グリーンスムージー

 三門市に横たわる警戒区域――界境防衛機関ボーダー本部を中心とするその一帯から、そう離れてはいない街の片隅。住宅街の細い道の先、奥まった場所にその店はひっそりと佇んでいた。
 白い漆喰の塗り壁に赤煉瓦色のうろこ屋根が目印の、こじんまりとした二階建て。年季は入っているが大切に手入れされていることが窺える店構えは、ふと足を止めてしまう魅力がある。道に面した大きな窓の向こうには居心地の良さそうな空間が広がり、木製の扉には古めかしくもよく磨かれたステンドグラスがはめられ、朝の光を受けて繊細に煌めいていた。扉の横に植えられたクチナシの低木と壁を這うテイカカズラは白い花を咲かせ、ふわりと甘い香りを漂わせる。
 扉の手前、石畳に置かれた質素な看板には〝カフェ・ユーリカ〟とあった。


(もっと咲く時期が違う花を植えればよかったのに)
 カフェ・ユーリカの店主である仰木月子は、そんなことを思いながら草木に水をやる。
 そろそろ梅雨入りも近いだろうかという季節だが、今日はよく晴れていた。気温はすでに真夏のそれだ。暑さに萎びて地面に落ちてしまった花々を拾い上げて、手元のちりとりに集める。クリーム色の花弁が五つ組み合わさった、風車のような形の小さな花を咲かせるテイカカズラに、薔薇のように重なる純白の花弁が美しいクチナシの花。テイカカズラはそろそろ花の季節が終わってしまうけれど、クチナシはこれからだ。見た目のよい一輪を選び、店の中に飾ることにする。
 時刻は午前十時三十分。オープンしたばかりの店に訪れるお客様は、まだいない。
 そんなわけで、月子はのんびりと店の前の草木と戯れていた。このくらい暇なのが、彼女にとっての日常だ。
 そもそも立地からして繁盛させる気がないカフェなのである。
 オープン直後でもお昼時でもおやつ時でも、はたまたクローズ直前であっても、多くの人で賑わうというのはほとんどないことだった。
 月子の祖父母の、半ば趣味の延長の店だったとも訊いている。それでも、月子ひとりが食べていくぶんには困らないくらいの収入はあった。祖父母の代から通ってくれる常連客たちのおかげである。
 大切なお客様を出迎えるエントランスだ。掃除を念入りにするのはもちろんのこと、植物の手入れにだって気を遣う。あれこれと世話を焼いたのち、漆喰の壁を伝うテイカカズラの青々とした葉と、鈴なりに咲くクリーム色の花に満足した。
 月子は箒とちりとり、それから摘み取った一輪のクチナシの花を携え、ステンドグラスがはめこまれた扉を開ける。
 からんっ、と軽やかなドアベルの音が響いた。
 何十年も前から変わらない調べは今日も心地よい。足元にはステンドグラスを通り抜けた光が鮮やかな影をつくっていた。店内にかかっている曲は〝My Funny Valentine〟。季節外れだけれど、前店主である祖父から教えてもらった大切な曲だった。

 落ちてしまった花と掃除用具を奥へと引っ込ませて、代わりに一輪挿しの花瓶を取り出した。カフェのフロアは入り口から見て右側にキッチンとカウンター席、左側にテーブル席があるが、クチナシを生けたそれを飾るのは、カウンター席の真ん中と決めている。
 照明の当たり方、音楽の聞こえ具合、焙煎され挽かれる珈琲豆の香り。すべてが完璧に調和する席、と祖父が評したカフェ・ユーリカの特等席。
 カウンターの内側で作業する身としても、そこにお客様が座ると心地よい距離感で、その完璧さに舌を巻いたのはいい思い出だ。

