やなこといいひと

「諏訪さんって家族と仲良さそう」
「なんだよ急に」
 ちょっぴり不機嫌そうに顔をしかめた諏訪さんが、噛み跡の残る煙草を灰皿に押しつける。どこかのだれかがつくった屍たちのうえに、あたらしい灰が降りつもる。まだ熱そうなその先端をなんとなくつついてみたくなったけれど、たぶん怒られるから我慢する。
「……ごめんなさい、正しくは家族と仲が良いといいなぁ、っていう願望です」
「マジでなんなんだよ」
「だって諏訪さん、いいひとだから」
 眠れない夜は本部の片隅に設けられた喫煙所に行く。たいていだれかと——諏訪さんと、話せるから。
 真白い光があふれる喫煙所に対して、廊下はぼんやりと薄暗い。常夜灯のか細い光を頼りに辿り着くここに、諏訪さんがいるとほっとして、それからすこし、さみしくなる。ヘンゼルとグレテールが月に照らされた小石を追いかけて家に帰ったときみたいに。
 はじめのうち、諏訪さんは喫煙所に来たくせに煙草を吸わないわたしに『何しに来たんだよ』と嫌そうな顔をした。『身体に悪いだろ』とかブーメランなことも言ってたけれど、最近は何も言わない。煙草を一本すって、ちょっと話して、じゃあなと仕事に戻る。わたしはそれを見送ったり、見送られたりする。
「……いいひとだから、何だよ」
 もう煙草は吸い終わっているのに、諏訪さんはどこにもいかなかった。煙草を失った右手は手持ち無沙汰に宙をさまよったあと、ポケットにおさまる。手を伸ばしてもぎりぎり届かないだろう間合いの先で、諏訪さんはいつもと同じちょっとやる気のなさそうな顔でわたしを見ていた。
「いいひとだから……やなこと少なそうな人生を歩んでほしいなぁ、って」
「……そんじゃ、俺の代わりに報告書でも書くか?」
「なんの?」
「定期報告、月一で隊長が提出するやつ」
「それ、わたしが書いたげるって言ってもぜったい書かせてくれないでしょ」
 まあな、と諏訪さんが頷く。責任感が強いひとだから、自分が預かる隊の報告書を他人に任せるはずがないのである。向き不向きのあることは相応しい人に振るけれど、別に諏訪さんは書類仕事が苦手なわけでもないだろうし。
「もう。どうせならちゃんと押し付けてくださいよ、やなこと」
 怒ったような声をつくって言えば、諏訪さんは「押しつけていいのかよ」と苦笑いする。いいよ、とわたしは胸を張った。他の人のやなことは、わたしにとってはあんまりやなことじゃないことのほうが多い。他の人にとってのよいことがわたしにとってそうでないように。
「やなこと、なぁ」
 諏訪さんはめずらしく二本目の煙草に手を伸ばしていた。からだにわるいですよ、と囁いてみてもその無骨な指先が止まることはない。ちゃちな感じのライターで火をつけて、はっ、と笑うように息をこぼす。
「……いや、やっぱおまえにだけは任せねえな」
「なんで!」
「おまえにやらせるくらいなら自分でやる」
「なーんーでー!」
「やなこと、なんだろ」
 諏訪さんは、笑いもせずにそう言った。きゅ、と喉の奥が締められたみたいに、言葉も呼吸も止まる。
「……、…………うん」
 わたしにとってはそうじゃないかもしれないよ、って言ってもよかった。言ってもよかったし、それは簡単なことだったけど、言わなかった。
「やっぱり諏訪さん、いいひとだ」
「いいひとどまりか」
「……でらいいひと?」
 なんで名古屋弁、みたいなことを諏訪さんは言ってくれなかった。「そりゃどうも」と呟き、ふかく呼吸する。煙が見えるから、そうしたことがわかった。

 *

『いつ帰ってくるの』
 スマートフォンの液晶に浮かんだ文字を、目を細めて見る。光になぶられてじんわりと霞む視界に文字をとかして、目をつむる。
 かえらないよ。目を閉じてたのに打ててしまった文字を消して『お正月には』と返した。求められている答えではないとわかってるけど、わからないふりをする。重たくなる心臓をごまかすみたいに、深呼吸する。
 無害とは言えないけれど、毒というほどの人たちではない。恵まれていたと思う。育ててもらった恩もある。尊重しなければならない、わたしへの配慮がなくとも。愛するべきだ——愛せたらどれだけよかっただろう。
 どれだけ言葉を並べても、理性で御そうとしても、天秤はいつも産み落とされた恨みに傾いた。
 生まれてきた理由が「お父さんは長男だから」に集約されると気付いたときから、わたしはずっと、人生を許容できない。


