やわらかな傷

「アイツも苦労してっからなー」
 コテでお好み焼きを切り分けながら、仁礼があっけんからんと言う。たっぷりとかけられたソースはお好み焼きから鉄板までしたたり、じゅうじゅうといい音を鳴らしていた。わさわさと踊る鰹節はさあ食べてくれと誘っているようだ。自分のぶんはデザートまで食べ終えている遊真だが、目の前で新たに焼かれると、なぜだかまだ食べられそうな気がしてくる。
 その様子を察したのか、影浦が気怠そうにしながらも新しい取り皿を遊真の前に置いてくれた。それを手にテーブルを移れば、すかさず穂刈がイカ玉をよそってくれる。村上もこっそり一切れもらっていた。
「どうもどうも。……苦労って?」
「いや、じつはアタシもよく知らねーけど、三輪が前に言ってた」
「俺もそのへん知らないんだよな。あいつの部隊ぶたいは上位でガンガンやってるほうだったのに、いきなり解散っつってマキリサも驚いてたくれーだし」
「ポジションも学校も違うとなかなかね~」
「おっ、ゾエは知ってんのか」
「知らないんだなそれが」
 自称ふらふらおねえさんこと、フリーのB級銃手として防衛任務に勤しむ彼女の話題を出したのは遊真である。
 彼女とともに公園のシェルターへ隠れた夜からもう一週間が経っていた。毎日ひとつずつと食べたチョコレートはすっかりなくなり、彼女は何事もなかったかのように夜ごと遊真を出迎える。
 どうして部隊を解散し、新たに組もうとしないのか。そんなことが、気になって仕方なかった。頭のなかに、なにかそういう傷ができたみたいに。丸い爪先でやわくひっかかれたような、痛みのない傷だ。
「誰も知らねーじゃねえか」
 荒船だけに訊いたのだが、雑談の話題がちょうど尽きたらしい仁礼や当真たちが会話に加わり、情報が飛び交う。
 とはいえ、彼らも解散の理由は知らないらしい。肝心の荒船は大きく頬張ったお好み焼きを咀嚼中で口を開かず、影浦は興味なさげに水を飲んでいた。
「いやぁ……あの子、なかなか話しかけらんなくて。話したら気さくなんだけどね、近寄りがたい雰囲気がでてるというか」
「ああ、確かに。顔立ちが綺麗だから余計にそう思うのかな」
「タイプか、ああいう感じが村上は」
「そういうわけじゃないけど」
 ふむ、と頷く。きれいなのはわかるが、けれど村上の言っていることと遊真の知るそれは違うだろうという確信もあった。遊真の目には、綺麗と言われる顔を覆うベールのような嘘が見えている。
 会話していないときもそう見える不可思議を、相棒がいてくれたらふたりで話せたのになと思った。あるいは、レプリカがずっと隣にいたなら、彼女の素顔を見ることもなかったかもしれないが。
「あっちのガードが硬いなら他のやつに訊くって手もあるな」
「でも確か辞めちゃったんだよね。いっしょに組んでた子たち」
「そうなのか? オレは支部に転属って聞いたけど」
「えぇっ、支部所属の鋼くんが言うならそうなのかな?」
「もー! どっちかハッキリしろよゾエ!」
「奈良坂あたりに聞いたほうがいいんじゃねえか? たしかあいつら進学校組で、同い年だったろ」
「妥当だな、それが」
 お好み焼きをもくもくと食べながら、遊真は静かに全員を観察していた。誰も嘘はついていない。ひとしきり話し終えて満足したのか、話題は別のものへ移っていく。
 荒船に視線をやると、ちょうど一枚分食べ終えてコテを置いたところだった。
「空閑、あいつはなんて言ってた?」
 喧騒に紛れる程度に低く落とした声が問う。堂々とした密談だなと思いながら、遊真は痛いところを突かれたと首を振った。
「まだきけてない」
「じゃあ、おまえからあいつに訊いたほうがいい。あいつが話したくないかもしれないことを俺が言うのは違うからな」
 確かに、それが道理である。遊真がこくりと頷くと、荒船もそれでいいというように頷き返す。
「あてが外れて残念だなァ、空閑」
 どかり、と、いつの間にか輪を抜け出していた影浦が隣に腰を下ろした。
「……かげうら先輩は、ふらふらセンパイのことどう思う? むこうは何回か戦ったことあるって言ってたけど」
「ふらふらセンパイってなんだよ……まあいいけどよ。んで、あいつとバトったときの話か? 感情はわりと素直に刺さる方だけどな……、あー、なんつうか、たまにバグりやがる」
「ばぐ?」
 どういう意味? と、荒船に訊ねれば「システムがうまくいかないときとか、思ってもない動きをしたときに、バグった、とか言うんだ。故障とか欠陥とかと同じような意味だな」と説明が入る。
「欠陥……」
 言葉をなぞる。単語が耳に残って、すとんと落ちるような感覚があった。
「ズレるって言やあいいのか、いや、どっちかつうと重なる感じか? 言葉にすんのが面倒くせーけど、そんな感じだ」
「なるほど」
「今のカゲの説明でわかるのか?」
「いや、かげうら先輩の説明はよくわからなかったけど」
「オイ」
 けれど――少なくとも彼女が影浦に向ける感情は、表から見えているものとそう変わりはないのだろう。もしも全く違うのなら、影浦ならばそれを言うはずだ。
 だから、遊真には嘘として映る彼女の言葉は、彼女の本心でもある。
 ますますわからなくなってきたな、と思いつつ、穂刈が譲ってくれたアイスクリームを有り難く頂戴した。

