人間は花になれない

*諏訪さんに夢主ではない初恋の相手がいる


   1

 ガラスのむこう。ひしめきあう花と目が合った気がした。

 諏訪は緩慢に動かしていた足を止める。じゃり、と踵がアスファルトの屑を踏み潰して音を立てた。視線の先には花がある。
 花。
 花束。
 自分にそれが似合わないことくらい自覚しているが――贈るぶんには『あり』かもしれないと思ったのだ。
 界境防衛機関ボーダーの男性職員がひとり、休職することになった。
 既婚者である彼は、臨月を迎えた妻のためにそうすることを選んだのだ。介護のための休職制度はあるが、それが身重の伴侶のために使われるのはボーダーでも初めてだという。しかし優秀な人材を永遠に手放すことになるくらいなら数ヶ月の不在も覚悟しよう、という判断が下されたらしい。
 様々な調整は水面下で行われていたようで、諏訪がそれを知ったのは彼が休暇に入る前々日――すなわち今日のことだった。
 防衛隊員と職員。役割は違えど同胞であり、友人とも言える。年齢差こそあるが、ともに雀卓を囲み幾度となく夜を越え、新入隊員に関わる業務でも世話になった。
 その伴侶である女性も、知らない相手ではない。普段なら食事でも奢るところだが、臨月となればそれも難しい。菓子折りなりを贈るにしても、夫婦で食べることになるだろうし、妊婦というと食べ物には気を遣っているのでは、と悩ましかった。
 産まれてから靴下なりぬいぐるみなり適当に見繕ってしまえばいいのかもしれないが――そのとき諏訪がそうできるという保証もない。今生の別れはいつだってそこかしこに転がっている。
 祝えるときに祝ってやりたい。そんな気持ちを持て余していたところに、ふと、花が目についた。
 いつもなら風景に埋没させたまま通り過ぎる小さな花屋。間口は狭いが、うなぎの寝床のように奥は深そうである。立ち並ぶ花たちは、諏訪の目には全く無作為に置かれているように見えた。
 品種ごとなのかと思えば、バラと思わしき花の間にガーベラがある。花のない葉物や枝物も多く、鬱蒼とした緑の陰が生まれ落ちている。さらに奥の冷蔵室には胡蝶蘭や菊などが濃藍の光に照らされながら整然と佇んでいた。
 店員の姿は見つけられない。
 通りに面したガラスから中の様子を窺い、薄っすらと反射する自分の顔に『いや、やっぱないな』と思ったとき。

