ありし箱庭は灰に眠る

 やわらかなソファーに沈みながら、わたしは部屋の主人が帰るのを待っていた。すんと鼻を鳴らせばすこしだけ埃っぽく、暖炉の火が落とされた部屋はその静寂も合わさってひどく寒く感じる。閉ざされたカーテンの隙間から漏れる陽光は冬らしく淡い色で、ささやかな光に照らされながら埃と塵が踊っていた。瞼を下ろせばワルツの軽やかな音色がきこえるようだ。
「ザンザス」
 ぽつりとその名をころがしてみても、返事はおろか衣擦れの音さえない。そのことに、あばらの内側でなにかつめたいものが広がる。靴のなかでつま先を曲げれば熱とも痛みともつかないものでじんと痺れた。
 この屋敷にいたころは、彼の近くにいられたのに。懐かしさともさみしさともつかないものがゆらゆらと漂い、凍りついた箱庭に降る。
 五年前まで、彼の学友として過ごした。下町で生まれ育った彼が、偉大なるボンゴレ九世の嫡子として相応しい振る舞いを身につけるまでの、ほんのわずかな期間の、かりそめの学友。舞台をおりるようにただしいおわかれを望まれていた、はずの。離れていくばかりと知っていたから、あらゆる反対を押し切って、大人たちが遠ざけようとした世界へ両足をひたした。
「……あなたと出会ったときに、世界のほうがひっくりかえったんだよ」
 いつか紡いだ言葉をぽつぽつとなぞる。それにひとつだって嘘はないけれど、例えひっくりかえったとしても、わたしとあなたの世界は遠いことを、わたしは知っている。
 もうずっと前から、しっていたのだ。

