うすぎぬの夜

 それは喪に服すひとが纏うベールによく似ていた。彼女のかおにはいつでも夜から紡いで編んだようなうすぎぬがかかり、眼差しのゆくえを曖昧に隠している。ベールは彼女が言葉をかたちづくるたびに波打った。蠢く夜が呼吸しているようだと思うのも、あながち間違いではないのだろう。
「センパイは帰らなくていいのか?」
 真夜中のさびれた公園で、遊真はブランコに腰掛けていた。隣には、ブランコを漕ぐでもなく爪先を遊ばせるようにゆれている少女がいる。遊真の問いに応じて、彼女が朽ちかけた座板のうえで身じろいだ。艶やかな髪がするりと肩を滑り、ベールのむこうの瞳がこちらを見つめる。錆びた留め具がきぃきぃとちいさな悲鳴をあげた。
「うん、帰らなくていいの」
 薄く紅がのったくちびるから、白い吐息とともに夜の色がこぼれおちる。夜は瞬く間に紡がれ、編まれ、彼女を覆うベールになる。
 赤い瞳をぱちりと瞬かせた。いくらまばたきを重ねても、彼女の貌に降りた夜が明けることはない。ずっとそうだった。はじめて会ったときから、その夜は絶えることなく彼女を覆い隠していた。
 彼女は嘘つきだ。
 遊真の目ではその素顔を捉えることができないくらい、吐き出す言葉のすべてが、嘘だった。
「……センパイは、」
 どうして嘘をつくのか。そう問いただすことはたやすいはずなのに。
「ん?」
「あのトンネルみたいなやつの名前、知ってるか?」
 公園のまんなかにある、すべり台とトンネルが合わさったようなものを指差して訊ねる。闇に横たわる灰色の影は、なにか巨大な生き物のようにも見えた。
 彼女は「えぇ……」と情けなくもきこえる声をあげる。
「なんだろう……トンネルみたいなの、じゃだめ?」
「すべり台もついてるだろ」
「トンネルのようですべり台でもあるような、やつ」
「やつか」
 ほとんど意味なんてない言葉を交わしながらも、やはり彼女の貌にはベールがある。
 嘘を、ついている。
 彼女は、ほんとうは『トンネルのようですべり台でもあるようなやつ』の正しい名前を知っているのだろうか。
 じっとその貌を見つめると、彼女がこてりと首を傾げた。生白い肌が淡い月明かりに浮かび、その首の細さを夜に知らしめる。ベールがゆれる。赤くひりつくような頬は寒さのせいだろうか。
「さむそうだな」
 ぽつりと呟くと「さむくないよ」と答えがある。ベールが編まれていく。
「どちらかといえば、空閑くんのほうが寒そうだけど」
「トリオン体なのでおかまいなく」
 ひゅるりと頬を撫でる空気が冷たいことはわかるけれど、寒いとは思わない。指先がかじかむことも、鼻の奥がツンとしびれることも、関節が軋んで痛むことも、ない。
 そんなものはもうぜんぶ、あのときいっしょに灰になってしまった。
「おや、そうなの」
 たいして驚いたふうもなく頷きながらも、彼女は立ち上がった。ぎい、いちだんと錆びた音が軋んで、重石を失ったブランコがゆらゆらゆれる。
「……?」
 遊真が視線で意図を訊ねると、彼女はベールの下でほほ笑んだ。
「なにか飲み物を買ってきてあげる。あったかくて、あまくて、罪深いの」
「つみぶかい」
「カロリーがね……そう、空閑くんをまるまるとふとらせて食べてやろうと思って」
 淑やかな声がいたずらめいた言葉を象る。そこにはひとかけらも悪意はなく、けれど確かに嘘なのである。
「ほう」
「……食べないよ?」
 その言葉にさえ黒い煙が纏わりつくのだから、わからない。どれがほんとうのうそなのか。遊真が見つめると、彼女はやはり首を傾げる。薄いベールのむこうに困ったような表情があることは、気配でわかる。
「ふむ……ココアがいいな」
 遊真が言うと、安堵したような吐息が落ちた。
「了解。すこし待っていてね」
 彼女が背を向ければ、二月の夜を越えるには薄いコートの裾がひらりとゆれる。自動販売機かコンビニエンスストアか、彼女が向かう先についていってもよかったけれど、そうはしなかった。
 まぶたを下ろし、淡く透けるひかりに過去を重ねる。遊真が彼女と出会ったのは、界境防衛機関ボーダーに正式入隊を果たしたその日のことだった。