「――おくりものですか」

 背後から声が響いた。やわらかく、淑やかで、深い森の奥を思わせるような、静謐として美しい声。諏訪は「いや、」と言い訳を考えながら振り返り、しかし言葉は続けられなかった。
 一拍、唐突に打たれた休符に、息を呑む。
「……、」
 声の主は若い女だ。今はやわらかに閉ざされているくちびるがあの声を紡いだのと、そうであることに一片の疑いもないほど、声と同じ印象を抱かせる女である。美男美女はそれなりに見慣れているが、それでも思わず目を奪われてしまうような、独特の雰囲気があった。
 精緻に整った面差しには憂いが滲み、反して、ちいさなくちびるは微かな笑みを湛えている。元からそういう顔立ちなのだと言わんばかりの、無に近い笑み。円い瞳にゆっくりとまばたきが重なる。睫毛の影が落ちる。
 女が腰に黒いエプロンを巻いていることに、遅れて気付いた。大きなポケットからは、園芸用だろう大振りの鋏が持ち手を覗かせている。不躾にもその整った顔ばかり見ていた気まずさに、小さく舌打ちをした。
 女はわずかに首を傾げる。艶やかな髪がとろりと肩を流れ落ちた。
「ああ、悪い。客じゃねえんだ。見てただけで……」
「では中へどうぞ」
「いやだから、」
「見るだけでもかまいませんよ。花はそれだけでもよろこびます」
 がらん、とドアベルの音が鈍く響いた。女はガラスの扉を開き、諏訪に入店するよう促す。扉を支える女は、諏訪が中へ入るまで一歩も動きそうにない。
 溜息をついた。花なんぞ柄ではないし、彼も貰っても困るかもしれないが、花束は別に彼から妻に贈るものにしてくれても構わない。
 贈り物として、全くない選択肢では、ない。
 諦めにも似た心地で、まあ見るだけ見とくか、と店内へ足を踏み入れる。
 積乱雲の下に潜り込んだときのような薄暗さを感じた。瞳が暗がりに慣れるまで数秒を要した。ひんやりと冷たく沈んだ空気に、噎せそうなほどの花のかおりが満ちている。
 『花はそれだけでもよろこぶ』などと女が言ったせいだろうか。さわめくようにくすくす笑う花の声がきこえた気がした。
「なにを伝える花ですか」
 するり、と狭い通路を物ともせず諏訪の横を通り抜けた女が、花の合間で振り返って問う。変わった訊き方だな、と思った。普通は、贈り物か自宅用か確認したうえで、贈り物なら誰にどんな理由で予算はいくらでどの花を贈るのか、なんて問いを重ねていくところだろう。
「見るだけでいいんじゃねえのか」
 諏訪が問い返すと、女はぱちりとまばたきを落とし、それからくちびるに浮かべた笑みをわずかに深めた。
「そうでしたね」
 笑うとすこし幼くなる。そう思ったことそれ自体から意識を切り離すように、小さな空間に満ちる花を眺めた。
 諏訪の知る花の名はそう多くない。バラ、ガーベラ、チューリップ、カーネーション、百合、胡蝶蘭、菊、それくらい。バケツには細々とした字で花の名前が書かれたカードが添えられていたが『キャプテントリニティ』などと言われてもわからない。品種名なのだろう。幾重にも重なる、バラや乙女椿に似た白く丸っこい花には『メテオラ』とあって、息を零すように笑った。こんなかわいげのあるメテオラも世の中にはあるらしい。
 女は、花の合間に立ったままじっとしていた。そうしていると、そういう植物のようにも見えた。美しく整った顔立ちのわりに希薄な存在感が、女を人ではない何かに思わせるのかもしれない。目が合っても、女はさして驚くでも照れるでもなく、ただ曖昧な微笑を浮かべたままそっとくちびるをひらく。
「おこまりですか」
 問われて、まあ、と頷いてしまった。殆ど反射的なものだ。円い瞳はガラスのように透明なひかりを宿して諏訪を写し、続く言葉を静かに待っている。
「……あー、出産祝い、いやまだ産まれてねえんだけどよ……もうすぐ子どもが産まれる同僚にお祝いで花を贈るのは、いいと思うか?」
 花屋に訊いたところで、商売なのだから肯定されるだろうことはわかっていたけれど。