 ――そろそろ夏も本番だけれど、期間限定メニューはなににしようか。
 祖父が残し、月子も書き足してきたレシピノートをカウンターの内側で開いて考える。
 カフェ・ユーリカは珈琲にこだわりがある喫茶店だ。季節ごとに異なる豆や焙煎、抽出を行い、そのときにぴったりなものを出しているが、それはそれとして、珈琲以外のメニューにも手は抜かない。
 『人生には常に発見があるべきだ』というのが祖父の座右の銘で、そのためか、祖父は新メニューや期間限定メニューというものをすこぶる愛していた。
 いや、楽しんでいた、のだろう。試作品をつくる背中は未だ記憶に新しい。かつてこの店(正しくは二階の居住スペース)に住み、祖父の姿を間近で眺めてきた月子が、その志をも継ぐのは当然のことだった。
 この夏で、月子がカフェ・ユーリカを受け継いで一年が経つ。去年よりは余裕をもって臨めるが、まだまだ慎重に行動すべき時期だ。
 祖父が数十年と続けてきた店を、きちんと守りたかった。中学、高校時代の六年間を過ごした街は外から戻ってきた月子を受け入れてくれているが、それは月子自身の努力がいらないというわけではない。
(……シェイク、生搾りジュース、フロート、ゼリードリンク……)
 指でなぞった文字を蒼みがかった黒い瞳が追う。
(去年はおじいちゃんが残してくれたアドバイスにしたがって……初めはシェイクだったんだよね……チョコバナナ、ミックスベリー、コーヒー。それからフロートのアイスクリームの種類を増やしたり……)
 毎年の季節の定番、というのもよいけれど。祖父の愛した『発見』を尊重するのなら、去年とは違うメニューの方がいいのかもしれない。悩ましいところだ。

 ――からんっ

 思考に沈んでいたところにドアベルの軽やかな音が響いて、月子はすっかりレシピノートに寄せていた頭を上げる。
「いらっしゃいませ」
 ステンドグラスがはめこまれた扉の前に、黒いスーツを着た壮年の男性が立っていた。
 鋭利な雰囲気と顔に刻まれた傷痕が人によっては恐ろしいだろうが、月子にとっては見慣れた常連の姿である。
「こんにちは、城戸さん」
「……ああ、失礼させてもらうよ」
 落ち着いた低い声は城戸の人柄をよく表している、と月子は思う。冷たい井戸水をグラスに注いで、クチナシが飾られたカウンター席に座る城戸に差し出した。
「コーヒーを」
「かしこまりました。すこし珍しい豆が手に入ったのですが、いかがなさいますか?」
「……では、それを」
 短かなオーダーに笑顔で頷いて、準備に取りかかる。先日焙煎したばかりの豆をコーヒーミルにセットして、粗めに挽く。サイレントに特化した器機が奏でる音は雰囲気を損なうほどでもない。
 ドリップ用のケトルを火にかけてお湯を沸かし、月子はちらりと城戸の姿を見た。あまりそうとは分からないが、疲れて見える。おそらく徹夜明けだろう。城戸はよく、眠気覚ましに珈琲を飲みにきている気がする。城戸の仕事を考えればそれも当然な気がした。
 界境防衛機関ボーダー。
 かつて三門市を襲い、数多の命を奪った近界民に対抗するべく発足した組織だ。目の前で珈琲を待つその人は、そんな組織のトップである〝最高司令官〟だった。
 月子がこの街でのんきにカフェのマスターをやっていられるのは、彼らのおかげといって過言ではない。
 いつか見た近界民を一刀両断する少年少女――に、青年淑女。防衛隊員を束ねてサポートする大人たち。ボーダーの本部基地からそう遠くない立地のせいもあってか、常連のなかにも何人か隊員や職員がいる。
 ただ、この城戸という人は、祖父の代からの常連でもあった。自分たちを守ってくれている組織のトップ、という知識があっても、月子にとっては馴染みのお客さんという認識のほうが強い。そしてそんな常連の城戸のことを、月子は尊敬し、親愛の情を抱いている。

