春が君を

 論文の校正を終え、赤いボールペンをころりと手放す。終わった、と知らず知らずのうちに声が漏れた。ギリシャの学会から戻って以来、教授からの課題は重くなる一方だ。
 論文は少しだけ直す箇所があったが、明日の提出には間に合うだろう。凝り固まった肩をぐっと伸ばす。深呼吸すると珈琲の香りが肺に満ちる。淑やかに流れるジャズの音色は労わるように響いた。
 住宅街に佇む喫茶店は高校生のころ秘密基地にしていた書庫と少しだけ似ていた。居心地の良さは比べるまでもなくこの喫茶店に軍配があがるけれど、ほっと息をつける空間であることは同じだ。
 古びた紙と埃のにおいにソファーがひとつ、室温の融通もきかない校舎の片隅。先生方からも忘れ去られていた書庫を見つけたのはわたしで、合鍵をつくったのは幼馴染みだった。それも入学したばかりの四月に。見つけたのはきみだろ、と彼はわたしの手に合鍵を落とし笑った。共犯者に仕立て上げられたとも言う。部活動に所属していた彼よりもわたしの方がよほど入り浸っていたので文句は言えない。
「珈琲のおかわりはいかがですか?」
 幼さの残る声が耳朶を打った。顔を上げると、少女が銀色のポットを持って佇んでいる。彼女はカウンターの内側でグラスを磨いている老紳士のお孫さんで、星輪女学院に通っているらしい。以前に会話上手の幼馴染みから聞いただけで、わたし自身は彼女とそう親しくはない。人見知りの自覚はあるが、そもそもタイミングが合わないのか、彼女が手伝っている時間に来店することも少なかった。
「お願いします」
 言いながら空のカップを差し出すと、少女は花の咲くように笑みを深める。白磁の器に濃褐色のさざなみが広がるのを見つめ、研究室を飛び出して喫茶店で作業することを選んでよかったと考えた。一仕事終えたあとの珈琲は何にも代え難くおいしいものだ。慎重にカップを満たし、少女が小皿を置く。ひとくちサイズのチョコレートがふたつ乗っていた。
「マスターからです。頂き物のおすそ分けですが」
「……ありがとうございます」
 目の前の少女、それから奥の老紳士に向けて会釈をすると、にっこりと優しげな笑みが返される。老紳士はもてなし好きなのか、度々こういうことがある。ここ一年は特にそうで、ガラス細工の器や古めかしい画集、珍しいところでは隕石のかけらまで差し出された。あまりに高価そうなので断ったけれど、春色のストールだけは使う人がいないからと押し切られてクローゼットの肥やしになっている。
「……何か?」
 少女はまだ傍らにいて、テーブルの上の何かを見ていた。論文を広げていたのは迷惑だったろうか。はっと顔を上げた彼女が瑞々しい頰を紅く染める。
「すみません。お客様の爪が、きれいだなとおもって……見ほれていました」
「つめ」
 なぞるように言葉を返す。爪やすりで楕円に整えた爪先に、透けるような薄紅色。つやりと光を反射して自爪よりは華やかだが、そう目立つものでもない。
 ――爪なんて人間のからだのうちの、ほんのひとかけらみたいなものなのに。
 いつか紡いだ言葉を不意に思い出す。はじめてマニキュアをしたのは大学一年生の二月、一年振りに幼馴染みと会う前々日のことだ。大学でできた友人が『久しぶりに会う幼馴染みくんをびっくりさせよう!』とはしゃいで、ファッションやら化粧やらをわたしに仕込んだ一環だった。当時は何の意味があるのだろうと思ったが、お洒落の楽しさを知るきっかけになったので感謝している。
 彼女に『他の色も似合うと思うよ』と言われても、わたしの指先にはいつもこの薄紅色があった。幼馴染みがきれいと言ったから、なんてことは誰にも言えないまま。
「……ありがとう」
 純粋な賛辞と懐かしさがとけあい、自然と頰がゆるむ。少女は「マニキュア、ですか?」と好奇心をかすかに宿した瞳でわたしの爪を見つめていた。ポットを支える少女の爪先を窺うと、衛生的と呼ぶにはやや執拗な深爪だった。ピアノでもしているのだろうかと観察を深めれば、親指の爪がぎざついていることに気付く。爪を噛む癖があるのだろうか。
「よかったら、爪の手入れの仕方を教えましょうか」
