はあの日のラナンキュラスのようだ。
「慌てたところはカワイイ」
「っ……、い、生駒さんは何なんですか本当に!」
「敬語もさんづけも距離あって寂しいからなぁ。つい慌てたとこ見たくなるわ。許して、な?」
「う、私は、店員、なので……」
「呼び捨てしてくれたらちょっとは考えるで? いつ呼んでくれるか楽しみやなぁ」
 自分はこんなに意地悪だったろうか。慌てるなまえが、花を扱っているときの綺麗さから打って変わって可愛くなるせいだ。だから俺は悪うない、と誰かに向かって言い訳する。
「……、たら……」
「ん?」
「み、店の外で、口説いてくれたら……」
 応えられる、のに。
 もにょもにょと囁かれた言葉が鼓膜を打って、脳に伝わる。ゆっくりと、じわじわとその言葉の意味が染みる。
「、え、あ、」
 ぱくぱく、と何か気の利いたことを言おうとした口が無意味に動く。反射的に口元を手で覆った。指先も、頬も、むずむずと熱い。
「あ、あんな、」
「あの、もう、えっと……時間、です」
「おっおう?」
「お手伝い、終わる時間」
 花束を作る手を止めて、なまえがエプロンを外す。家に戻るのかと引きとめようとして、その必要がないことはすぐにわかった。作業台の下から何かが取り出される。
 現れたのは淡い桃色の和紙で包まれた花束。一輪の赤いラナンキュラスと、たくさんのカスミソウが合わせられている。
「私の、負け――生駒くん」
 赤い顔の彼女が花束を差し出して、生駒の胸元に軽く押し付ける。それを受け取って、ようやく事態を理解した。ばくばくと心臓が大きく脈打っているのを感じる。
「……あんな、俺のが先に惚れとったんやから、そもそも俺の負け試合な、わけでな」
 お互い負けてたら、世話ないで。絞り出された憎まれ口は、憎まれ口になっていない。なまえが笑う。自分も赤い顔をしているくせに、顔が赤いねと。花が咲くように笑うというのは、こういうものなのだろう。かわいくて、きれいな、生駒が一生勝てない笑みだった。


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