   ◇

 狭く昏いふたりだけのシェルターで、遊真は彼女と肩を寄り添わせながらひとつの音楽を共有する。遊真の片耳を聞き慣れない旋律が包み、生温い呼吸は肌をくすぐる。
 だれかに怯えていた夜から、彼女はシェルターのなかで遊真を待つようになった。むしろ今までは、遊真に自分がいると知らせるためにブランコにいたのかもしれない。
「お好み焼きのにおいがする」
 すん、と鼻を鳴らして彼女が言った。ちょうど音楽の切れ間、わずかな静寂に淑やかな声が落ちる。
「ふむ……風呂は入ってきたぞ?」
 試しに袖のにおいを嗅いでみるが、少し甘い柔軟剤の香りがあるだけだ。
「なんでわかったんだ?」
「……ロビーで話していたのが聞こえたから」
 新しい一曲がはじまるのを待ってから、あっさり種明かしされる。なんだ。呟けば、彼女はくすくすとさざめくように笑った。その貌はやはりベールに覆われている。
「いたなら声かけてくれたらよかったのに」
 くちびるを尖らせると、彼女は「だって」と囁く。
「空閑くん、先輩方に囲まれていたんだもん」
「ふうん? センパイはそういうの気にするタイプか」
「気にするタイプでした。それに、夜になったら会えるから」
「……もしおれが来なかったら?」
「さみしくしてたよ」
 そっと、彼女が遊真にもたれた。ふわりと石鹸の香りが掠め、梳られた髪が肌をくすぐる。けれど預けられた重みはあまりにささやかで、強い風が吹けばたやすく離れてしまいそうでもある。だから遊真も体重を預け返した。今だけでも錨になれたらいいと、そんなことを考えてみる。
「センパイは、かげうらでおこのみやき食べたことある?」
「ないなぁ……おいしかった?」
「うまかったよ。かつおぶしがわさわさ動いて生きてるみたいだった」
「いいな、見てみたい」
「場所は覚えたから連れてけるぞ。焼き方も教えてもらったし」
「たのもしいね」
 コンクリートに埋まり損ねた声が、ほんのわずか反響している。夜霧のなかにいるようだと思った。しっとりと濡れて、つめたくて、ぬくいものだ。
「空閑くんが来てくれてうれしいな」
 ベールが淡くゆらめく。ふっと息を吹きかければめくれそうなぐらい近くにあったけれど、たぶんふれることはできないのだろう。見えるだけだ。
「……なんで部隊ぶたいを解散したのか、きいていいか?」
「いいよ」
 ぱち、と赤い瞳を瞬かせる。ふれあう部分から遊真の困惑を感じたのか、彼女が小さく首を傾げた。衣擦れが音楽にとける。
「なあに?」
「もっともったいぶられるかと」
「もうじゅうぶん勿体ぶったから」
 もしかしたら、彼女の頭にもひっかき傷ができていたのかもしれない。シェルターに隠れる前、遊真が問いかけたとき。あの夜、彼女はめずらしく先に帰り――送ってく、という申し出はおだやかに棄却された――次の夜にはいつものようにほほ笑んでいたけれど、ずっと話そうかどうか迷い続けていたのだろうか。
「……イヤじゃないか?」
「いやじゃないよ」 
 ぷつ、と音楽が止んだ。端末の画面が一瞬だけひかり、シェルターのなかを照らす。まばゆさに目を細める暇もなく光は掻き消え、彼女は、暗闇に包まれた公園を見つめながら呟いた。
「かんたんに言うと、刃傷沙汰があったんだ」
「ニンジョウ?」
「刃に傷って書いて、にんじょう――傷害事件のことだよ」
 言いながら、細い指が硬い土に文字を書く。整えられた爪が、ひどく無遠慮に地面を削った。


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