 するりと紡いだ言葉にわたしがいちばん驚いていた。思慮はなく、衝動だった。目の前の少女にこの深爪は似合わない、と思ったから。つい先日、研究に行き詰まった先輩がぶちぶちと自分の爪を噛みちぎる姿を目撃したせいもあるかもしれない。
「マニキュアを塗らなくても、磨くだけできれいになります」
「……いえ、でも、だれも気にしないと、おもいますし」
 言ってしまったものは仕方ないと思い直して続ければ、ぱっと少女の表情が明るくなり、すぐに萎んでいく。かつてのわたしのように何の意味があるのかわからないと思っているのかもしれないし、もっと別の要因があるのかもしれない。その事情を知ることはできないけれど、だけど少女は確かにこの爪を『きれい』と言ったのだ。
「だれも気付かなくても、自分のための手入れをするのは楽しい、ですよ」
 友人の言葉を思い出しながら告げる。少女の瞳を見つめて、なるべく優しく聞こえるように。思い描いたのは幼馴染みの人当たりのやわらかさだ。彼が今ここにいたら、きっとこの少女に何かを諦めさせることはないだろう。
「それに――六十億キロメートル先のブルードットにも、気づいてくれるひとはいるから」
「六十億の……ドット?」
「……例え話が下手でごめんなさい。でも、その、本当に……そう、爪なんて目立たないのに、見つけてくれたでしょう。あなたも」
 言葉が出てこないもどかしさに喉が渇く。少女はわたしと、わたしの爪を見比べて、それからカウンターの老紳士を振り返った。見守っていたらしく、瞳を優しげに細めて頷く。
「あの……じゃあ、お願いしてもいいですか」
「はい、もちろん」
 答えながらも心臓はとくとくといつもより早いペースで鳴っていた。少女はぺこりとお辞儀してカウンターへ戻っていく。よかったな、というように老紳士が微笑みかけた。
 ろくに話したことのないような、いくつも歳下の女の子に爪の手入れを教えることになった。これを幼馴染みに言ったら『人見知りのきみが?』とたいそう驚くに違いない。はやくこのことを話したい――そう思って、つきりと心臓が痛んだ。
 幼馴染みと最後に会ったのは一年以上前、学部の卒業を間近に控えた三月。電話越しの声を聞いたのは半年前で、二週間前に送ったメールにはまだ返事がない。話したいことがたくさんあるのに、繋がりは日を追うごとに希薄になっている。まだ学生という身分に甘んじているわたしと、自立した社会人としての日々を過ごす幼馴染みで、時間の感覚が異なるのは当然だと理解はしている。新しい人間関係だってあるだろうし、腐れ縁の幼馴染みより趣味の合う友人や恋人と遊んだ方が楽しいだろう。
 彼がいま幸せであるのなら、それ以上のことはないとも、思う。
 けれど時おり、もう会えないのではないかと不安が過ぎった。彼が就職を決める前から、薄靄のように漂っていたそれがかたちになりつつある。観客席から彼の最後の試合を見届けたときと同じ焦燥感。こっちは元気でやってるよ、仕事が忙しくて。重ねられたメールの文面からは彼の感情を伺えない。会おうと思えば会えるよと言った彼は、はたしてあのとき、これからもわたしに会うつもりがあったのだろうか。わたしはどこかで、致命的に、何かを間違えてしまったのではないか。
 溜息を零し、それを飲み込むように珈琲に口付ける。あたたかでほろ苦く、まろやかな酸味。悪い方向に傾きかけた思考がしゃんとする。考え込んでしまうのはわたしの癖だ。それも悪い癖と言われることの方が多く、いつだって大らかに笑って許してくれるのは幼馴染みくらいだった。
 チョコレートをつまみ、そっと齧る。とろけるような甘みと苦味、かすかに香るシトラスの絶妙なバランス。なぜかバレンタインを思い出させた。中学二年生の二月十四日。弓手町駅から矢番海岸行きの列車。ホームに捨てられたチョコレート。拒絶の言葉。空白の二年。ひとりきりの君。隣にいられなかったことを、後悔した日。
 わかっている。わたしも彼も、もう子どもではない。隣に友達がいなくても立ち上がれるし、きっとひとりでも生きていける。それでも――今夜、また彼にメールを送ろうと思う。
 返事がなくてもいいし、読まれなくてもいいけれど。わたしが彼を忘れていないことを、彼にだけは知っていてほしかった。