 数時間そぞろ歩いても良い案が浮かばず、諏訪は疲れていた。もうそろそろ本部に向かわなければ防衛任務にも間に合わなくなる。
 花を贈るという行為が自分に似合わない自覚くらいあったから、誰かに背を押して欲しかったのかもしれない。
「よろこばしいこととして贈られるなら花もよろこぶかと思います」
「いやなんで花目線なんだよ」
 そこは『同僚さんもよろこばれると思いますよ』って言うとこだろ。と、思わず素で返してしまった。女は、ぱちり、とまばたきを重ねて「ああ」と頷く。何かに合点がいったような、特に何も思っていないような、どうとでもとれる感情の読めない声だ。
「いつ誰にどんな理由で贈っても贈られてもかまわないと思います。花は咲いているだけでうれしいものだから」
「まあ、そりゃあな……」
 それはそうだろうが。背を押してもらった、とはとても思えない控えめな言葉では、どうにも踏ん切りをつけられない。諏訪が何とも言えず渋面をつくると、女は不思議そうに小首を傾げる。
「花を贈りたくないなら贈らなければいいと思いますが」
 店員としてその発言はどうなのか。しかし反論もできず、やり場のない言葉を溜息に溶かす。そんな諏訪を見つめて、女は再びくちびるをひらいた。
「でも――どうしてだれかのゆるしが必要なんですか?」
「許し、」
「あなたはだれかに花を贈りたくて――花はそのちからになりたいと思っている。ただそれだけでいい話なのに」
 曖昧に浮かんだ微笑がほんのひととき閉じる。不思議そうに、どこか心細そうに、あるいはかすかな憤りを滲ませて、彼女は言った。
「だれに許されなくちゃいけないんですか?」
 贈ってもいいと思うか、と諏訪は訊ねた。
 彼女は、贈られたら花はよろこぶと言った。贈っても贈らなくても構わないと、贈りたくなければ贈らなければいいと答えた。
 ――贈る許可を、なぜ求めるのかと。
 だから。諏訪が、贈ってもよいのだと、彼女は言っているのだ。
 あなたも花を手にしてよいのだと。
 彼女は笑わないのだ。すこしの疑問にも感じていない。諏訪のような、見た目も言動もおよそ花に似つかわしくない男が花を買うこと。
 ないな、と。当たり前に思った、その奥に潜んでいた偏見を、つめたく、やわらかく、否定された。
 そのことに気付いて、唇の端を少しつりあげる。どうにも変な気分だ。
「……まあ、そうだな。贈りたいなら贈りゃあいいし、そうしたくないならしなけりゃいいって話だ」
 諏訪が言うと、彼女は「そうですね」と頷く。どうにも売る気を感じられないが、それがかえって心地よいような気もしてきた。
「決めた。買う」
「……お買い上げありがとうございます」
 不自然な一拍を置いてから、彼女は言った。覚えたての言葉をなぞるようだと思ったけれど、実際そうなのかもしれない。諏訪をじっと見つめる瞳は、どれにしますかと問うのを忘れている。
「つっても、花にゃ詳しくねえんだ。あんたが選んでくれないか?」
「わたしが」
「よろしく頼むぜ、店員さん」
 彼女は驚いたようにゆったりとしたまばたきを落としたあと、微笑を浮かべなおして何かを探すように瞳孔をさ迷わせる。
 彼女が花を選び取るまでの時間はひどく静かに過ぎていった。
 停滞した、けれど澄み切った水の底を、彼女の視線が泳ぐ。時おり、まるで花と目を合わせるように視線の動きを止め、声無き声で会話するようにくちびるが震えた。
「――あなたが」
 唐突にこぼれた音に――それを紡ぐくちびるの動きを見ていたことに、はっと思考が浮き上がる。彼女は諏訪の無遠慮な視線を意にも介さず、その繊細な面差しには似合わない、絆創膏まみれの指先をバケツへ伸ばす。
 無造作に並んだ花から選ばれたのは白いチューリップだった。
 数本を抜き取り、そっと諏訪へと差し出す。
「あなたが贈るならわたしがいい」
 微笑を湛えた彼女は、物言わぬはずの花の言葉を代弁するように、告げた。




