藤の花房はまだ遠い

「照屋ちゃんって、その柿崎さん? のこと、すっごく好きだよね」
 なまえは何気なさを装って言った。ひとくちかじった菓子パンの袋がわずかな音を立てる。手に力が入っていた。
 星輪女学院に入学したときからながいこと友人関係にある照屋とふたり、中庭の藤棚の下が昼休みの定位置だ。季節になれば藤の花房がいくつも風に揺れて、粛々と華やかなそれは照屋によくにあう。いまは青々とした葉が陽を遮り、そのせいで薄暗い。人がいなくて涼しいので、なまえはこれはこれで好きだった。
 照屋は手製の彩り豊かなお弁当から厚焼き玉子を箸でつまんで、ちょうど口に放り込んだところだったらしい。もぐもぐと口を動かしながらなまえを見ていた。ごくん、と飲み込んでから、
「好きよ。すごく、優しい人だし、支え甲斐があるってことは、頼りないってことと同じではないもの」
 と、表情も変えずに応える。『柿崎さん』の話をするとき、照屋はいつもおだやかな笑みをたたえていた。その笑みが揺らぐことはなくて、それが、余計に『柿崎さん』への名前のつかない想いを伺わせる。すこしは照れたり恥じらったりしてくれたらなまえの気持ちにも整理がついたかもしれないのにな、とおもった。尊敬ではなくて、恋をしているのだと、そのかわいい顔が雄弁に語ってくれたなら。そしたら、諦めもつくのに。
「いいなぁ」
 照屋のようにボーダーに所属できたらな、とはなんども考えた。この学校の生徒の多くはボーダーに入ることを良しとされる家に生まれていない。お嬢様学校のあだ名は見せかけではないのだ。比較的庶民のはずのなまえの家族も、『せっかく星輪に通っているのに』とボーダー入隊には否定的な立場だった。未成年の入隊には親の許可がいるから、なまえにはどうしようもない。
 もしもボーダーに入れたら、入っていたら。照屋にとって大切で、とくべつなひとになれただろうか。なまえが照屋を想うのとおんなじくらい、想ってもらえるだろうか。『柿崎さん』よりも、とくべつになれただろうか。きっとそんなことを考えてしまうなまえだから、この想いはどこにもいけないのだろう。せいぜい友達らしく、その領分からはみ出さないように、自分を律するだけのつよさが欲しかった。こんな自分は照屋にふさわしくないと、なまえがいちばん思っていた。
「ふふ」
 やわらかな笑みが落ちた。照屋がなまえを見つめて笑っている。ずいぶんと機嫌が良さそうだった。
「どうかした?」
「前に、柿崎さんに言われたこと思い出して。『文香って、なまえちゃんって子のこと、すごく好きだよな』って。ふたりが似たこと言うから」
 なまえはぱちりと瞳を瞬かせた。照屋はなにかツボに入ったのか、くすくすと笑っている。
「……普段、なに話してるの? へんなこと、話してないでしょうね」
 つん、として言ってみたけれど、頬はやわやわと緩んでいく。『柿崎さん』というひとに、嫉妬しているのは事実だ。でも照屋がそのひとになまえのことを話したり、そのひとがそういうふうなことを言ってくれるから、なまえはどうにも『柿崎さん』のことを嫌いになりきれない。
 それになまえは、結局、『柿崎さん』のことを話している照屋がすきだった。
「……ボーダー、楽しそう」
 呟いて、すっかり放ったらかしにしていた菓子パンをかじった。
「うん、楽しいよ」
 なまえの家族が入隊を反対していると知っているからか、照屋はそれ以上のことは言わなかった。それがうれしくて、すこしさみしい。
 もうすこし、入隊を認めてもらえるよう粘ろうかな。なまえがこぼしたちいさな呟きに、照屋は「まってるね」と今日いちばんの笑顔を浮かべた。


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