 ▽△

 群青と薄紅の夕闇に包まれた初春の矢番海岸。その防波堤沿いを歩きながら、わたしは隣にいる幼馴染みについて考えていた。
 彼は三年に及ぶ微妙な音信不通を経て、ある春の日の雷雨とともに帰ってきた。翌朝には姿を消していたが、彼は電波越しにわたしのもとへ帰ると告げ、それからは有言実行とばかりに律儀に守っている。今では大学生のときよりも頻繁に顔を合わせるくらいだ。
 わたしは、彼のことがよくわからない。
 誰よりも長い付き合いの友人である自負はあるけれど、それでもわたしが彼の一番の理解者だったことはないと断言できる。感情や思考を推察することはできても、彼の立場になって同じものを見ていたことはない。わたしはわたしにしかなれないし、幼馴染みはどこまでいっても他人だ。
 彼は、例えるなら、天に輝く一等星のような人だった。どれだけの星が瞬いても、どれだけ空が汚れていても、決して埋もれることのない輝き。何光年と離れていても降りそそぐ光は人を惹きつけ、焦がれさせる。子どものころは他人に好かれ過ぎることに苦しんでいたけれど、いつからかその個性を上手に使うようにもなった。彼の周りには多くの人がいたが、正しく宇宙のはての恒星のように、彼が誰かのものになったことは一度としてない。わたしも、ほかの誰かも必要とせず、ひとりで生きていける人だ。
 それなのに、彼はわたしのところに帰ると宣言した。そうする必要も、そうすべき義理もないのに。彼自身の意志で決めて、実行している。
 彼が何を見て、何を感じ――どうしてわたしの隣にいるのか。
 わたしはずっと、そのことを考えている。一言訊ねれば答えてくれるかもしれないと思いながら。一人で考えても答えが出るはずないと知りながら。ずっとずっと考えている。どうしてわたしはそれを知りたいのか、と自分に問いかけている。何も知らなくても隣にいることはできるとわかっているのに。
「矢番海岸はさ」
 波音に紛れて彼の声が響いた。思考がふっと浮上して、長いこと沈黙を遊ばせていたことに気付いた。海岸線はまだ先もあるが、随分と歩いてきたらしい。彼がわたしの歩調に合わせていたことも理解する。夕闇に照らされた表情はやさしかった。彼は、わたしが思考に沈んでも怒らない。
「昔はもっと遠いところだと思ってたな」
「そう、だね」
 彼の言葉を引き金に十四歳のバレンタインデーが脳裏を過ぎていく。屋上へ続く扉の影、凍えるような場所に潜んでいた幼馴染み。わたしの知らない間に傷ついていた男の子。ここから連れ出さなければ、と思ったことを覚えている。ただただ彼を傷つける存在のいないところに行きたかった。守りたかった。海に行こうと言ったのは咄嗟の思いつきで、けれど彼が頷いたから、わたしはどこまでだって行けると思ったのだ。
「今じゃ車であっと言う間だ」
 海が見たいとか、今夜は星が綺麗だとか呟くと、彼は何も言わずに矢番海岸へ車を走らせる。むしろ初めからドライブコースに組み込んでいるのではと思う。ちらりと振り向くと、彼の車ははるか後方で夕日を浴びていた。
「ときどき、もう一度あの列車に乗りたいと思うことがある」
 ぴたりと止まった彼に寄り添うように、わたしも歩みを止める。彼は海を見ていた。夕日を帯びた瞳があざやかに輝く。遠くを見るような眼差しは過去を見ているのだろうか。後ろへ撫でつけた髪の一房が潮風に乱れ、すっと通った鼻梁にかかった。大学生のころより萎んだと言っていた身体はそれでも大きく、厚みのある胸板は傍目にも逞しい。
 十歳の春に出会った少年とは、もう何もかもが変わっていた。それでも、彼はわたしの幼馴染みで、長い付き合いの友人で、いっとう大切な親友だった。
「……わたしが車を運転して帰ろうか」
 彼が仕事の合間を縫って三門に帰ってきていることはわかっていた。免許証をとってから運転は殆どしていないが、まだ発進と停止の仕方は覚えている。横顔にわずかな疲労が見えた気がして申し出れば「そういうことじゃなくて」と彼はちょっと困ったように笑った。
「きみとふたりで乗りたいんだ」
