月が綺麗でよかった

 ――はっくしょい!
 ずびっ、と鼻をすすって、それからつめたい風を厭うように肩を竦めた。Uネックのニットとその上に重ねた丸襟のコートはあたたかいが、首元は無防備だ。晒された肌から冷気が伝わって、巡る血を、心臓を凍らせるようで。背筋を駆け上る悪寒に両腕でからだをぎゅっと抱きしめる。
 まだ冬には遠いけれど、十一月の夜はじぃんと滲みるような冷たさがあった。ぴゅうぴゅうと無情に吹く風がさらに寒さを煽る。空を見上げれば、秋らしく煌々と浮かぶ月のまわりを雲が流れていく。
 きれいな、月だ。中秋の名月と言うだけあって、大きくて明るい。それに、秋から冬にかけての空は澄んで美しい。もう少しすれば、星もよく見えるようになるだろうか。
 しばらく見つめていれば、ぐんぐんと雲が流れて空の模様を変えていく。空のうえのほうは、地上よりも風が強いようだ。高所をとることが多い狙撃手は大変だろうな、と考えて。いや、寒くない、と思い直す。
(……トリオン体で帰れたらな)
 つい先ほどまで自分も使っていた、トリオンでできた偽物のからだ。あのからだに換装してしまえば、寒さも暑さも感じない。厳密に言えば寒さも暑さも感じるのだけれど、それはこんなふうにからだを震わせてしまうほど強くない。寒さや暑さに身体が影響を受けるイキチが生身よりもかなり高いんだよ、と教えてくれたのはエンジニアの寺島だったろうか。イキチ、というものがなんだったかは、説明してもらったような気もするけれど忘れた。
 ただ、ボーダーの施設内と、任務時以外でトリガーを使用するのは隊務規定違反だ。さすがにこんなくだらないことで評価を下げたり、あるいは除隊されたりなんてされるわけにはいかない。
(こういうときは走って帰ればいいって、レイジさんが言ってたっけなぁ)
 筋肉に恵まれたひとがいかにも言いそうなことだと思った。いや、ほんとうは木崎はそんなこと一言も言っていないかもしれないけれど、想像のなかで片手腕立て伏せをしている木崎は言っている。
「……ふ、……ふっ、ぶえっくしょいっ!」
 二度目のくしゃみにいよいよからだの芯から震える。これは、ちょっと、はやく家に帰らなければ風邪でも引きそうだ。明日も明後日もやることはあるし、風邪で倒れているわけにもいかない。
 いよいよ走って帰るしかないのか。任務終わりのからだは気怠く、全力疾走は遠慮したいところだ。任務中はトリオン体だから、生身のからだは疲労とは無縁のはずだけれど。気分の問題だった。
「おぉ、すげえくしゃみ」
 からかい混じりの声が響いた。ぴしり、と一歩踏み出した態勢で固まる。聞きたくなかった――聞かれたくなかった人の声が、背後から。
「す、わさん」
「んだよ」
 恥ずかしさに赤くなった頬がおさまるのを待ってから振り向けば、私服を着た諏訪と目があう。
 街灯に照らされた金の髪が輝いて、絵に描いたような不良、という言葉が思い浮かんだ。隊服と同じようなカーキ色の、丈の短いミリタリージャケットの前はきっちりと閉じられている。妙な生真面目さが諏訪らしい。それか寒いのかもしれない。首元の素肌が晒されているこちらとしては羨ましい襟の高さだ。襟元に余裕があるデザインらしく、襟に囲われたなかにチェックのマフラーまでしている。あたたかそうであまりにも羨ましい。
 ぽっと夜に浮かぶ赤い光は彼が咥えている煙草の火で、諏訪はゆらゆらと煙が漂うそれを口から離し、ポケットから取り出した携帯灰皿にいれた。まだ、ずいぶんと長かった煙草は、きっと火をつけたばかりだと思うのに。
「……いま、おかえりですか?」
「おう。おまえも任務終わりだろ。おつかれさん」