   2

 絆創膏だらけの指先が白いチューリップを束ねている。不器用な手つきだった。茎にかけた麻紐は見るからに緩く、何も縛れてはいない。数本のチューリップを片手できゅっとまとめ、左手で麻紐を巻きつけているのだが、その動きはもたもたと頼りない。利き手ではないのだろう。
「いや逆にしろよ、持つ手」
 思わず声が出た。彼女は「ああ」と何かに気づいたような声をこぼし、左手でチューリップをまとめて持つ。そして右手で麻紐を結びはじめたが、速度は先ほどまでと大差なかった。どうやら生粋の不器用らしい。けれど、その手つきがとても丁寧に――花を傷つけないように慎重であることは察せられて、どこか憎みきれない遅さだった。
「選んだ理由を訊いてもいいか?」
 それを口にした理由の大部分は暇つぶしだが、少しだけ気遣いのようなものも含んでいる。人相の悪い男が無言で目の前に立って作業を待つというのは、たいていの人間にとってはプレッシャーとなるだろう、と。
 しかし、彼女はそういったものは感じていなかったらしい。声をかけるなり手をとめて、円い瞳で諏訪を見る。きょとりと見つめるような、それでいてかすかに微笑するような無表情からは感情が窺えない。
「選んだ理由……」
 わずかに悩むような声が曖昧に解けていく。彼女は諏訪と未だまとまらないチューリップの間で視線をさ迷わせ、やがてそっとくちびるをひらいた。
「花がそうしたいと言ったので」
 訊いたことを若干後悔した。このあと花束と一緒にスピリチュアルな名刺でも出てきそうなものである。
 諏訪が訝しげな視線を投げるのも構わず、彼女は濡れた指先を拭って、エプロンのポケットからスマートフォンを取り出した。チューリップは、かろうじて麻紐で束ねられている、という有様で放置である。
 彼女はスマートフォンに何かを打ち込み、それから諏訪へ画面を見せる。
「球根植物は毎年花を咲かせます。掘り起こしたほうがよいとされますが別にそのまま埋めていても咲いてしまうようです」
 チューリップの育て方。そんなふうに銘打たれたどこかのサイトだった。唐突な情報に少々面食らう。
「だからこの花はあなたにふさわしいと思ったのだとおもいます」
「……おう?」
 諏訪が戸惑いの声をそのままに相槌を打てば、彼女はじっと諏訪を見つめて、どこか観念するように、言った。
「どれだけ埋め直しても何度も咲いてそのたびに摘み取るように――あなたはそのひとのことが好きだったみたいだから」
 瞬間、驚きとも怒りともつかない感情が腹の底から湧き上がった。ぐるりと渦巻く感情に記憶の再生が重なる。

 ――――恋。
 諏訪は恋をしていた。
 かつて。過去にしたはずのそれ。誰にも言っていない。当人にすら気取られていないはず。
 秘めていた恋だった。今は歳上の同僚の伴侶となった――そのひとのことが。諏訪は好きだった。
 はじまる前から終わっていた。
 それでよかった。
『諏訪くん』
 自分を呼ぶ声を、まだ思い描けるような気がする、恋だった。

 ぐちゃり、と踏み躙られた胸の奥底から、さまざまな感情が沸き上がって溢れる。
 なぜ、なにを、ばかな。そして最後に胸の内に残った感情は――恐怖にも近しいもの。
 見ず知らずの他人が、どうしてそのことを知っているのか。誰にもふれることのできないはずの、皮膚の内側の赤々とした肉を、つめたい指先で撫でられたような。噎せかえるような花のかおりが、咲き誇る花のまなざしが、キュウと喉のあたりを締めつける。
 彼女は静かな微笑を仕舞い、どこかさみしげに、後悔するような表情でささやいた。
「花の声がきこえるんです」
 それは、信じてほしいと切に訴えるわけでも、冗談だとからかうわけでもない、淡々とした響きだった。彼女は作業へと戻り、不揃いな高さを調整している。埋もれていた花を出してやって満足したのか、くるりと薄い紙を巻きつける。そうするとだいぶ、チューリップたちも花束としてのていを醸し出しはじめた。彼女はレジの下からしゅるりと緑色のリボンを抜き出し、白い指先に絡めるようにしながら、やはりあのもたもたとした動きで巻いていく。
 ――もしも彼女が『それ』を自慢げに告げていたなら、諏訪は次の言葉を言いはしなかっただろう。相手の反応を楽しむような、そんな気配を感じたら、不機嫌も露わに金だけおいてこの店を後にしただろう。
 でも、そうではなかったから。
 だから諏訪は、言った。
 恐怖も怒りも驚きも飲みこみ、やりきれない思いを溜息にとかして。なんの罪もない、ただそこに咲いているだけの花を見つめて。
「……それ、サイドエフェクトかもな」
 さいどえふぇくと、と淑やかな声がなぞる。彼女が花束に結んだリボンは、笑ってしまうくらいへたくそな縦結びだった。