 つらつらと考えているうちに豆が挽き終わり、お湯が適温となる。ドリッパーにペーパーフィルターをセットしたら、挽き終わった珈琲の粉を入れて平らにならす。サーバーの上にドリッパーを乗せて、細い注ぎ口のドリップケトル手に取った。
 ハンドドリップは、ここからが勝負だ。
 少量のお湯をそっと注ぎ、少しの間待つ。珈琲を蒸らす、このワンステップが大切。むくむくり、と粉がふくらんで、芳醇な香りが広がっていく。数滴の珈琲がサーバーに落ちる。
 二十秒ほど経ったら、ドリッパーの中心へ向けて、軽く円を描きながらお湯を注ぐ。最初は多めに、水面が下がったら、さっきよりは少なめに。それをもう一度繰り返す。カップを温めるためにお湯を注いでから、ケトルをコンロに戻す。
 ペーパーフィルターのなか、しぼみつつある珈琲豆の表面に細かい泡が残っているうちにドリッパーを外し、温めておいたカップのお湯を捨て、しっかりと乾拭きする。
 ソーサーの上に置いて、そっとサーバーから珈琲を注いだ。濃い褐色の液体が白いカップをなみなみと満たす。
「お待たせいたしました」
 カウンターに座る城戸の前に、音を立てないようやさしく置く。砂糖もミルクも入れないブラック派ということはよく知っていた。
 城戸は目礼をしてからカップの持ち手に手を添える。一口飲む前に香りを味わってくれるところが、月子が城戸を好ましく思う理由のひとつだ。
「……いい香りだ」
「私も初めて淹れたときはびっくりしました。祖父……先代が旅先から送ってきてくれたものです。メキシコの田舎で少数生産されている、とのことですが」
「マスターは今、メキシコに?」
「少なくとも一週間前までは」
 月子に店を譲った先代である祖父は今、世界各国を悠々自適に旅している――らしい。若い頃にお世話になった人たちに会いに行くのだと言っていたが、各国の消印で送られてくるエアメールに驚くばかりだ。
 そんな祖父のことを、城戸は今でもマスターと呼んでいる。そのことは月子の胸をほんのすこしだけ痛ませるが、まだ完璧でなくてもいいと言われているようにも思えて、救われてもいる。もちろん、いずれは城戸からマスターと呼ばれるようになりたいとも思い、日々を積み重ねているけれど。
「城戸さんは、」
 お疲れのご様子ですね、と言いかけて中途半端に口を閉じる。いくら常連で、少しお話しができるくらい慣れた相手といえども、不躾が許されていいはずがない。
「……外国に行ったことはありますか? お恥ずかしながら、私はなくて。だから、祖父には憧れます」
「外国、か」
「イタリアの街角で、こんなふうに珈琲を飲んでいらっしゃいそうです」
「……イタリアではないが、外国に行ったことはある。だが私には、この国の水が合っているようだ」
 一見すると寡黙に見える城戸だが、月子が話しかけると嫌そうな顔をするでもなく、ぽつりぽつりと会話をしてくれる。この静かで穏やかな間合いで繰り広げる会話が、月子が城戸という常連が好きないちばんの理由だった。
 ボーダーでの彼のことは知らないが、月子にとってはこの店の城戸がすべてで、そしてこの店の城戸は穏やかでダンディなおじさまなのである。
「だが、きみは旅をするといい。……とても、稀有な経験となるだろう」
「素敵ですね。先代が一週間でもいいから帰国してくれると、それもできるのですけど」
 祖父が帰ってくるのは二、三ヶ月に一度、それも三日程度だ。しかも『もうおまえの店なのだから』と言って、絶対にカウンターに立ってはくれない。その代わり、祖父がつくってくれる夕飯と食後の珈琲をひとりじめできるのは特権だと思うが。
 城戸はゆっくりと珈琲を飲んでいる。あまり表情は変わらないが、月子の父もそういう人だったので無表情と沈黙には慣れていた。
 ふと手元に視線を落として、先程まで見ていたレシピノートを読む。目に飛び込んできた単語は――〝グリーンスムージー〟。
 小松菜とバナナをベースにつくるスムージーは、幼い月子が唯一飲めた野菜系のジュースだ。しかも、ちょうどまかないのために用意していた材料を流用できる。
「……城戸さん、お時間はございますか? 珈琲を飲み終わって、十分程でよいのですが」
「……また戻るつもりだが、その程度であれば構わないだろう」
 城戸が静かに答える。その鋭い目がちらりと腕時計を確認した。本当に時間は大丈夫だろうかと月子が思っていると、城戸が小さくため息をつく。
「あまり早く戻っても忍田くんにいい顔をされないのでね」
 忍田くん、と城戸が呼ぶ人物のことを月子は知らない。ボーダーに所属する常連客たちの口にのぼる噂をまとめると〝本部長〟という肩書きの結構なお偉いさんらしいのだが、印象としては何となくかわいい人だった。
「それでしたらよかったです。実は、試作品を飲んでいただきたくて」
「……試作?」
「きっと城戸さんにも気に入っていただけると思います」
 徹夜明けにはビタミン。グリーンスムージーは、月子が唯一飲めた野菜ジュースであると同時に、祖父が仕事人間だった父に会うたび飲ませていたジュースだ。カフェインは脳を目覚めさせるだろうが、弱った体を癒すのも大事なこと。重要な役職に就いており十分な睡眠や食事の時間がとれていないであろう城戸に、手軽に飲めるグリーンスムージーはぴったりな気がした。

