とける温度

「なまえさん、あれ、あれ見て。蛇口からチョコ出てる! スゲーな、ちっちゃい子の夢じゃん」
 となりを歩く当真くんのはしゃいだ声に頬がゆるむ。「前を見てないとあぶないよ」ソフトクリームのコーンをかじりながら嗜めた。安全圏まで食べ進めたとはいえ人の多い場所だ。だれにぶつかるともわからない。
「俺はなまえさんみたいにぼんやりしてないから」
 にやりと笑った彼は、たしかに人をきれいに避けて歩く。しかもとなりを歩くわたしがちゃんと着いていけるように通り道をつくりながら。そういう所作のひとつひとつは驚くほどスマートで、ほんとうに十八歳だろうかと疑いたくなる。学生証を見せてもらったので間違いなく十八歳なのだけれど。
 毎年、自分のために訪れているバレンタインの百貨店。三門からは少し離れているけれど、移動時間を鑑みても魅力的な催事だ。土曜日のデートに誘われ、これを理由に断ったら『着いてく』と言うのでいっしょに来ることになった。彼はもう受験とかそういう煩わしいことからは解放されているらしい。当真くんが楽しんでくれるかはわからなかったけれど、フロアに入った途端『ソフトクリームあるじゃん。食べようぜ』と女性客に紛れる気まずさよりも食欲を優先してくれたので杞憂だったようだ。
 でも、ほんとうに女性客ばかり。男性というだけでただでさえ目立つのに、彼はとりわけ目を惹くひとである。さっきからちらちら見られているのは気のせいじゃないだろう。ほかの人がいるところで迂闊にそういう顔をしないでほしいんだけどな――と、歳下の恋人に告げたくなる余裕のなさったらない。
「そんで、どこのチョコ買うの?」
 あっという間に食べ終わったらしい当真くんがソフトクリームの紙を畳みながら言う。
「ええっと、毎年買ってるところがあって、まずはそこ」
「りょーかい。どっち?」
 あっち。そう答えるなり当真くんの指が絡む。「あの、当真くん」人前で手を繋ぐことはほとんどない。彼が高校生で、わたしが社会人だから。
「んー?」
「手は」
「なまえさんと逸れたらアウェイすぎて生きてけねーもん」
「いやでも」
「三門から離れてっし、どうせ誰も見てないって」
 いや当真くんのことはそこそこの人が見てるんですって。そう言いたいけれど他の人に目を向けてほしくなくて黙ってしまう。「まあまあまあ」と、宥めすかす声は笑ってる。手を振りほどかないのはまだソフトクリームを食べ終わっていないからで――これを言い訳にすることもきっと見透かされてるんだろう。
「……ほかの人の迷惑になりそうなら離してくださいね」
「はいはい」
 頷きつつも、当真くんはちっとも離す気なんてありませんと言いたげに指先のちからを強めた。

「スゲー買ったな」
「つい……」
 フロアの端、いくつかの店の紙袋を持った当真くんが笑う。自分で持つと言ったけれど、お会計をしている間にひょいと持っていって返してくれないのだ。荷物持ちとして連れて来たようで申し訳なくなる。そしてこれでもまだ用意していた予算を使い切っていない、とは言えなかった。
「当真くんは、なにか気になるチョコレートあった? なんでも買ったげるよ」
「子ども扱いしないでくださいますぅ?」
 顔は笑っているけど、瞳の奥がわずかに真実を帯びていた。「す、すみません……」素直に謝る。つい社会人の財力を見せつけたくなった気持ちの裏にあるのは、たぶん対抗心だ。
「買うのは自分用で俺のは手づくりしてくれると思ってたけど?」
「嫌。……あ、いや、当真くんは舌が肥えてそうだから」
 だってぜったい、女の子から手づくりのチョコとかもらう。わたしならまず間違いなく渡す。『同級生の女の子がくれた手づくりチョコ、しかも高校最後のバレンタイン』、もう字面だけで勝てる気がしない。かわいらしさも腕前もないわたしは財力に頼るしかなかった。大人は卑怯なのだ。
「そんなことねーけど。なまえさんのメシふつうにうまいし」
「得意料理しか作ってないから……」
 そして当真くんがつくるごはんやコーヒーのほうが美味しい。なんでもできる器用な指先は、今はわたしの指に絡んで離れない。
「んー、じゃあ。なまえさんが買ったのちょっと食べさせて」
「え」
「独り占めするご予定のところ悪いけど」
 いや? こてんと首を傾げる。あざとい。わかっててやっていることを知っている。
「俺もそこそこ稼いでっから買い足してもいいし」
「いや、そんなことしなくても……逆にいいの? バレンタインのチョコレートなのに?」
「いいよ。だってなまえさん好みの味、知りたいじゃん」
「く、クセがあるのも多いから口に合うかわかんないよ」
「上等」
 にやりと笑った当真くんがすっと身を屈めてわたしの耳元にくちびるを寄せる。
「オトナの味、教えて? なまえさん」
 びくり、と震えた肩を宥めるように組んだ指先が手の甲を撫でる。
「そんじゃ、帰りますか」
 当真くんが手を引く。十八歳の彼に転がされていると情けなくはなるものの――たぶんわたしは、チョコレートのようにその熱に蕩けたいと思っていて。抵抗もなく進む脚にこっそり笑みをもらす。つくづく、どうしようもない大人だった。


close
横書き 縦書き