きみとふたりで落ちていく

「無理だ」
 諏訪は低く呻いて、なまえを見下ろした。彼女は俯きながらも、諏訪の服の裾をきゅっと握っている。ほんのすこしだけ、やわい力で裾を引く彼女はいとけなく、つい心が傾いてしまいそうになるけれど、諏訪は顔を歪ませて繰り返した。
「無理、だ」
 なまえの肩が震えた。一歩、後ろに下がって彼女から離れようとするけれど、諏訪の服をつかんだなまえはそれを許してくれなかった。
「……どうしても、ですか」
 揺れる声が問いかけた。ぎゅう、と心臓が握られるような感覚がした。従いかける心に釘をさす。
「どうしてもだ」
 一辺倒に拒絶を繰り返せば、彼女がゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫、ですよ。諏訪さんなら」隠しきれない笑みが浮かぶ。「きっとふたりなら、たのしいですよ」甘く、弾むような声がいっそ悪魔の囁きのようにきこえた。
「ね、だから……」
 ぐっ、と思いがけない力で引かれて、体が傾きかける。すんでで踏ん張れば、もはや彼女は隠すことなく笑みを咲かせて、さらに引っ張る。
 ――悲鳴がきこえた。幾人もの悲鳴と轟音。彼女はその声に空を見上げた。うっとりとした眼差しに情けなくも逃げ出したくなるけれど、きっと彼女は許してくれないだろう。
「一緒に乗りましょう、ジェットコースター」
「いや……無理……」


諏訪洸太郎
 来なきゃよかった。
 バレンタイン催事に賑わうフロアを前にして、諏訪が抱いた感想はそれだけである。人、人、人。袖擦り合うも、なんて言うのも馬鹿らしいほどの人口密度だ。いくらなんでも多生の因縁が過ぎる。しかも九割以上の女性率。あそこに飛び込んでいく気概は――いま絞り出している。
 諏訪がここを訪れたのは、なまえの――付き合って数年の恋人がぽつりと呟いた一言が原因だった。
『あ、おいしそう』
 それだけ。カタログをぱらりぱらりと流し見していた視線が留まっていたのは十数秒。恋人の前で自分用の(おそらく諏訪に贈るものよりも予算が多く割かれた)チョコレートを調べるのはどうなんだと思いつつ、あとで調べてみれば百貨店の催事限定商品ときた。
 まあ、ちょっと。たまには? いつも『プレゼントのセンスがないですよね』とか散々言ってくる趣味の合わない恋人に? これぞ、という絶対に喜んでくれるであろうものを贈りたい――とか。妙な色気を出すなと言いたい。別にそんなことをしなくたって、例え趣味が合わなくたって、それを受け入れられる程度には信頼を築きあげてきた自負があるじゃないかと。
 でも、驚いてくれるかもしれない。ありがとうと笑ってくれるかも。チョコレートひとつで笑ってくれるなら安いものだ。安い女と思っているわけではないけれど、代え難い笑みが少しの金銭で得られるとならば、喜んで払う。
「……あぁ、ちくしょう」
 行けばいいんだろう、行けば。舌打ちは喧騒にかき消えて人除けにもならない。女性客ばかりの売り場に切り込む覚悟はできた。列に並ぶのは気が重いが――ここまで来て退くのは男が廃る。ぐっと奥歯を噛み、諏訪は群像に紛れた。


「それでどうだったんだ?」
 タンッ、と生ビールのジョッキを居酒屋のテーブルに打ち付けるように置き、赤らんだ頬の風間が問う。同じように生ビールに口をつけながら、諏訪はふてくされた声で答えた。
「自分で買ってた」
「ほう」
 それはそうだろうな。だって自分用のチョコレート見てたんだろ。まさかお前が買ってくるとは思わないだろう。三者三様に頷く同輩の声を聞きながら、ぬるくなったビールをひといきに呷る。
「うるせえ」
 確かにちょっと考えればわかることだ。どうも浮かれていたらしい。喜ばせることができると思って、ひとりではしゃいでいた。穴があったら入りたいし、タイムマシンがあったら乗りたい。そして揶揄われるのがわかっていたくせに同輩に言ってしまった自分を殴りたい。
 別の話題に移り始めた三人を眺めながらつくね串に手を伸ばす。甘めのたれが絡んだそれを頬張り、ほんの数日前を思い出す。
 でも――なまえは、喜んでくれたんだよなァ。
 びっくりした顔をして、ありがとうと喜んで、そこで終わっておけばいいのに自分で買っていたことを告げてしまうような正直さが、あまりにも彼女らしくて。頭まで熱がのぼりそうだった諏訪に、ひとくちのチョコレートを差し出す指先が愛しくて。
 来年は、もうちょっと先読みできるように頑張ってみるかとか、思うのだった。


close
横書き 縦書き