「お疲れさまです」
 軽く頭を下げつつ、どうしてここに? という問いは飲み込む。どうしても何も、ここはボーダー本部と市街地を結ぶ地下通路の出入り口で、扉の前でのんきに月を見上げていたのは自分だ。
「帰らねえのか?」
「帰りますよ?」
「誰か待ってたんじゃねえの」
「待ってないです」
 本部から地下通路に入ったときは諏訪の姿はなかったのだから、それだけ長い間ここにいたことになる。歩くのがよっぽど遅かったのかもしれないけれど、もしそうだったら、誰か待っていたのか、なんて聞かれることはないだろう。そりゃあくしゃみも出るはずだ、と納得する。
「そんじゃ行くぞ。はやく来い」
「はぁい……?」
 行くって、どこに? きょとん、と瞬きを繰り返せば、「帰るんだろが」と隣に並んだ諏訪がぶっきらぼうに言う。道は二手に分かれているが、諏訪の家はどちらの方向だろうか。できれば、一緒に帰りたいと思ったけれど。さっき盛大なくしゃみをきかれた恥ずかしさは、今は置いておく。
「おまえの家、どっちだ?」
「あっちです」
 指で示せば、その方向へ諏訪がつま先を向けた。
「諏訪さんもこっちですか?」
「……、おう」
 うそがへただなぁ、と声には出せず。
 ゆるりと笑みが浮かんでしまったのは、そのわかりやすさとくすぐったさに。諏訪は嘘をつくとき、わずかに声が低く掠れる。それに決まりの悪そうな顔が加われば、わからないほうがおかしい。
「……送ってもらわなくて大丈夫ですよ?」
 大股で歩き出した背中に、ちょっとだけ駆け足をして追いついて、その言葉を投げかける。
 わざわざ遠回りをしてまで送ってもらうのも申し訳ない。そんな思いを滲ませれば、諏訪は「気にすんな」と口早に囁いた。見上げた横顔はいつもと同じ仏頂面で、鼻のあたまがすこし赤い。
 道を知らないだろうに迷いなく歩くのだから、どうやら意志は堅いらしい。すこしくらい、あまえてもいいだろうか。
「……ありがとう、ございます」
「日が暮れんの早くなったしな。俺がいないときも気ィつけろよ」
 面倒見のいい言葉はきっと他の人にも言っていることだろうし、こうして家まで送ってくれるのも、諏訪なら誰にでもするだろう。
 諏訪の優しさは、誰でも知っている。そのことがちくちく心に刺さった。自分だけが知っていたいと思うけれど、誰にでも優しいところも、すき、なので、悩ましい。
「……はぁい」
 顔の赤みを寒さのせいにできるから、いい季節だ。
「生返事か」
「ちゃんと聞いてます、よ?」
「そーかよ」
 隣に並ぶと、ふわりと煙草のにおいがした。ついさっきまで吸っていたのだから当たり前だけれど。煙草を持っていた骨ばった手は、今は両方ともミリタリージャケットのポケットに突っ込まれて見えない。
 ちらちらと脳裏によぎる諏訪の手は大きく、乾燥のせいかかさついて手の甲には節が浮いていた。短く整えられた爪先はやっぱりどこか生真面目で、諏訪らしい。その手の温度まではまだ知らなかった。
「……地下通路で煙草吸ってたんですか? 禁煙区間だった気が……」
「階段あがるところで点けたからセーフだろ」
「じゃあ、点けたばっかりだったんですね。吸っててもよかったのに」
「でもおまえ、煙草吸わねえだろ」
「吸わないですね」
「吸わない奴の前では吸わねえことにしてんの」
「諏訪だけに?」
「あ?」
「……ごめんなさい」
「ばぁか、ぜんぜん『だけに』じゃねえんだよ」
 くっ、と喉で笑った声は言葉のわりに楽しそうで安心する。とくべつお喋りが好きというわけではないのだけれど、諏訪と話すときは勝手に口が滑る。いつもより早い心臓の音に急かされているように。
