そっぽを向いている

「へぇ、いいじゃん」
 片手でピストルをつくった当真くんが、ベランダからなにかを見下ろして呟いた。土曜日の昼下がり。部屋のなかにはまだ気だるい熱が残っているが、東向きのベランダにはやっと日陰ができている。
 冷凍庫から取り出したコンビニのいちご氷とレモン氷を手に、そっと首を傾げた。十階建てマンションの八階。この季節は蚊が入ってこなくてうれしいが、とくべつ景色がよいわけでもない。
 わたしのクロックスは当真くんが使っていたので、裸足のままぺたりとベランダに出る。彼の隣に並んで下を覗き込めば、代わり映えのない住宅街があった。
 かろうじて川べりに向日葵が咲いているが、そろってそっぽを向いている。数日前までは太陽に合わせて首を振っていたが、もうすっかり東だけを見つめていた。緑のがくをたてがみのように縁取る黄色の花弁がちらちらと見える。
「いいって、なにが?」
「んー、ポジション?」
「なんの?」
「なんでしょうねえ」
 のらりくらりと躱す声に眉を寄せる。当真くんは相変わらず街を見下ろしていた。なにを見ているのかわからない。セットされていない彼の前髪は長く、瞳を覆い隠して影がおちる。
 この横顔が好きで、すこし嫌いだ。わたしには見えないものに夢中になっている顔。このうえなく魅力的で、けれどわたしでは引き出すことの叶わないもの。

 彼と同じ目線でものを見れない理由はいくつもあった。彼が高校生でわたしが社会人であることとか、彼がボーダー隊員でわたしが一般市民、とか。その差に惹かれるのだとわかっていても、同じでないことがときどき悔しい。
「……そーですか」
「おっ、拗ねてる?」
 いたずらっぽく笑った当真くんがこちらに体ごと向ける。ピストルはほどかれて、その指先はわたしの頬へ伸ばされる。
 それをするりと避けて、リビングに戻った。ありゃ。ちっとも残念そうではなく、むしろ面白そうに囁く声が背を撫でる。
 ガラス戸のふちに腰をおろして、レモン氷のふたを開ける。どっちがいいか聞いてあげようと思ったけどもうやめた。木のヘラを突きさす。じゃく、と少しだけ表面が削れた。
 霜の降りた氷は手強い。ほんのかけらのような氷は、舌にのせれば一瞬で熱にまぎれた。
「なまえさんは機嫌がわかりやすいよなァ」
 すぐ隣に腰をおろして、膝にのせていたいちご氷をとる。長い指がふたを外し、同じように木のヘラを突きさした。わたしよりも力強かったのか、じゃくり、とひとくちぶんが掘り返される。
 つい、と視線を外した。きいろいシロップの染み込んだ氷菓に集中する。
「わかりやすくしてあげてるんです。お子さまな当真くんのために」
 ちびちびと表面を削りながら答えた。棘っぽいわたしの言葉のほうがよっぽど子どもっぽい。隣からはしゃくしゃくと食べ進める音がする。
「そりゃどうも」
 声はやっぱり笑っていた。この懐の深さはいったいなんなのだろうか。わたしが18歳だったころは、何かを諦めることはできても、あるがままを受け入れることはできなかったように思う。
 しばらく無言で食べた。氷が口のなかを冷やして、喉を滑りおちていく。レモンの香りがじわりと広がった。
「で、いつ機嫌なおしてこっち向いてくれんの?」
 かしり、木のヘラをくわえたのか、少しだけ舌足らずな声で彼が言う。
「……かき氷を食べ終わったら」
 いつまでも拗ねて――はいないけれど、とにかく意地を張っていても仕方ない。それでもなんとなくそっぽを向いたまま答えれば、彼はくつくつと喉を震わせた。肩に重みがかかる。くたりと預けられた頭が笑みに揺れている。
 肌がふれあうほどの距離だ。あついことには違いないが、この影のなかであればこのままでいいかとも思えた。
 レモン氷を口にほうりこんで、上顎で潰すようにすればしゃくりらと溶けていく。つめたいくちびるが肌を掠めたことには気付いていたけれど、反応は努めて返さない。
「あー、なるほど。さっさと食えってことな」
「べつに? 頭キーンってしますよ」
「それも醍醐味ってモンでしょ」
 じゃくり、大きくひとくちをすくった当真くんは、数秒後に呻いた。フローリングにごろりと身を投げていてえいてえと笑う。向日葵の後ろ姿も、たぶんきっと、悪くはない。


close
横書き 縦書き