「諏訪さん、……いないのかぁ」
 ひょこりと覗いた喫煙所は無人だった。がらん、とした空間に真白い光と煙草の残り香だけがある。テニスコートの端にでも置いてあるような、壁沿いの硬いベンチに腰掛けて、つま先をぷらぷら遊ばせる。あらゆるところから照らされて、淡い影がいくつも重なっている。あかり、誰が消し忘れたんだろう。おかげさまで蛾みたいにふらふら誘われることになってしまった。
 えい、とサンダルをほっぽりだすように脱ぐ。ベンチのうえで膝を抱えて座り、ぎゅっと自分を抱きしめる。
 なんにもない夜は長過ぎる。夜勤、できればもっと入れてほしいのだけど、さまざまな兼ね合いがあるらしく希望が通らない。大学を辞めたら夜勤だけも許してくれるかもだけど、勝手に辞めたら親がなんていうかわからない。さいあく連れ戻されてしまって、本末転倒だ。
 やだなあ。やだなあ、やだなあ。
 どうして生まれてきちゃったんだろ。
 生まれてくるのはわたしじゃなくてよかったのに。
 すべてのいのちを神様が土くれから生み出していたならよかったな。そしたら、大人しく、粛々と、土に戻ったのに。

「おわっ」
 カタン、と響いた物音と声に顔をあげる。諏訪さんだった。やけにびっくりした顔をしているので、首を傾げる。
「……泣いてんのかと思った」
 すこしの沈黙のあと、諏訪さんが言った。会えてうれしい、と思ったので「諏訪さんに会えて泣きそう」と笑う。諏訪さんは「そーかよ」とちっとも嬉しくなさそうに返す。それから、つかつかと無遠慮に距離を詰めて、どさりと隣に座る。とん、と肩がふれあうくらいの、真横に。衣服にしみついた、諏訪さんのにおいが肌を掠める。
「あんま薄着で出歩くんじゃねえよ……あぶねえだろ」
 ぱち、とまばたきを落とす。薄着、と言われればそうだ。ベッドから抜け出して、サンダルをひっかけてきただけ。これで外を出歩いて何かあったら、わたしの危機意識のなさを責める人が現れるだろう。わたしが悪いって、言うだろう。だけど現実の話、監視カメラだらけの本部基地に暴漢なんて出現しない。万が一が起こったなら、ポケットに忍ばせたトリガーで換装したらそれで解決だ。
「……でもブラしてるよ」
「聞きたくねえよその情報は」
 わざと的外れな回答をしてみれば、にべもない返事がある。ちえ、とくちびるを尖らせながら、身じろぐようにほんのすこしだけベンチの端へ移動する。ふれあった肩を、そっと離す。
 ……もしもなにかあったら、起こってしまったら。諏訪さんも、わたしがわるいって言うのかな。言わないだろな。
「……吸わないの?」
「あ?」
「たばこ」
「……あー……今日はいい」
「喫煙所なのに」
「おまえが言うな」
 コツ、と音がする。諏訪さんは壁につむじを預けて、喫煙所のどこか上のほうをぼんやり見ていた。もしもわたしたちの肩がまだふれあっていたのなら、そのつむじはわたしに預けられていたのかもしれないな、と思った。惜しいことしたなとも、これでよかったのだとも。
「……、さっきの、ブラ、セクハラかな?」
「おまえが俺にしたセクハラ、な」
「やっぱり?」
「他のやつにはすんなよ」
「諏訪さんにはしてもいいってことだ」
 くすくす笑いながらからかってみたら、諏訪さんはぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「……いいひとだからな、俺は」
 掠れた声が鼓膜をやわく震わせる。
「自称するんだ」
 からかうように笑いながら、今度こそ泣きたいような気持ちになった。
 諏訪さんはいっつも、やさしい。ひどいくらいに。ときどき、どうしようもなく縋りつきたくなる。そしたら抱きしめてくれるって、気付いてる。
 でも、どんなにいいことがあっても、生まれてきてよかったと思えないから。生まれてこないほうがうれしいなと思うことをやめられないから。生まれてきたことが、いやだから。
「自称して悪いかよ」
「ぜんぜん。諏訪さんよりいいひと、いないもん」
 こんなにやな人生に、いいひとを付き合わせるわけには、いかなかった。


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