 それで余計なことを言って嫌われてしまったら、たぶん、とても悲しいから落ち着きたいのだけれど、なかなか難しい。そうそう人を嫌いになるようなひとじゃないと、知っているけど。
「諏訪さん、結構お笑いに厳しいところありますよね」
「おまえが拙すぎんだよ。本読んで落語聞け」
「落語も好きなんですか?」
「有名どころくらいだけどな」
「知りませんでした。ええと、落語ってまんじゅうこわいとか、じゅげむとかですか」
「よく知ってんじゃねえか。おもしれえぞ。教養もつくしな」
「きょうよう」
「みょうじにはちと難しかったか」
「今、馬鹿にしましたね?」
「……してねえよ」
「しました。あっ、ここ、曲がります」
「はいよ」
 曲がり角に置かれたカーブミラーに諏訪の金の頭が写っていた。「道、暗ぇな」と、諏訪がぽつりと言う。
 住宅街の中を貫く、歩道もない狭い道だ。車一台通ればもういっぱいになってしまう、一方通行の。青看板に白い矢印で示された表札とは逆方向に足を進める。
「住宅街のまんなかですからね」
「おまえ、いつもここ通ってんの?」
 街灯が少ないせいで夜が深い。ぽつり、ぽつりと、広めの間隔でたつ街灯の下に入ると、諏訪の金の髪が煌めいた。
「まあ、はい。帰り道なので」
 ふたつ先で曲がれば大通りに出て、そちらから帰ることもできたのだけれど、手前で曲がった理由は二つ。こちらの方が早いのと。ふたりで、いられるから。
「……ふーん。家まであとどんくらいだ?」
「まだ少し……お疲れでしたらここまでで大丈夫ですよ」
 そんなことちっとも思っていないけれど、無理やり隣に留めておける関係でもない。
 諏訪はポケットに手を突っ込んだまま、鼻で笑った。
「ばかか。こんな危なそうな道で置いてくわけねえだろ」
「ふつうの住宅街のふつうの道ですよ?」
 ここで、『じつは毎日、ひとりで帰るのこわかったんです』とか、『置いていかれるとさみしいです』とか、そういうしおらしくて可愛らしいことが言えればなぁ、と思わなくもない。
「うっせ。黙って送られてろ」
「……」
 たぶん、諏訪には可愛げのないやつだと思われているのだろう。変に遠慮のある関係よりも、こうして気安い言葉を言い合える仲の方がうれしい。それはほんとう。でも、諏訪は誰にでも優しくて気安いから、諏訪にとって自分との関係がありふれたものであるのは、きっとそうで。
 特別になるには、どうすればいいのだろう。こちらにしてみればいつだって諏訪は特別なのに。
「……」
 諏訪が、『彼女がほしい』と言っていたのを聞いたことがある。本部のラウンジで、珍しく木崎もいて、他にはいつものように風間や寺島がいた。同い年で集まってなんの話をしていたのかまではわからないけれど、諏訪の声はよく響くからそれだけ拾えた。
 彼が彼女にしたいと思うのはどんなひとだろう。『私がなりましょうか?』と言えれば、いや、それはちょっと上から目線すぎるか。
 かといって、下から、『私じゃだめですか』なんて言うのは、きっと困らせてしまう。
「……おい、ほんとに黙んな」
「すみません、くしゃみが出そうになってました」
 せめて考え事をしていましたと返せばよかった、と思うものの諏訪の笑みを誘えたので悪い気はしない。
「真に受けたのかと思って焦ったわ……っくし」
「なんですか今の」
「……くしゃみだろ」
「え、かわいい」
「あ?」
「いや、だって、……ごめんなさい。つい」
 また口が滑った。かわいいは流石にちょっと、不服だろう。
「……ま、おまえのよりはな」
 どこまで優しいのか、そう言って笑ってくれるので、熱がのぼるのを止められない。
「そ、それは忘れていただきたいです」
