相合傘はしないらしい

 わ、と心臓が跳ねた。ぱちりと合ったはずの視線は逸らされて、沈黙はすかさず雨音が覆う。雨宿りしていた軒先に入ってきたのは、同じクラスの辻くんだ。シャツはしっとりと湿り、黒く真っ直ぐな髪からぽたりと水滴が落ちる。そんな姿も絵になるのは、たぶん辻くんの姿勢がいつでもしゃんと伸びているからだった。
 ほんのすこし前までしとしとと降っていた雨は、あっという間に夕立と呼ぶには激しすぎる勢いとなって、わたしと彼の頭上にあるトタンの屋根をばちばちと叩いた。景色を霞ませるほどの雨に歩いている人はひとりもいない。アスファルトにぶつかって跳ねた水滴がじわじわローファーとソックスを濡らしていく。ちらり、と隣を窺うと、彼のスラックスもまだら模様になっていた。
 雨、やまないね。とか、話しかけたら、また困らせるかな。
 濡れたつま先を靴のなかで曲げながら考える。辻くんは、わたしに話しかけられると困った顔をする。その涼やかな顔立ちはいつもおんなじ表情を浮かべていて、だから困っているというのもわたしにはそう見えるというだけのことなのだけれど、ただ壁を感じるのだ。常に一歩、一線、引かれているような感覚。女の子が苦手らしい、とは噂できいたけれど、なんだかわたしに対しては他の子よりも距離がある。
「……、……」
 雨音に耳を傾けるふりをして、革靴がさりりとアスファルトを擦る音や、スマートフォンにあたる爪の音、衣擦れや呼吸をきいている。静かな横顔を、そっと窺う。この沈黙は、不思議なことに気まずいわけではない。でも、もったいないと思う。
 わたしは辻くんのことをよく知らなくて、たぶん辻くんもわたしのことをよく知らなくて、だから壁が分厚くなっているのなら。いま、この時間。自他の境界が曖昧になるような暑さと湿気のなかでは、なんだか無防備にふれられる気がした。


 しかし、どう話しかけようか。すっかり声をかけるタイミングを逃してしまったのはそうで、隣の辻くんはスマートフォンの画面に視線を落として壁をつくっている。声をかけて、それに気づいてもらえず独り言として処理されたらちょっと悲しい。かといってわたしと彼の間にある剣豪もかくやという間合いを詰めれば、野良猫のように逃げてしまう気もする。こんな雨のなかでも、彼が走り去ってしまうのは容易に想像できてしまった。おてあげだ。わたしは雨で霞む景色をぼんやりと眺めた。
「……、え?」
 声がこぼれたのは、不意に、横から腕が伸びてきたからだった。爪先が整えられた長い指、かすかに血管が浮かぶ腕、ぺたりと肌にはりついた半袖のシャツ。その先に、視線を逸らしながらもこちらに身体を向けた辻くんがいる。
「……る、……から……」
 薄いくちびるがぽそりと何かを呟いた。雨に覆われたそれを聞き取ることができなくて首を傾げれば、すう、と息を吸いこむ音が聞こえて、辻くんのくちびるがもう一度ひらく。
「車、とおったら……雨がはねる、から」
「……あ、下がった方がいいよ、ってこと?」
 こくり、と辻くんが頷いて、通せんぼしていた腕が下がる。なるほどと頷きながら二歩下がり、建物に背中をつける。辻くんも、同じように壁にもたれた。その横顔はやっぱりスマートフォンを見つめていて、失礼を承知で画面を覗けば雨雲レーダーが映っていた。
「……もうすぐ止む、みたい、です」
 辻くんはちらりともこちらを見ずにそう言った。
「そうなんだ」
 会話の糸口が掴めたことがうれしくて頬が緩む。辻くんのほうへ顔を向けて「今日ね、傘もってきたんだけど誰かにとられちゃったみたいで」と話しかけてみる。辻くんは返事こそしてくれなかったけど、小さく頷いてくれた。
「学校でたときは小雨だったからいけると思って走ってたんだけど、だめだった」
 やっぱり、辻くんは頷く。それからその薄いくちびるをひらいて、とじた。
「辻くんは傘を忘れちゃったの?」
 訊いてから、そうじゃなきゃここでこうして雨宿りなんてしていないか、と気づく。でもイエスで答えられる質問は距離を縮めるといいますし。と、思ったのに。辻くんは、頷かなかった。仔猫みたいに肩を震わせたかと思えば、じ、と足元を見つめている。
「…………傘、を……」
 音になっては散らばる言葉を拾い集めると、こういうことだった。
 ――わたしが傘をささずに門を飛び出していくのが見えたので、傘を貸そうと思って追いかけた。
「……そう、なんだ?」
 わたしは、いやその親切の気持ちはとても素敵だと思うけれどそれがどうして一緒に雨宿りをしているのか、と言いそうになって、やめた。辻くんの耳が真っ赤だった。
 ちらりと外を見ると、灰色の雲の切れ間に青空が見えた。辻くんの言うように雨はもうすぐあがるのだろう。わたしは、雨があがったら辻くんに一緒に帰ろうと言おう、と決めた。たぶん、彼は相合傘はしてくれないだろうし――もうすこし、顔を赤くした彼を見ていたかったから。


close
横書き 縦書き