 肯定も否定も簡単なはずなのに、何故かわたしの喉は答えに窮してしまう。
 弓手町駅から乗り込んだ列車は、どこまでもどこまでも連れていってくれるように思えるほど長くカタンコトンと揺れていた。わたしはたいして内容の入ってこない本を開き、活字に目を落としながら隣の気配を探っていた。彼の息遣いを感じながら、微睡むような夕闇のはて、銀河の彼方へ迷い込んでしまえと思った。他の誰も追ってこられないように。
 ――けれど、大人になったわたしは列車に終点があることを理解している。どこまでも行ける切符は物語のなかにしかない。それでもあの切符を手放せないわたしを知ったら、彼は笑うだろうか。
 幼馴染みは急かす様子もなく静かにわたしの返事を待っていた。それを眺めながらゆっくりとくちびるを開く。
「わたしは、君が運転する車の助手席に座っている方が、好きかな」
 寄り道も回り道も簡単だ。ガソリンが十分にあり、タイヤが擦り切れるまでは。ハンドルを握るのは彼だが、行き先はふたりで決められる。彼は「わかった」と頷いて小さく笑う。
「きみが望むならどこへだって連れていくよ」
 その笑みに、胸がじわりとあたたかくなる。彼はどうしてわたしの隣にいるのか。その答えが、隣にいたいからだといいのにと思う。あるいはそう信じるために、わたしは答えの出ない問いを重ねているのかもしれない。
「宇宙も?」
「宇宙事業に金が回るようにしようか?」
「本当にできそうだからやめ……ほどほどにしておいて」
「了解」
 冗談めかした言葉も彼が言うと冗談に済まなくなりそうな気がする。幼馴染みは自分の仕事を『金集め』とだけ表現したけれど、そんな気楽に天下を回せるものなのだろうか。彼の仕事について疑問は多いが、深く訊いたことはない。彼が意図的に隠していることも、訊いてはならないこともわかっている。つまりはそういう類の仕事なのだろう。
 口を噤むことで彼が次も帰ってくるのなら、わたしのくちびるはお行儀よく一文字に結ばれた。臆病にも、と言った方が正しいか。彼が何か褒められないことに関わっていると察しながら咎めないわたしは、もしかしたら彼の友人でも親友でもないのかもしれない。
 なのに――それでも隣にいられることを、君が証明するから。
「……ところでこのストール、きみによく似合っている」
 潮風になびく春色のストールの端を摘み、幼馴染みが言った。思考に落ちかけたわたしを連れ戻すように、大きな手のひらが柔らかなシフォンのストールを引き寄せる。その手つきと眼差しがいつにもまして優しくて、かすかに漂う熱が思考を甘くとかしていく。
「ありがとう……まだ少し肌寒いから、箪笥の肥やしを引っ張り出してみた」
「自分で買った?」
「ううん。昔、あの喫茶店のマスターから頂いたものだよ。お客様からの贈り物だったそうだけど、お孫さんにはまだ早いからと」
「そうか」
 幼馴染みは神妙な顔をしていた。笑みをつくろうとして失敗したような、何とも言えず崩れた表情は珍しい。
「……お断りはしたんですよ?」
「無理に奪っていったなんて思ってないさ」
 きちんと取り繕った笑みをつくり直し、彼は相変わらず手のなかで春色のストールを遊ばせる。不意にその手が柔らかな布越しにわたしの指先を捉え、硬い指のはらが薄紅色の爪をなぞった。
「……唐沢?」
「……きみのために誂えられたみたいだと思ったから」
 その先を、彼は言わなかった。
 わたしの爪を撫でた指は離れ、自由を得たストールは潮風になびく。あと一歩。それだけで何もかもが変わりそうな気がしたけれど、わたしの脚はついぞ動くことはない。
「さて、そろそろ帰ろうか。今日の夕飯は何?」
「すき焼きか、明太子カルボナーラ」
「ギャップのある二択だな。選び甲斐がある」
 喉を鳴らすように笑った彼が車に向かって歩き出す。その後を追って来た道を引き返しながら、わたしと彼の間にあるものについて考える。
 これを愛と呼びたくなかった。
 それ以外に相応しい言葉がなく、そのかたちに収めてしまえば楽になるのだとしても。乱暴に定めてしまえば、なにか大切なものを取り零してしまいそうな気がした。