「野郎がいんのかと思ったらみょうじだもんなァ」
「忘れて! ください!」
「無理」
 からからとした笑い声が上から降ってくる。抗議しようと顔をあげれば、諏訪が一歩近付いた。
 強い光が諏訪を覆って、その影が自分を包んでいる。
「え、」
 ふわりとかすかに煙草のにおいが。それから、柔軟剤の。
「前見ろ、車来んだろ」
 近くに寄るとより身長差が開いて、諏訪が大きく見える。肩と腕が触れ合う。熱が伝わる。心臓がさっきよりもずっとうるさくなって、視線が惑う。
 諏訪が顎で示した先には曲がり角からのぞく車のヘッドライトがあって、言われた通り道の端に寄らなければ危ないということはわかる。いつのまにか、ずっと、諏訪が外側を歩いていてくれたことも。
「……この道ほんと幅ねぇな。先、車に譲るか」
 早口で囁いて、諏訪が歩みを止めた。ポケットから出された手にコートの丸襟を摘まれて、くん、と布地が伸びる。首が締まる前に立ち止まった。
 もっと、穏便な止まらせ方が、あると思う。抗議が声にならないのは、首筋に一瞬ふれた諏訪の手があつかったせいだ。凍てつきはじめた風に晒された肌は冷たく、けれど内側はとくとくと熱が高まっていく。
 距離はやっぱり近くて、止まった分、熱をより強く感じる。車は歩行者を気遣ってゆっくりと近づき、その向こうに後続車も見えた。
「このへん、一通ばかりなので、いがいと車とおるんですよ、」
「みたいだな」
 諏訪が自分を見下ろしている、というのはいつものことなのに、距離が近いと落ち着かない。当たり前か。それに、諏訪はこちらに体を向けている。車が通りやすいようにというのはわかるけれど、どこかの家の塀と、諏訪の間に挟まれて落ち着けるはずがない。
 ぐるぐるとふたりの間に熱がこもるようで、呼吸すると諏訪のにおいを拾ってしまう。どこにでも売っているような石鹸のかおりと、煙草がまざったにおい。
「さ、寒いですね」
 喉の奥が緊張で乾いて、張り付く。高くなった声も諏訪の衣服に吸われて響かない。それだけの近さに、いる。
「おう……あんなくしゃみするぐらいだもんな?」
「だから忘れてくださいと!」
「無理。……ほんとに寒そうだな」
 ついさっき、丸襟を引っ張った手が頬にふれた。
 頬を、指の背でするりと撫でられた、その感触が思考を停止させる。かるく握られた手は大きくて、けれどあついのか冷たいのかはもうわからなくて。節だってすこしかさついた手が目の前を横切って離れるのをただ見送った。一拍、おいて。カッと顔に熱が集っていくのがわかる。
「あ、の……」
 声が掠れる。こころのそこから嬉しい、けれどどんな顔をすればいいのかわからない。変ではないだろうか。どうするのが正しいだろう。諏訪はどうして頬を撫でたのだろう。
 吸い込まれるように瞳を見つめた。諏訪の瞳のなかにいる自分が、かすかに見える。こちらを見下ろしていた諏訪の瞳がはっと見開かれた。
「っいや、おまえ、冷たいな。大丈夫か。寒くねえか」
「さっ、むいです、ね?」
「薄着してっからだ」
「マフラー、なくして。あたらしいやつ、だったんですけど、かなしいことに、かわいかったのに、」
 諏訪の手はいつのまにかポケットのなかに戻っていて、それを追った視線を次はどこにやればいいのかわからなかった。いらない情報まで紡いでしまう口を閉じたいけれど、そうするときっと呼吸ができない。
 ポケットから、手が引き抜かれた。思い出した感触がすこしだけからだを身構えさせたけれど、諏訪の手は上に、彼自身の首元に伸びる。
「巻いとけ」