   *

 熱いシャワーを頭から浴びるさなか、不意にその水流が弱まる。かすかに響く配管を水が流れる音からすると、アパートの隣人も風呂に入っているらしい。なんつう時間にだよ、と自分のことは棚に上げて思いつつ、諏訪は一旦シャワーを止めた。
 諏訪が住むアパートの水圧は馬鹿みたいに貧弱なので、隣人と同時に使うとシャワーがジョウロと化す。ちょろちょろと流れるお湯を長々と浴びるより、少し我慢する方が諏訪の性にはあっていた。どうやら隣人も同じようで、諏訪の方に譲ってくれる日もある。
 ぽたぽたと雫の落ちる前髪を後ろへかきあげれば、後頭部のほうはまだ整髪剤が残っているのか固かった。もう少し洗い流さなければシャンプーもろくに泡立たないだろう。換気口からの風が濡れた肌をぞわりと粟立たせる。配管の振動が収まるのを待つ間、暇をした脳が思い出したのは花束のことだった。
 無事に同僚に渡せた花束。白いチューリップ。それに笑みを咲かせたかもしれないひとのこと。それを選び、つくった店員のこと。諏訪のこころに無遠慮に、そのくせやわらかにふれた、花の言葉がわかると言った、彼女のこと。
 一定以上のトリオンを保有する人間が稀に持つサイドエフェクトは、ボーダーの研究対象の一つだ。
 それに該当する可能性があると諏訪が言えば、彼女は調べる方法はあるのかと首を傾げた。ボーダーに連絡を、の一言で会話を終えてもよかったけれど――諏訪は、話は通しとく、と答えた。彼女はほっとしたように表情を緩め、諏訪と連絡先を交換した。
 防衛任務前に研究チームへ報告し、明日、さっそく病院で検査することが決まっている。諏訪は、病院まで付き添うことになっていた。予定を調整するため電話をしたときに、彼女が『諏訪さんもいらっしゃるのですか』なんて訊いてくるものだから、そういうことになってしまったのだ。
 顔見知りがいた方が安心するでしょう、と研究チームにも頷かれれば断れるはずもない。顔見知りと言ったって、ほんの数十分の仲だが。
 どうして余計な仕事を背負い込んでしまったのか。溜息を吐けば、それが合図だったかのように配管の振動が収まる。諏訪は再びシャワーのコックを捻る。熱い湯を被れば、汚れごと疲労や感情を洗い流せるような気がした。




   3

「こんにちは」
 午後二時に病院近くのコンビニ前で。約束よりも早く着いてしまった、と喫煙コーナーで手慰みに煙草に火をつければ、声をかけられた。その声は、まだ、忘れていない。
「……おう、早いな」
 顔を上げると、美少年が居た。正しくは美少年かと見まごう格好の、待ち合わせ相手がいた。長い髪を目深に被ったキャップの中に収め、オーバーサイズの灰色のパーカーが体の線を隠し、黒いスキニーに覆われた脚は肉づきが薄く細っこい。そんな格好をしていると端正に整った顔立ちはますます中性的に見えて、つい、美少年、と思ってしまったのだった。
「どうぞ」
 と、彼女が言った。何を、と言いかけて気付く。反射的に煙草を口から離していた。スマートフォンの画面を一瞬光らせた彼女が「時間はまだたくさんあります」と静かに微笑む。
「……そんじゃあまあ、有り難く。時間まで中に居てもいいぞ、出る時に声かける」
「いえ。特に買うものはないので」
 それだけ言って隣に並び、彼女は何をするでもなくぼんやりと立った。初めて会ったときにも思ったが、そうして立ち尽くしていると途端に人間味を失う女だと思う。燻らせた煙が風によって頬を撫でていくことにさえ無関心な様子で、気遣って風下に移動することも躊躇われるほどだ。
「……訊かなければならないことがありました」
 ふと顔を上げた彼女の、円い瞳が諏訪を映す。視線で続きを促せば、彼女は数秒悩むような沈黙を挟んだあと、そっとくちびるをひらく。
「保険証は必要ですか?」
「あぁ……場所は病院だが、今日あんたが会うのはボーダーの職員だ。いらねえよ、保険証も診察料も」
「よかった」
「忘れたのか? 保険証」
「……はい。家に」
「持ち歩いといたほうがいいぞ。出先でなんかあったときに困るだろ……まあ家族にでも持ってきてもらえりゃいいんだけどよ」
「そうですね」
 それきり会話はない。潰すにはまだ惜しい、というラインを灰が越えた瞬間に諏訪は「行くか」と告げた。