 かつり、こつり――と、鼓膜が震動を拾ったのは、吐き出す息から熱が奪われてずいぶんと経ってからだった。ソファーに溺れていたからだを起こし、軋む関節とワンピースのしわを伸ばしながら足音を待つ。
 ぎい、と扉が開いた。それと同時に見えた赤い瞳が、驚いたようにわずかにまるくなる。
「ひさしぶりだね、ザンザス」
 凍えていた表情筋が雪どけて笑みをつくる。ザンザスは唇を浅くひらき、ちいさく息をこぼした。一瞬だけ揺らいだ瞳からはすぐに感情が消え失せる。
「誰かと思えばてめぇか、ヴィオレッタ。なんでここにいる」
「あなたが帰ってくると小鳥がうたってたの」
 ハッとせせら笑うような吐息が落ちる。ザンザスは扉を閉め、部屋へ足を踏み入れた。
 おしゃべりな小鳥によれば、彼はなにかを取りに来たらしい。まっすぐとかつての勉強机に向かい、引き出しをがしゃんとひらいていく。きらきらと舞い散る埃もおかまいなしだ。
「なにを探しにきたの?」
「……てめぇには関係ねえ」
「てつだうよ」
 ザンザスはそれきり会話を放棄した。それなら勝手になにかを探してみよう、と手近な本棚の背表紙を指でなぞる。彼が手を止めたのを背で感じたが、なにも言われなかった。
 一度も開いたことがないような古い詩集をぱらぱらとめくりながら、そっとザンザスの様子を伺う。引き出しは済んだのか、教科書やノートを並べた棚を確認していた。その横顔は十五歳の青年らしく幼さがとれ、しかしそれだけでは説明がつかない剣呑さを滲ませる。ボンゴレの闇を請け負う独立暗殺部隊ヴァリアーに出入りしているとしても、だ。
 脳裏をかすめたのは以前に顔を合わせたときのこと。彼は、ひどく機嫌が悪かった。荒れ狂う嵐のような、何もかもを燃やし尽くしてしまいそうな、激情があった。今の彼からはもうそれが失われているようにも――爛れるほどに熱せられた炉のなかの鋼のようにも、見える。
 ぱらぱら、ぱらぱら、ページをめくりながら考える。遠い世界の彼のこと。あの日の彼のこと。ザンザスは、どうしてあんなにも――傷ついていたのだろう。
「……あ、」
 ひらりと本から落ちたのは古ぼけた封筒だった。ありし日は純白だったと思わせる黄ばんだ紙に、インクは滲み差出人の名を隠す。開かれた形跡は、なかった。絨毯のうえに落ちたそれを拾いあげると、ザンザスがつかつかと近づいてくる。
「これ?」
 差し出すとたちまち奪われて、彼はびりりと封を破った。薄く剥離した紙片が舞う。中に収められていたのは何の手紙だろうか。ザンザスはそれを瞳だけで読みあげ、そして表情ひとつ変えずに掌の炎で燃やしてしまった。
 浅黒い灰がひらひらと、ひらひらと、絨毯に降り積もる。
「……ザンザス?」
 ぴかぴかの革靴が灰を蹴った。粉砂糖を被る焼き菓子パンドーロのように灰にまみれたつま先は、かろうじてかたちを保っていた紙片の殻も割ってしまう。
「ここは元々じじいが愛人を囲うために建てた別邸だ」
 吐き捨てるように呟かれた声をひろい、彼の足元にある灰から滲んだインクを、そこに記されていた名前を再構築する。屋敷でいちばん上等なこの部屋が、彼の父の私室だったことは想像に難くない。手紙は、彼の母の残滓、だったのだろうか。彼はまさに『愛人の子』だ。
「もう用はねえ……てめぇも、二度と来るな」
 煌々と燃える瞳がわたしをまっすぐと見る。熱く、あつく、けれど凍るほどにつめたい、赤い瞳。はじめて出会ったときから静かにゆらめていた苛立ちは、いまや憤怒と呼ぶのがふさわしい。
 ――彼は、どこへゆくのだろう?
 浮かんだ問いを紡ぐよりもはやく、彼はわたしに背を向ける。ひらりとなびいたジャケットの裾をつまんだのは衝動だった。くん、とわずかに伸びただけの布は彼を引き止める強さなど持ち得ないはずなのに、顰めた顔はわたしを見下ろす。
「……ヴィオレッタ」
「ザンザス、」
 いかないで。
 こぼれおちそうな言葉を殺したのは、赤く燃える視線ではなく。裾をつまむ手をやさしく解く、つめたい指先だった。振り払うでも、叩くでもなく、指のはらを撫でた爪。そっとわたしを剥がしていった、彼の指。一瞬ふれあった肌はしびれるほどに熱く、じんと痛みが滲む。
 いかないで。どこにもいかないで。
 わたしを、おいていかないで。
 言葉は生まれる前から沈むように死んでいった。つれていって。衣擦れの音がひびいた。おいかけるよ。行き場のうしなった手が力なく落ちる。理解していた。わたしの指を解いた彼の手が、どうしようもなくやさしかったから。燃える瞳よりも顰めた顔よりもなによりも、その手が語っていた。
 彼は、わたしになにも望んでいない。
 いらない。
 ……ゆっくりと、息を吐いた。そうすれば、わらえることを知っていた。
 ザンザス、わたし、わたしね。
「あなたのためなら死んだっていいよ」
 だから。
 だから――。
 その言葉は、もしかすると裾をつまんだ指先よりも力なく、意味のないものだったのかもしれない。彼の唇がわななくように震える。かたちになる前に熔けたそれは悪態だろう。わたしを睨む瞳は、冬のかすかな光と怒りがぶつかって火花を散らしている。傷だらけの硝子があちこちに光の破片をばらまくように。
 それは怒りではなかった。怒りだけでは、なかった。わたしは、どうしてあなたがそんな顔をするのかわからない。
「……ザンザス?」
 彼はなにかを吐き出しかけた唇を噛み、それきり黙って背を向ける。重いはずの扉は呆気なく開いて彼を送り出し、閉じたそれは何の答えも返さない。

 主人を失った部屋、舞い散った埃は再び積もりはじめる。ふたりで過ごした日々のすべてを忘れ去ろうとするような――深い眠りにつくような、白い静寂だけがあった。


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