 小松菜をざくざくと刻む。冷凍庫にストックしてあるスライスしたバナナを取り出して、小松菜と一緒にミキサーに入れる。それからリンゴと、同じく冷凍しておいた缶詰の桃。普段ならば氷もいれるが、冷たすぎるのは毒だろうと思って少量の水に変えた。
 すべての材料をまとめてミキサーにかけてしまえば、あっという間にグリーンスムージーのできあがりだ。凍ったフルーツの塊が残っていないことを確認してから、脚付きの透明なグラスに注ぐ。
 珈琲を飲み終え、月子の手元を見ていた城戸は、ストローを断って差し出されたグラスを受け取る。グリーンスムージーは、すこし彩度の低いパステルグリーンの色合いが初夏らしい。コースターは緑が映えるように、黄色のものを選んでカウンターに置いた。
「どうぞ、ご感想をぜひ」
 にこやかに笑って促せば、城戸はグラスに口をつけ、傾ける。
 こくり、と喉が上下して、こくり、こくりと吸い込まれていく。二、三口ほど飲んだところでグラスを離して、城戸は自分を窺う月子に視線を向けた。
「随分と飲みやすいな」
「缶詰の桃を少し混ぜてます。本当は生の野菜や果物だけでつくるものなんですが、そうした方が飲みやすいので」
「そうか……。あまりここでは見たことのないメニューだ」
 言いながらも、城戸はグリーンスムージーを飲み進めていく。飲みやすいとも言っていたし、その飲みっぷりを見るにおいても、どうやら嫌いな味ではなかったらしい。大丈夫だとは思っていたがひとまず安心する。
「そうかもしれません。家ではよく飲んでいましたが、先代はお店に毎年同じものを出すのを避けていたので」
「……試作ということは、今年はこれを出すのかね?」
「城戸さんのお気に召したのなら」
 月子が言えば、城戸は少し驚いたような顔をした。微細な変化だったが、接客業を生業としている月子には分かったし、何より城戸と同じレベルの(もしかしたらそれ以上の)無表情を身内に持つ身として、それを読み取るのは苦ではない。
「……きみはやはりマスターの孫だね」
「……そうですか?」
「得意気な顔がよく似ている。他の人からも言われなかったかね」
 月子が城戸の表情を見ていたように、城戸も月子の表情を見ていたらしい。予想していなかった言葉に、つい頬へ指を伸ばしてしまった。そうしたところで、自分の表情なんてわからないのに。
 ――得意気な顔というのはつまり、ドヤ顔だろうか? あのちょっと殴りたくなるたぐいの顔?
 そんな月子の様子に城戸は少し笑ったらしい。ふ、と空気が緩むのを感じた。月子が城戸を見れば、彼はその瞳に穏やかな色を浮かべている。残念ながら、笑った瞬間は見逃した。
「……まさしく〝ユーリカ〟だ」
 低い声が静かに紡いだ言葉は、祖父がよく謡うように紡ぐ口癖だ。
「ご存知なんですね」
「先代から伺っている。……さて、そろそろ戻る時間だ」
 その言葉に城戸の手元をみれば、グラスの中身はすっかり空になっていた。すべて飲んでくれたことに嬉しくなる。
「グリーンスムージーの価格は?」
「いえ、試作ですのでお代は……」
「次への投資だ。今の私に必要なものを提供しようとする心遣いは感嘆に値する。受け取っておきたまえ」
 城戸の体調を慮っていたことはどうやらお見通しだったらしい。
 見透かされてしまうほど分かりやすかっただろうか、と恥ずかしくなるも、そこまで言われては受け取らないのも失礼だ。月子は定額から少し引いた金額を提示して、珈琲代とともに受け取った。
「また来させてもらう。……スムージーはいつまでの提供かな」
「一夏の間、しばらくは」
 月子が応えると、城戸は頷いてステンドグラスがはめこまれた扉へ向かう。
「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 ――からんっ
 相変わらず軽やかな音が鳴る。頭を下げながらそれを聞いていた月子は、頭の中のメモに『夏のおすすめ、グリーンスムージー』を書き足した。

   *

「お、意外と飲める」
「でしょう」
 額をさらすように柔らかな色の前髪をあげた青年が、おそるおそる口につけていたのはグリーンスムージー。一口で警戒心などすっかり消え失せてしまったらしい彼は、口の端に笑みを浮かべてごくごく飲んでいく。
「……ところで」
「?」
「メニューの端っこの、この〝司令御用達〟って」
 夏限定ドリンクのメニュー表、その端に遊び心で小さく付け足した一文は目に入っていたらしい。どういうこと、と視線で問う青年ににっこりと笑みを浮かべる。
「そのままの意味ですよ」
「常連なのは訊いてたけど……また意外な……」
「迅くんみたいな人でも意外に思うことがあるんですね」
「そりゃね。……え、ちょっと待って月子さんそれどういう意味!」
 焦った顔に笑みを深めつつ、『グリーンスムージーたくさん飲んだで賞・第一位』を独走している人の来店を待つ月子だった。


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