 ――おや、どうしたの?
 うっかり修たちと逸れてしまった遊真に声をかけてきたそのひとは、高貴な身の上の淑女がそうするように繊細なベールで表情を隠していた。それでもわずかに見える部分から、その面差しが精緻に整っていることが窺える。
 ――C級の子……かな? そういえば今日は入隊日だっけ……。
 くちびるから黒い煙がこぼれおち、赤い瞳を瞬かせる。遊真の目に嘘は黒い煙のように見える。見えるようになった。呼吸とともに吐かれた煙が細くなびき、やがてベールにとけていく。彼女の目元にかかるベールが嘘によって編まれていることに、ようやく気づいた。それが遊真以外には見えないだろうことも。
 ――ロビーならあっちだよ。
 細く白い指が果てしない廊下の先を示す。その言葉を信用していいのか、遊真は咄嗟に判断がつかなかった。嘘であることは間違いない。けれど不思議と悪意は感じない。
 ――……いっしょに行こうか?
 黙ったままの遊真を案じたのだろうか。こてりと首を傾げたそのひとはそう申し出て、遊真はおねがいしますと頭を下げた。彼女は自分が指さした方向に歩き出し、簡単に自己紹介をしてくれた。遊真も名乗り返すと、玉狛支部所属であることに驚かれたのち、なんで隊服黒いの? と訊ねられる。よくわからんと言うと、彼女はわからんものは仕方ないねと笑った。
 彼女は遊真のふたつ上の学年で、宇佐美と同じ学校に通うB級の銃手だという。
 隊を解散することになって……今はふらふらしてるおねえさんだよ、と。冗談めかした言葉を紡ぐ合間も、ベールは淡く波打つようにゆれていた。
 はたして、ロビーには辿り着いた。彼女に言われるがまま歩いた遊真は無事に修たちと合流し、三人で礼を言うと、慣れないうちはみんな迷うからね、お気になさらず、とほほ笑まれた。ベールはついぞ消えることはなく、まるではじめからそういうかたちで生まれたような貌だと思った。

 ぱちりとまぶたをひらけば、そこにはやはり暗闇がある。夜の公園はしんと静かで、時が止まっているのではないかと錯覚を起こしそうになる。さみしさのまんなかに、ただひとり取り残されたような気持ちだ。
 遊真は、ここではじめて彼女の素顔を見た。地形把握のための夜歩きの最中、たまさか通りかかったこの公園に、そのひとはぼうっと佇んでいた。
 そのときは、それが彼女であるとは気づかなかった。ただ夜にぽつりと浮かぶように現れたそのひとから、目が離せなくて。
 きれいだ、と、思ったのだ。
 冷たい風にしゃらしゃらとなびく艶やかな髪、すらりとした鼻梁の先には淡く色づくくちびる、眦にやわらかな影を落とす睫毛。そして、ガラスのような眼。すとんと表情が抜け落ち、そのきめ細かな肌は夜を裂く銀月のようにかがやいていた。
 精緻にかたちづくられた人形にも似た美しさ。けれど人形では決して持ち得ない生々しい感情が、薄い皮膚の内に秘されているような気もした。その佇まいからはおよそ情と呼ぶべきものは見受けられないというのに。
 ――空閑くん。
 ぱ、とガラスの眼が遊真を捉える。とらわれる、と思った刹那。その眼は薄いベールのむこうに追いやられた。くちびるにおだやかな笑みがのる。そこでやっと、遊真はそれが彼女であることを理解した。
 なにしてるんだ、センパイ。空閑くんこそなにしてるの。ふぃーるどわーくってやつだ。そう、つまり散歩だね。そうともいう。センパイは? わたしは――はく、と言葉の代わりに黒い煙が落ちる。
 ――わたしも、散歩だよ。
 真夜中と呼ぶに相応しい時間だった。まして第二次大規模侵攻からそう間を置かず、修がまだ病室のベッドで眠っていた日のことだ。あたりにはふたりの他にだれもいなかった。いつも隣にいた相棒も。
 すこしだけ、話をした。彼女は大変だったね、とだけ労ったあとは、公園の片隅に椿が咲きはじめていることを教えてくれた。
 ただそれだけのこと、だったけれど。
 その日から、遊真は彼女と夜ごと話すようになった。遊真が行けない日も、彼女がいない日もあったが、たいていは毒にも薬にもならないことを小一時間ほど話して、やるべきことの多い遊真が先に帰る。
 話し相手がほしいのだろうか。
 ブランコをゆるやかに漕ぎながら考える。嘘を嘘と知れるようになった時、遊真のからだは睡眠を不要とした。長い夜のやり過ごし方は相棒が教えてくれたし、ひとりでもつつがなく朝を迎えることはできるけれど。それでも彼女と話すひとときが、おそらく遊真は、嫌いではないのだった。
「ただいま」
 と、淑やかな声が夜を縫う。ざりっと靴底と土を擦り合わせてブランコを止める。
「おかえり。おお……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 差し出された缶は遊真の希望通りココアだ。きちんと両手で受け取り、ぺこりと頭を下げる。彼女が再びブランコに腰掛けるのを待ってからプルタブを引いた。かしゅりと小気味良い音が鳴り、白い蒸気がゆらめく。口をつけると、こっくりとした甘みがじんわりとしみる。ちらりと隣を窺えば、彼女もココアを飲んでいた。ベールのむこうの瞳と目が合う。
「罪の味がするね」
「ほほう、これが罪の……」
「そう、罪はあまいのです」
 彼女は言葉のままに、甘やかにほほ笑む。
 ――顔が見たい。
 ふと、思った。彼女はどんなふうに笑っているのか。どんな顔で嘘をついているか。それを、きっと遊真だけが知らないのだ。


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