 ▽△

「星が好きなの?」
 四月も早々に行われた席替えで隣にやってきた少年は、早朝の教室でそう呟いた。それが自分に向けられたものだと気付いたのは彼に応える声がひとつもなく、教室にはまだわたしと彼のふたりきりであることを思い出したからだ。
 活字から顔をあげると、少しだけ緊張した面持ちがあった。他の同級生たちに囲まれているときはもっと笑っていたのにな、と少しだけ胸のあたりがちくりとして、けれどそれも呼吸とともに消えていく。
 春風がカーテンを揺らしていた。舞い込んだ桜の花弁がひらひらと視界を横切り、彼の机に着地する。彼はちらりとそれを見て、またわたしへと視線を戻した。
「……どうだろう?」
 首を傾げると、彼も同じ方向へ首を傾ける。
 星が、好きか。そんなこと考えたこともなかった、と沈黙の後に告白すれば、彼はぱちぱちと瞳を瞬かせ、それから声をあげて笑った。
 毎日、星の本を読んでいるのに? 彼は一つひとつ問いかける。毎日、星の本は読んでいる。わたしは一つひとつ答えた。その問答のほとんどは忘れてしまったけれど、彼が最後に告げた言葉だけは覚えている。
「――それはたぶん、好きってことだよ」
 少年は、優しくやさしく笑っていた。それが、わたしと彼の初めての会話だった。

 ▽△

 一緒に暮らさないか。
 波音と潮風の悪戯、あるいは聴覚の不調を疑うにはあまりにも真っ直ぐと響いた声が鼓膜に張りついて離れない。運転席に座った幼馴染みはただ静かにアクセルを踏み、わたしは過ぎ去ってゆく海と星を――ガラスに反射する横顔を見つめていた。
 唐沢克己という人のことを、考える。
 半生を知る幼馴染み。誰よりも近くにいた友人。百年先まで約束した親友。他の何者にも代え難い、特別。恋人でも、家族でも、運命共同体でも、世界のすべてでも、ない。
 ただ隣にいたいと思う、それだけの存在だ。
 わたしたちは、お互いにひとりで生きていけることを知っている。自分の人生よりも優先する他人がいないことを理解している。わたしの人生は誰のためのものでもなく、わたしだけのものだ。彼の人生もきっとそうできている。
 だからこそ――ふたりでいられたら。
 わたしとあなた、というだけの、ふたりでいられるのなら。
 それはまるで夢みたいなことだった。醒めてしまうことが恐ろしくなるくらい。
「……こんなに楽しみな春ははじめて」
 くちびるから零れ落ちた言葉に返事はない。エンジンの音に覆われて彼の鼓膜には届かなかったのかもしれない。けれど、ガラスに映った横顔は静かに微笑んだように見えた。彼が笑っているだけで、わたしは何もかも満ち足りたような気持ちになる。
 それ以上の言葉にはしなかった。かたちにしてしまえば容易く失われてしまいそうで――この柔らかな熱のなかに揺蕩っていたかった。

