春にあたまをやられる

 髪を染めた。人生で初めて。春のうららかな空気に真っ黒の髪はなんだか重くるしく思えて、ほとんど衝動的に飛びこんだ美容院でお願いした。髪は肩にかかる程度に短くしてもらって、毛先にワンカールだけパーマをあてて。髪の色はおしゃべりなお姉さんに勧められるまま、透明感のあるグレージュ。高校の屋上の、あのなつかしい場所の、野風にさらされた手すりみたいな色だなと思った。
 美容院のシャンプーのかおりと、薬剤のにおいが混ざった不思議なにおいがした。春の風にさらわれてさらりと揺れる。似合うかどうかはさておいて、視界に映るその色はわりと好きだった。
「髪、染めたんですね」
 目が合うなりびっくりしたような顔をした歌川くんが言った。
「うん、染めました」
 歌川くんはまだ驚いているのか、へぇ、とかつぶやきながら、じっと視線を降りそそぐ。髪を見ているとはわかっているのだけれど、どうしても顔まわりだから、面映ゆい気持ちになってしまう。
「いい色ですね。ずっと、黒髪のイメージがあったんですけど」
「春だから、思いきって」
「似合ってると思います。その、オレはあんまり女性の髪のこと、わかりませんが」
「ありがとう」
 彼に褒められたから、染めてよかったなと思った。ひどく単純な考え方だけれど、それもなんだか楽しいのはきっと春だから。いろんなものが花咲く季節だから、仕方ない。
「あとね、髪がすごくさらさらなんだよ。巻いたし染めたからどうなるかと思ったんだけ、ど?」
 歌川くんの手がのびた。男の子というよりも男性といったほうがよいおおきな手がちりりと耳にふれて、指先は髪を一房だけ遊ばせる。
「あ、ほんとだ」
 なにが、あ、ほんとだ、だ。いっきに熱がのぼってくる気がした。あの不思議なにおいがふわりふわりと香って、いろいろ考えるのが難しくなってくる。それにぜんぜん、わるい気はしないのだから。ときどき素肌にふれる彼の手はすこしかさついて、ふれたところはやけに熱っぽい。皮膚の薄ささえ私と彼ではちがうのだなぁとぼんやり思った。
 どれくらいそうしていたのだろう。歌川くんがぴしりと固まって、それからすぐに勢いよく手を離す。
「す、すみません! つい……」
 あかくなった彼の耳を見てやや冷静さを取り戻した私は、けれどまだ熱に浮かされたまま「歌川くんの髪をさわらせてくれたら許します」とおのれの欲望を口にする。「み、短いですけど」なんて言いながら手が届きやすいようにしゃがんでくれる歌川くんも、やはり春のうららかな空気に頭をやられたに違いなかった。


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