 余裕をもたせた待ち合わせ時間だったこともあり、結局、三門市立総合病院には指定された時間の二十分前に着いた。大きな病院というだけあって、エントランスには人が多い。処方箋や支払い待ちと思われる人々がベンチを埋め、入院患者は暇を持て余すようにそぞろ歩く。表情が明るい普段着の人々は、退院したのか見舞いに来ただけなのか。
 数秒目を向けただけで飛び込んでくる情報たちを努めて無視する。病院という空間はどうも居心地が悪い。どこまでも清浄であるという顔をした空間を前にして、この身に纏ってしまった煙草のにおいが気まずいのかもしれない。
 混み合っている受付は無視して奥の廊下へ進む。傷だらけのリノリウムの床がやわらかに光を反射し、彼女は疑問も挟まず諏訪に追従する。
「……奥の部屋にボーダーの研究室が間借りしてる、みてーな感じらしい」
「そうなんですか」
「今日はトリオン量の測定とサイドエフェクトについてヒアリングするだけだとよ」
「はい」
「まあ、一時間くれーだろうな……っておい、どうした?」
 背後を歩いていたはずの彼女がいつの間にか立ち止まっている。窓から差しこむ光を浴びながら、しなやかな若木のように佇んでいる。キャップの陰に隠れた瞳は何かを見つめているようだった。
 不意に白い指先が窓へと伸びて、からからとアルミサッシのうえをガラスがすべっていく。
「――会わないと後悔します」
 淑やかな声が告げた。その声の行き先はベンチに座る少年である。小学生だ。おそらく三年生か四年生くらいの、ちょうど生意気さが滲んでくるような年頃。まさか背後の窓から話しかけられるとは思わなかったのだろう、少年は驚いた顔をしている。
「な、なんだよ」
 威嚇するような声にも、彼女は「会いに行かないと後悔するとおもいます」とだけ答える。薄々感じていたことではあったが、どうにもこの女はコミュニケーションに難がある。少年はキッと彼女を睨むも、揺らぐことのない微笑という無表情に怖気つくようにくちびるを噛んで、それ以上のことは言わなかった。
 沈黙が訪れる。
 彼女は、動かない。
「誰かの見舞いか?」
 仕方なしに諏訪も話しかけてみると、ハッと少年が諏訪を見上げる。これが窓越しでなければしゃがんで視線を合わせてやれるのだが。案の定、少年は噛み付くような表情になる。怯えを反転させた威嚇行為だ。
 少年は一輪の花を握っていた。その色彩とは不釣り合いにくたりとした、オレンジ色のガーベラ。ぎゅっと、縋るように握りしめたそれを見て、ああ、と気付いた。
 彼女は、花の声がきこえるから。
「家族か? 友達か? 入院してんのは」
「かっ、カンケーないだろ!」
「まあ、そうなんだけどよ……」
 本当にそうなのだが。
 ちらりと隣を見る。彼女は円い瞳で諏訪をじっと見て「おかあさんだそうです」と言った。「そういうのはこっそり教えろ」と顔を顰める。少年は「なんなんだよおまえら! なんで知ってんだよ!」と至極もっともなことを叫んだ。
「悪いな。こいつ、前に友達の見舞いに行かなかったことを後悔してんだよ」
「いえ――」
 彼女が口を挟みかけてきたので、黙ってろ、と視線で告げる。彼女はくちびるをやわく噛むようにして、黙った。
「おまえも同じに見えて、つい声をかけちまったらしい。驚かせて悪かった。ほら、おまえも謝っとけ」
「……ごめんなさい」
 意外と素直に彼女は謝罪した。帽子を外し、深々と腰を折る。長い髪がとろりと肩を流れ落ちていく。
 ゆっくりと顔を上げた彼女に、少年はぽかん、と口をあけていた。食ってかかろうとしたところに、今まで隠されていた美貌が唐突に現れたからだろう。彼女の声はさほど高いわけでもないから、もしかしたら男だと思っていたのかもしれない。
「べっべつに、そんな謝られても、こまるし……」
 萎んでいく声とじわじわ赤くなっていく頬は見ているだけでなんだか居た堪れない。諏訪は助け舟を出すつもりで「花だけでも渡せたらいいな」と告げた。小さな手に握られた花がかすかに震える。風のせいか、それとも彼が握りしめたからか。
「看護師さんに渡してもらってもいいんじゃねえか」
「……うん、」
 選択肢をひとつ提示してやれば、少年はちいさく頷いた。少年がどうして母を見舞いに行かないのか、ということは、諏訪が口を出すようなことではない。事情を知るべきとも思わない。ただ、ここでじゃあなと別れるのは、少し、違う気がする。
 どうせ乗りかかった船だ、と自分を乗り込ませた元凶を見る。彼女は淡く微笑みながら諏訪を見返した。いまいち考えていることがわからない女だった。
「……会いに、行ったほうが、いいのかな……」
 少年の問いに、彼女は諏訪から視線を外す。見つめる先は花だった。少年ではなく花を見ているのだと、諏訪にはわかった。やわらかなくちびるがそっとひらき、笑う。
「――はい」
 く、と少年が息を呑んだのがわかった。一度俯いた少年は、しかしすぐにぱっとベンチから立ち上がる。
「行く」
 小さな声が宣言した。諏訪は「そうか」とだけ返し、彼女は何も言わなかった。離れていく背中はぴたりと止まって、生意気そうな目がじっと諏訪たちを見上げる。何か言いかけて、結局何も、言葉はなかった。まあ、礼を言われるようなことは何もしていないし、それでいい。不審者だと防犯ブザーを鳴らされなかっただけで十分だ。
「諏訪さんは嘘をつくのが上手ですね」
 彼女が言った。少年がいなくなってすぐ言うことがそれか、という感じではある。諏訪はがしがしと頭をかき、顔を顰めて返した。
「そんなとこ褒めんな」
「すごいです」
「そーかよ」
「やさしいです」
 森の奥に潜むような淑やかな声は、そのくせ回り道を知らずまっすぐ響く。しかしどうにも感情が薄いので、屈託ない、とまでは表現できない。
「……にしても、いつもあんなことしてんのか?」
 ああやって見知らぬ人に話しかけているのか、と問う。諏訪に話しかけてきたときもそうだけれど、コミュニケーションがヘタクソなわりに、お節介というか思い切りが良いというか。そこがますますヘタクソな感じがして、つい口を挟んでしまったわけだが。
「はい。うるさいので」
「うるさ……」
「ずうっとうるさいので」
 ポケットに適当に放り込んだスマートフォンが震えた。リマインダーの通知音。約束の十分前だった。