 ▽△

「きみはずるい」
 わたしの手を掴んだ幼馴染みが、真っ赤な顔で囁く。下戸だったんだ、と冷静を保った思考が呟いた。成人してからの二年、何度かお酒を飲み交わしたことはあったが、いつもすぐお開きになるので知らなかった。一日かけて買い物に付き合わせたせいかもしれない、と今はクローゼットに入っているペイル・ブルーのドレスを思い浮かべる。
「……ずるい」
 拗ねた声が思考の海に沈みかけたわたしを咎めるように響く。熱に潤んだ瞳は、わたしをひたりと捉えていた。本音を笑みに隠してばかりの幼馴染みがこうも明け透けに感情を露わにするのは珍しく、けれどその正体は掴めない。わかるのは、わたしが知らない彼だ、ということくらいだ。
 ミネラルウォーターのペットボトルは空になって床を転がり、彼のために水を汲もうにも大きな手が離れる気配はない。アルコールに侵された肌はラグビーの成果か硬かった。触れ合う肌から焦げつきそうな熱が伝播する。十四歳のときとは、何もかも違う。けれどいくら力の差が大きくても、きちんと抵抗すれば解放されることを頭の片隅で理解していた。そうしないのは、わたしも酔っているからだろうか。
「……なにがずるいの」
 問いかけた声は掠れている。吐息に混じる熱はアルコールのせいだ。彼の指が薄紅色の爪を撫で、恋人にするように指を絡める。酔っているだけだ。誰かと、間違えているだけだ。
 高校生のときも、大学生になっても、わたしと彼が恋人の領分に踏み入ったことはない。幼馴染みがわたしに求めているのはそういうものではなかった。
「つめ」
「はい」
「爪が、きれいだ」
「……ありがとう?」
 やっぱり素面ではないらしい。思わず笑みを浮かべると、彼の顔が近付く。目元に落ちた睫毛の影がわかるくらい。そっと瞼が下されて――数秒、そのままだった。
「……唐沢?」
 すう、と寝息が返ってきた。わたしといえば呼吸さえも躊躇われるような距離に動けなくなるばかりで、せっかく緩んだ手も解けない。
「唐沢……からさわ。……かつみ、くん?」
 何度も呼びかけて、ようやく薄っすらと瞼を持ちあげた幼馴染みは、けれど起きたわけではないらしい。寝惚けているようにふわふわとした言葉を繰り返すばかりだった。