 差し出されたのは、ミリタリージャケットの高い襟の内側に巻かれていた、チェックのマフラーだった。それと諏訪の顔とを見比べる。諏訪は物言いたげに見下ろすだけだ。
「……いや、それは。諏訪さん、が寒いですし」
「んなヤワじゃねえよ」
 焦れたのか、諏訪の手が動いて首にマフラーを纏わせた。短気だ。マフラーが頸を覆って、両端を持った諏訪がくるくると巻いていく。
 手早く行われたそれはざっくりとした手つきで、口元を覆ったマフラーに呼吸を妨げられる。いや、呼吸をしてはいけない。ついさっきまで諏訪が巻いていたそれはまだ温もりが残っている。諏訪の、においも。息をころしているのに、ずっとずっと強くかおるそのにおいにどうしようもなくなって、けれど顔をあげれば諏訪がいることはわかっていて、動けなくなる。
 口元を覆っていたマフラーを諏訪が下に引っ張ってよけてくれるまで、結局、呼吸もできなくて。当然のように、諏訪の手を止める余裕はなかった。
「……ちょっとはマシになっただろ、寒さ」
 そう言いながら、諏訪が一歩引いた。手は、またポケットのなかに隠れる。車はもうとっくの昔に通り過ぎていて、道は元の静寂を取り戻している。すこし間を開けて隣に並んだ諏訪が、爪先を道の先に向けた。
「まだ、真っ直ぐでいいんだよな?」
 問いかけつつも、すでに歩き始めている。そのあとを遅れて歩き出し、少しだけ早足で追った。
「はい、」
 距離が、開いたような気がする。近付く前よりも。自分と諏訪、どちらが距離を開けたのかはわからなかった。どちらにせよ、緊張しない距離に戻れて、どくどくと耳元で鳴っていた心臓の音も凪いでいく。首に巻いたマフラーがある限り、きっとうるさいままだけれど。
 もう、自分の顔があついのか冷たいのかもわからない。盗み見た諏訪の頬は赤いように見えた。自分と同じ理由なのか、寒いだけなのかはわからない。
「……あの、クリーニングして、返しますね」
「あ?」
「マフラーです。なるべく、はやく」
「いい、ンなもん別に。つーか、やる。それ」
「やる、って」
「マフラー」
「いや、そんな、わけには」
「ちょうど買い換えようと思ってたんだよ。おまえも新しいの買うまでそれで間に合わせとけ」
 諏訪は、嘘をつくとき、声が低く掠れる。それを指摘するのは簡単だ。でも。
「……ほんとうに、もらっちゃいますよ」
「おう、貰っとけ」
 鷹揚に答える言葉は、きっとこちらの気持ちを知らないから言えるのだ。
「まあ、お古で悪ィけど、風邪引くよりゃマシだろ」
 隣を歩いているから見えるはずがないのに、こくんと頷いて応えた。
 今、口を開いたらいろいろな想いがこぼれ落ちてしまいそうで。そっと吐息をもらすと、諏訪のにおいが鼻をかすめる。
「……どうした?」
 無言を心配した声が響く。やっぱり、頷いたって伝わるわけがない。慎重に呼吸をして、返すべき言葉を選ぶ。
「いえ。……ありがとう、ございます」
「……おう」
 さっきまで、諏訪とどうやって会話していたのだろう。当たり前にしていたことが思い出せなくて、思考を進めることができなくなる。余計なことを言ってしまいそうで心配になっていたのがうそみたいに。
 沈黙を持て余しながらも無心で足を進めれば、諏訪が口を開いた。
「今日、日佐人が――」
 語られるのはとりとめのない諏訪隊の日常で、目に浮かぶ光景にゆるゆると硬さがとれていく。
 気がつけば声をあげて笑っていたけれど、家の前まで辿り着いても、においと温もりに慣れることはなかった。


「送っていただき、ありがとうございました」
 玄関の前で頭を下げた。諏訪が「気にすんな」と軽く肩を叩く。顔をあげて、正面に立った諏訪を見上げた。つめたい風が吹いて、マフラーの端が靡く。諏訪は肩をまるく窄めて、口をへの字に曲げる。