   4

「精神疾患か魔法かどちらかだと思っていたんです」
 カシュリ、とミルクティーのプルタブを引っ張りながら彼女が言った。
「頭の問題だったんですね」
 計測された彼女のトリオン量は、サイドエフェクトが現れるには十分な数値だった。研究者の話では二宮や出水にも並ぶというから、かなりのものだ。
 当人からのヒアリング、そして目撃者である諏訪からの報告も併せて――チューリップの花束のことを言わずに済んだのでガーベラの少年には感謝である――『植物との会話能力』を持つ可能性が高い、という結論が出された。
 御伽噺みたいなサイドエフェクトである。未来視ほどではないが。
「……頭っつうか、トリオンな。心臓の横にある目に見えねえ器官で生成されるトリオンが脳や感覚器官に影響を及ぼし……って昨日も言ったし、今日も説明されてたよな?」
 彼女は、はて、と言いたげに首を傾げた。どうやら聞き流していたらしい。
「むずかしい話はよくわかりません」
「おまえな……いやまあ、俺も人のことは言えねえが……」
 耳馴染みのない言葉が覚えにくいのはそうだろうし、用語を覚えたところで説明はできない。どういう仕組みで花の声をきいているのか、そもそも本当にサイドエフェクトなのか――彼女が言うようになんらかの精神疾患なのか――それはまだ、わからない。決めきれていない。
 研究員は『トリオンの大きな特質には情報の伝導体として優れているという点があり……いやそのためには植物側からもトリオンが放出されている必要があるのですが……植物がトリオン器官を持つかどうかなんてまだ誰も研究していないぞふふふ』などと話していたが、つまり何もわからないのでわくわくするぞ、ということらしい。
「研究協力の話は受けんのか?」
 ヒアリングの最後に持ち出された話は、諏訪は事前に聞かされていたことだ。ボーダーの出資者はトリオンにまつわる研究を目的としている場合が多い。街を守るためにだとか綺麗な建前はいくらでも並べ立てられるが、本当に人を集めているのは未知の技術とエネルギーという点だろう。
 普通の人間にはない特別な力であるサイドエフェクトは、トリガーという道具に次いで出資者の関心が高い分野だ。研究の種――金を生む木――はいくらあってもいい、ということだろう。利益を追求する企業の恩恵を受けている自覚はあるから、そこをとやかくいうつもりはない。
 諏訪が奢ってやったミルクティーをちびちび飲んでいた彼女は「受けたほうがいいですか?」と問い返してきた。
「おまえはどうしたいんだよ」
「わたしは……精神疾患でもトリ……とり……」
「トリオンによるサイドエフェクト」
「それでも――たいした差はないのでべつに……きこえなくなる方法も研究したらわかるんでしょうか」
「……他のやつを見てる限りだと難しいだろうな。研究が進めば対策できるようになるかもしんねえが」
「そうですか」
 組織のことを考えるなら、見つけられるよう協力しないか、とでも言うべきかもしれない。けれどそれはあまりに不確かで、不誠実だ。こんなものいらない、と言って捨てられるものでないことは、そこにある苛立ちは、傍から見ているからこそよく見える。
「……ほんとうは」
 諏訪をじっと見つめて、彼女は囁いた。
「きこえててもいいんです。うるさいときもあるけれど花はほんとうのことしか言わないから――きらいじゃないから」
「……そうか。そんじゃあ、研究協力の話は蹴ってもいい」
「いいんですか」
 きょとり、と円い瞳がまたたいた。諏訪の言葉に驚く姿はいっそ哀れなほどに無防備だった。他者に判断を委ねるような態度が癪に触り、顔を顰める。まどろっこしい。別に困っていないと、興味もないと、それが答えの全てだろう、と。
「協力しろっつったらすんのかよ」
 語気を強めて問う。
「はい」
 彼女はあっさり頷いた。
「は?」
 彼女が零したひとことに、何かどうしようもない違和感があった。気持ち悪いとか、不快だとか、そういう言葉に言い換えてもいい。
 目の前にいたはずの人間の姿が揺らめく。人間と会話している、という実感が遠ざかり、自分が話しているものの正体が覚束なくなる――不理解が、誤植のように立っている。
「おまえ、協力するつもりはないんだよな」
「はい」
「……なのになんで俺が協力しろって言ったらするんだよ」
 どういう意図があって頷いたのか読めなかった。諏訪が頼むなら、なんて理由が通用するほどの信頼関係を築いた覚えもない。
「そういうものですから」
「何が」
 彼女はわずかに首を傾げた。自分は至極当たり前のことを言っていて、理解していない諏訪のほうがおかしいのだと言わんばかりの、自然な仕草だった。
「花を手折るときに花の許可をとる必要はないでしょう?」
 円い瞳は、正しくガラスのように澄んでいた。
 空っぽの花器さながらに、伽藍堂であるがために。
 それを、淋しいことだと思った。変なやつだという直截な感想を抱かないでもなかったが――目の前の彼女が、本当にただ手折られるためだけに咲く花のように見えて。萎びてしまえば当然のようにゴミ箱に捨てられる、そういう花に見えてしまって。
「いや、おまえは花じゃないだろ」
 顔を歪めたのは彼女の言葉に納得しかけた自分への苛立ちだった。そんなわけがない。どれほど目の前の女が美しくても、彼女は意志のない花ではない。
 人間は花になれない。
 円い瞳がぱちりとまたたいた。
「そう――なんですか?」
 ほんとうにふしぎそうに、彼女は言う。
「おまえは花のようなものだと言われて育ちました」
 バカか、と言いかけて。彼女の表情にすんでのところで押し留める。
 何も知らないのだ、と思った。彼女は何も教えられずに、まさしく花のようにそこに在れと、そう言い聞かされて生きてきたのではないか。人目を惹く容貌のわりに薄い自我が、語るまでもなくその半生を想像させる。
「……忘れとけ、そんなの」
 諏訪が言うと、しばらくの沈黙のあと「わかりました」と淑やかな声が応えた。
 きっと、伝えたいことは何も伝わってはいなかった。伝わらないままに、言葉はただ受け入れられて、だから、何一つ意味のあるやりとりでは、なかった。