 ▽△

 幼馴染みは毛布に包まり眠っていた。疲労が色濃く残る寝顔も呼吸だけは穏やかで、そっと触れた頰はひやりと冷たい。シーツにぱたりと落ちた水玉はわたしの髪から滴る雨だ。傘は差していたのに濡れてしまった。それも、幼馴染みほどではないけれど。家の前にできていた水溜りは彼が歩いた跡だろう。
「……からさわ」
 ひそめた声で名前を呼ぶと睫毛がかすかに震える。起きるかと思えたが、その瞼が開くことはなかった。薄く隈が浮かんだ目元に指先が痺れる。彼の頰をあたためるように手のひらで覆う。とくとくと伝わる脈拍にじわりと視界が潤んでいく。彼はくすぐったいのか小さく身動ぎ――不意に眉を顰めて見せた。気に障ったか。びくりと震えた指先が彼から離れる。
 しばらく息を殺すような沈黙を過ごした。彼に目覚めてほしいのか、このまま眠っていてほしいのか、自分の心がわからない。とにかくここにいてほしかった。部屋に帰って彼がいなかったらどうしよう。つきつき痛んだ心臓は、こうして眠る彼を見てもまだ安らぎを得ることはない。彼が出掛けられないよう、着ていた服を勝手に洗濯機に放り込むという暴挙まで侵したくせに。
 ふと、毛布から飛び出した足首が青黒く腫れていることに気付いた。反射的に罵倒が出かけたくちびるを閉じ、深呼吸する。先ほどは身動いだ拍子に怪我が痛んだのだろう。
「……どうして怪我をしてるって言わないの」
 零した言葉に返事はなく、小さく安堵が落ちる。今のは八つ当たりだった。怪我を見逃した自分に苛立っている。彼をここに引き留めることしか考えていなかった自分にこそ。
 病院に行った方がよさそうに見えるが、やはり彼を起こすのは躊躇われた。そのままどこかへ行ってしまいそうで。窓の外を窺うと、霧のように烟る雨が降っている。痛み止めの薬はあるが、湿布は肩凝り用のものしかない。洗濯機はまだガタゴトと回っていて、わたしは自分でもよくわからないうちに買ってきたスウェットをベッドの下に隠していた。
「……いってきます」
 深く眠りに落ちた彼へ告げる。立ち上がると、ブルーグレイのワンピースは裾がまだらに濡れていた。ハーフアップに纏めた髪もぐしゃぐしゃに崩れているだろうし、化粧も雨で剥がれただろう。ストッキングはしっとりと湿っている。本音を言えばもうどこにも出掛けたくないけれど、彼の怪我を放っておくという選択肢もなかった。
 湿布と包帯、強めの痛み止め。熱が出たときのための風邪薬に栄養ドリンク。それから夕飯の買い出しも。冷えた身体があたたまり、消化の良いものがいい。友人にも連絡を入れておかなければならない。やるべきことを数えて少しだけ頭が痛い。彼女たちはもう待ち合わせ場所のレストランでわたしを待っていることだろう。
 大学生時代からの友人が、男友達を紹介したいと言ってきたのは一ヶ月前のことだ。
『あの幼馴染くんとは最近どうなの』
 そんな会話がきっかけになった。正直に三年ほど会っていないと告げると、彼女は少し考えてから『あなたを紹介してほしいって言う友達がいるんだけど』と続けた。わたしの記憶にはなかったが、何度か同じ授業をとっていたことがある同級生らしい。他の人に目を向けてもいいんじゃないと言われて、わたしにとって彼はそういう存在ではないと主張したのは記憶に新しい。それじゃあ尚のこといいじゃない、と言われて反論できなかったことも。
 あと五分早く出掛けていたら――真珠のバレッタを留めるのに手間取らなければ、わたしは今頃その男性と顔を合わせていただろう。幼馴染みと並ぶほど大切な人になっていたかもしれないし、恋人や伴侶と呼ばれる存在になる未来もあったのかもしれない。妻や母という役割が自分に向いているとは思えないけれど、可能性は零ではないだろう。
 けれど――そうはならなかった。
 開いた扉の先に、君がいたから。
 濡れたパンプスにつま先を入れ、扉を開く。ざあっと春風が駆け抜けた。霧雨が降りかかり、きらきら瞬く水滴と春が見えない何かを攫っていく。呼ばれるように振り返れば、座卓からルーズリーフが舞い落ち、幼馴染みはベッドで眠り続けている。
 高校の書庫を思い出した。わたしが読書をする横で、彼は古びたソファーに身体を押し込めるようにして眠っていた。ふたりだけで過ごした秘密基地だった。視界がじわりと滲んでいく。幾度もまばたきを繰り返し、これが夢ではないことを確かめた。
 この三年、幼馴染みはどこで何をしていて、どうして会えなくて、電話もメールも応えてくれなかったのか。何が彼を雷雨のなか走らせたのか、その怪我はどうしたのか。訊きたいことはいくつもあった。言葉の洪水で小さな部屋一つ沈めてしまえるくらい。だからこそ、わたしは何も訊くべきではないのだろう。
 彼は帰ってきた。そこにどんな理由があろうとも、それがすべてだ。
 あるいは――春が君を導いたのだろうか。雨に打たれた花弁が側溝へ溜まり、薄紅色の道をつくっていた。

 ▽△

 いつかあれほど待ち侘びた着信音が鳴っている。
 ゆっくりと瞼を持ち上げて、混濁した記憶を並べ直した。鉄錆のにおいとともに現実を噛みしめる。青い空から宇宙が染み出して、世界は文字通り一変した。薄紅が剥げた指の先、罅割れた液晶画面に並ぶ文字を見てちいさく笑みが零れる。
 ――きみが呼んだら世界の裏側からだって駆けつける。
 冗談みたいな言葉が、けれど本心から紡がれたことを知っていたから。それを遠くへ投げ捨てて、これでいいのだと笑みを浮かべる。彼がここにいなくて済むのなら、わたしの隣に彼がいなくていい。ふたりでどこへも行けなくても、この春が終わってしまったっていい。

 君が、あしたも笑って生きていけるのなら。
 それだけで――――いいよ。



_完


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