 不機嫌そうな顔と、金の髪と、私服と。いろんなものが噛み合って、やっぱり不良のようだと思った。実際、口は悪い。とても。それでも優しいひとなのだと知っている。誰にでも、優しいひとだと。
「じゃ、風呂入ってあったまって寝ろよ。風邪引くんじゃねえぞ」
「はい。諏訪さんも……、風邪ひかないでくださいね」
「だからそんなヤワじゃねえって」
「流行り始めてるみたいですから、インフルエンザも」
「へーへー、わかったわかった」
 風邪を心配しているくせに、玄関先で長く引き止めるのもおかしい。ただでさえ遠回りをさせている。
「……あの、マフラー」
「ああ?」
 それでも、引き止めたくなってしまうのは離れがたかったからだ。諏訪のにおいも温度も、もっと感じていたかったと、家に着いてから思ってしまったから。
「大切に、しますね」
「あー……、おう」
「あと今度、お礼になにかご馳走させてください」
「気ィ遣わなくていい。おまえから金とれるわけねぇだろ」
「だめです。あたたかい飲み物ぐらい……なんなら、今、なにか飲んでいきますか?」
 口が、滑った。ぱちり、と諏訪が瞬きをひとつ落とす。言ってしまったものは取り返せない。ぴしりと固まれば、諏訪が呆れたようにため息をつく。
「……いかねぇよ。こんな時間に男を家にあげんな」
「う、……はい。じゃあ、今度、おすすめの喫茶店に案内しますね」
 わるあがき、という言葉が浮かぶ。いま、ふたりでいられないなら、こんど。距離を、詰めたいのだ。まだ特別じゃないかもしれないけれど、特別のなり方もわからないけれど、諏訪の特別になりたい。
「だから気にすんなって」
「……」
 じ、と諏訪の瞳を見上げる。手を伸ばす勇気はなかった。ただ視線を絡ませていれば、そのうちにそっと目が逸らされる。
「……案内するだけな」
「はい」
 安堵して頬が緩めば、諏訪はやはり不機嫌そうな顔をする。ほんとうに嫌だったら応じてはくれないから、大丈夫だ。優しさにつけこんでいる自覚は、ある。
 誰にでも優しいところがすきだけれど、それに思うところもあるのだから、よい、ということにしたい。
「おら、いいからさっさと中に入れ」
「……はぁい」
 促されるまま、諏訪に背を向けて玄関の扉へ向かう。
 ドアノブに手をかけて振り返れば、諏訪はシッシッと追い払うように手を振っていた。少し、いやだいぶ、悲しい。
「……あの!」
「なんだよ」
「楽しみに、してます。喫茶店」
「わかったから、あとで都合いい日を連絡しろ」
 辟易したような声音。けれど口の端には笑みが浮かんでいた。それを見つけて、こころが弾む。笑みがこぼれて、ふわふわとあたたかいものが胸に広がった。
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 やさしい声がこたえてくれた。最後にもう一度頭を下げてから、玄関の扉をくぐる。
 ぱたん、と閉めて。その場にずるずると沈みこむ。
 膝を曲げればすっかり冷えた足にじんわりと熱がこもって、マフラーに顔を埋めれば諏訪のにおいがする。
 石鹸と、煙草。それから、自分が使っているシャンプーのかおりもまざる。
(……月が、きれいでよかった)
 移り香が、こころをじわりと痺れさせる。
 諏訪に言われたように、はやくあたたまって眠ったほうがいいとわかっているけれど。
 それでも、もう少し。夜道のやりとりと、頬に触れた手の感触を思い出していたかった。


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