   5

「おや、諏訪くん?」
 人が行き交うロビーで、明確に自分に向けて放たれた声。幾度も思い描いたひとの、声だ。
「……ドーモ。検診かなんかっすか?」
 振り返って応じれば、はにかむような穏やかな笑みが返される。相変わらずこのひとは全身から人の良さを滲ませてんな、とそんな感想を抱いた。無意識にか、膨らんだ腹を撫でさすっているそのひとこそ、休職した同僚の伴侶である。
「うん、そう。定期検診」
「だいぶでかくなりましたね」
「ふふ、うん。ここ最近でぐんっとね。大きくなりました。……にしても、まさかここで会えるなんて思わなかったな。諏訪くんはどうしたの?」
「野暮用っスよ」
「ふーん? 健康診断引っかかったとか?」
「健康体です……お陰様で」
 きろり、とほんの少し釣り上がったまなじりは心配の現れだ。諏訪が渋々と言葉を付け足すと「ならよかった」とそのひとは笑った。
「まだ煙草すってるの?」
「……もう吸えるんで」
「うん、それは知ってる。かわいい教え子の年齢くらいはね」
「教えられた覚えはないっスけど……養護教諭には」
 自分がつくった表情がぎこちないように思えるのは、隣できょとりと円い瞳をまたたかせている女のせいだろう。彼女が、あんなことを言ったせいだ。白いチューリップ。球根のように季節を越えて幾度も芽吹き、咲き誇るもの。もう過去にしたはずの感情を、すぐ近くに感じる。
「あ、そうだ。チューリップ、ありがとうね」
 まさしく言い当てられて、一瞬、呼吸に窮した。
「……礼ならこいつに。選んだのは花屋なんで」
 斜め後ろに下がっていた彼女を指差すと、穏やかな眼差しが横へずれる。
「また可愛くないこと言って……それでええっと、待って、お花屋さん? こちらの美人さんが?」
 人懐こい笑みに対しても、彼女はわずかに微笑んだ口元のまま「はい。お花屋さんです」と返すだけだった。その淡白な反応にかすかに安堵する自分がいることが嫌だった。見透かされたくないものがあると自白するようで。
「えっ諏訪くんどうしてお花屋さんとこんなとこに……まさか……彼女……っ!」
「ちげーよ! ボーダーの案件で付き添い、です」
「あ、もしかしてサイドエフェクトの?」
「なんで知ってんすか。産休中ですよね?」
「だってメールは見えちゃうんだもん」
 悪びれずに言って、人の良い笑みは無機質な微笑と向き合う。
「ごめんね、なんのことかわからないでしょう……私、今はこんななのでお休み中ですが、ボーダー所属のカウンセラーなの。刑部といいます。よかったらまたお話ししましょうね」
「はい」
 こくん、と彼女が頷いた。たぶん何も考えずに頷いてんだろうな、と諏訪は溜息を押し殺す。隣の女が、求められれば素直に応じるということはもうわかってしまった。もちろん向こうは善意なのだから、それを受け取ることに何の問題はありはしないのだけれど。差し出されたのが悪意でもこの女は受け取ってしまいそうで、そんな想像をするだけでやるせないような気持ちになる。なんで俺がそんな気持ちにならなきゃいけないんだ、とも思うのだが。
「……ンなことより、ひとりですか? 荷物でも持ちますけど」
 思考の靄を振り払うように告げる。
「ううん、ふたり。大丈夫だよ、いま車を回してもらってるとこだから……、心配ありがとうね。さっすが諏訪くん、やっさし~!」
 逃げ道も兼ねての申し出をこうも衒いなく褒められるとかえって気まずい。いやそうする必要がなくても、諏訪は手伝っただろうけれど。目の前のこのひとでなくても。
「噂をすれば、ちょうど来たみたい」
「ああ、そんじゃあ俺らはこれで」
「会ってかない?」
「気ィ遣わせても悪いんで」
「そっかそっか。じゃあ、またね」
 ひらり、と振られた手に小さく会釈を返す。隣の女は、ひらひらと手を振り返していた。
 その背が病院の自動ドアをくぐったとき「今の方」と淑やかな声が言う。
「足が悪いんですか」
「……ああ、見ての通りな」
 諏訪の同僚の休業が許可された理由のひとつだ。ただでさえ足が不自由だというのに、足元が見えないほど腹が膨らんでは日常生活を送るにも誰かの助けが必要だった。妊婦にとっては小さな転倒も大ごとだ。
 あのひとは生まれ持った右足を失くしている。今、その空白を埋めているのはトリオンでつくられた義足だ。丸ごと体を入れ替える戦闘体とは異なり、色々と課題の多い技術らしい。あのひとはボーダーに与するカウンセラーであると同時に、研究観察の真っ只中であるトリオンの医療転用、その被験者でもある。
 そういったことを簡単に説明すれば、彼女は「とりおんは便利ですね」と感慨なく呟いた。そうだな、と諏訪も努めて平淡に答える。
「わたしが協力すればその研究は進みますか」
 同じ声音のまま彼女が続けた。諏訪がちらりとその表情を窺えば、やはり感情の読めない、完璧にかたちづくられた微笑だけがある。
「それともあまり関係がないでしょうか」
「……まあ、全く関係がねえってこともないだろうが。急にどうした?」
 あのひとと彼女が交わした言葉はごく最低限のものだ。この一瞬でそこまで気に掛けるほど懐いたのかと驚きつつ、刑部が相手であれば不思議でもないなと思う。そういう魅力のある人だから。
 しかし、彼女は澄んだ円い瞳を諏訪に向けた。
「今の方の足がよくなれば諏訪さんがよろこびますか」
「……、……そりゃあ、よくなったら喜ぶけどよ」
 眉間に皺を寄せる。そうした己の顔が威圧的であることは知っているけれど、彼女に臆する様子はない。
「では――協力します」
「どういう風の吹き回しだ?」
 協力する理由はなかったはずだ。諏訪や刑部が頼んだわけでもない。それでも目の前の女は、そうすることが当然であるように、告げた。それが不気味だった。善意ではない、もっと空っぽの何かが潜んでいそうで。
「諏訪さんはやさしいので」
 彼女が言った。
「やさしくされたら――おかえしをしなければなりません」
 何を言っても無意味だと思った。
 諏訪は顔を顰めたまま「おまえがやりてえならいいんじゃねえの」と、やけっぱちに答えた。


   *


 面談室に戻り、研究に協力する旨を伝えた。次は一度ボーダー本部のほうへ、という話になり、またも諏訪が案内する役目を仰せ使ってしまったのは計算外だったが。日程だけ擦り合わせれば、今度こそ用件は終わった。
「帰るか」
 人影もまばらになったエントランスでそう声をかけたのは、彼女が院内に飾られた花を見つめていたからだ。放っておくといつまでもそこにいそうだった。彼女のガラスに似た瞳が諏訪へと向き、こくりと頷く。
「家、あの花屋のあたりか」
「はい」
 だったら諏訪の住むアパートともそう離れていない。近くまで送っていってやるかと思ったのは、彼女が心配だったわけではなく、後に予定がなかったからだ。帰り道が似通ってしまうのなら別々に帰るのも気まずい。と、たったそれだけの、親切とも言えない振る舞いに、彼女は「ありがとうございます」と丁寧に礼を言った。

 嫌な予感はしていた。見覚えのある街並みが続くし、いつまで経っても道は別れないし。
 二階建てのそう大きくもないアパートだ。大学とボーダー本部のちょうど間に位置する、侵攻後に建てられた小綺麗な建物。スーパーが遠く少し不便な立地のおかげで家賃は相場より安い。空室ありの看板は諏訪が入居したときから変わらず掲げられている。
 そんなアパートが諏訪の家で。彼女の家でもあった。
「おとなりさんだったんですね。ご挨拶が遅れてすみません。よろしくお願いします」
 深々と頭を下げれば、その肩をとろりと艶やかな髪が滑り落ちる。諏訪は自分が何か厄介なことに巻き込まれる予感を抱きつつも「……おう」と答えるほかなかった。


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