いちごジャムときみと

 かちゃりかちゃりと物音がする。意識がゆるやかに覚醒して、反射的に布団のなかにぬくもりを探した。シーツと毛布の間にてのひらを滑らせて、けれど指先にふれるものはない。
「当真、くん?」
 寝起きの声はかすれて小さい。けれど物音が一瞬だけ静かになって、それからきしきしとかすかな足音が近づいて来る。
「ん、おはよ」
 さらりと髪を撫でられる感覚があった。当真くんの指は長く節立っていて、これまで付き合ってきたどの男性よりも繊細にふれる。まだ瞼を持ち上げるには眠気が勝った。「おは、よ」となんとか返して、けれどまたすぐに眠ってしまいそうになる。それを引き止めたのは彼がもらした、吐息のぬけるような笑い声だった。
「コーヒーいれたけど、飲む?」
「……のみ、ます」
「じゃ起きて」
「うぅ、ん……」
 眩しさに瞳を閉じたまま身を起こせば、布団のなかに冷たい空気がひゅるりと滑り込む。素肌にそれを感じて、あぁ服を着なければとかぶりを振って意識の覚醒を促した。ヒュゥ、と響いた口笛は当真くんだ。彼と自分しか、この部屋にはいない。着替えるからあっち行ってて、と言う前に、気の利く彼はキッチンのほうへと戻っていった。あたためた牛乳をたっぷりいれたカフェオレをつくってくれるのだろう。そういうところがすこしずるい。
 二人がけのちいさなダイニングテーブルは、就職して二年目に買ったお気に入りだった。当真くんは長い足を持て余すように組んで、花柄のマグカップでブラックコーヒーを飲んでいる。
「俺、今日はちょっと早めに出るわ」
 トーストをかしりとかじって言った。たっぷり塗られたいちごジャムは彼がこの部屋に来るようになってから買うことにしたものだ。果肉がごろごろと残った、ちょっとお高いいちごジャム。まだ残りはじゅうぶんにあった。
「珍しいね」
「なまえさんまでいう? いや言うか。言うわな。テストあんだって、一限から」
「それは遅刻できないやつ」
「そ。こないだこのままだと卒業できんぞってガクネンシュニンに怒られたとこ」
「うん、それは頑張ってらっしゃい」
「うわー、がんばりたくねぇ―」
 くちびるを尖らせた当真くんだけれど、すでに髪のセットも終え、制服を身につけている。黒い学ラン姿をみると、彼がまだ高校生であることを実感してなんともいえない気分になる。でも、まあ、いつも、似合っているのでいいかと結論づけている。これが見れるのもあと少しだ。どうせならしっかりと目に灼きつけておこう、と。テーブルのうえの置き時計に目を向ければ、そろそろ彼は出なければいけない時間だった。それを指摘すると、トーストを大きな口でばくりと食べて、指先についたジャムをなめとりつつ、コーヒーで流し込む。
「じゃあ行く。なまえさんも会社遅刻すんなよ」
「はぁい」
 トーストをお皿に置いて、玄関まで見送りに出る。ふと、これをほかの人が見たら、きっと弟の見送りに出ている姉にしか見えないのだろうなと思った。設定は、両親を亡くして姉弟ふたりで健気に暮らしている、とかそんな感じの。
「なまえさん」
「ん、」
 なに、と訊ねるまえに、くちびるがふれあってすぐに離れた。「またね」にやりと笑った彼が扉を開けて、外へ出て行く。慌てて「いってらっしゃい」とその背中に投げた。
 年下の男の子にいいように扱われている気もしたけれど、もうしばらくは、溺れているのもいやではなかった。


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