すてきなこと

 ウワァ。
 思わず漏れ出たちいさな悲鳴に、隣に立った先輩はどこか遠い目をしながら笑った。
「そうよ、みょうじさん。これが嵐山隊の集客力なのよ」
 時はバレンタイン。三門デパートは六階催事会場。ボーダー主催のバレンタインイベントの真っ最中。特設ステージには、ボーダーの顔・広報を一手に引き受ける嵐山隊。そして客席には――年代問わずさまざまな女性(黄色い悲鳴つき)。
 わたしたちは会場の角、出入り口にほど近い裏方スペースからそれを眺めている。ここからでは距離と人の頭でステージの様子はちらりとしか見えないが、今日も五人は大人気のようだ。
 こくり、と喉を鳴らしたわたしに、先輩は「手を動かして」と小さく叱責する。このあと無料配布する嵐山隊からという名目のバレンタインチョコレートをラッピング中なのだ。一週間前から手が空いた総務部でやっていたがぜんぜん終わらなかった。
 こんなに数いります? なんて笑っていた一週間前のわたしたちに言いたい。いります。どうしてもっと頑張ってくれなかったんですか。
「でもやっぱり、嵐山くんがいちばん人気ね」
「どうしてわかるんですか?」
「痛バよ」
「いたば」
「ほら、嵐山くんのグッズをカバンにつけている人が多いでしょう」
「なるほど」
「みょうじさんは誰推し?」
「ダレオシ」
「さてはそういう用語に疎い?」
「どこの用語ですか?」
「あっガチでわからない顔」
 先輩は『しまった』という顔をしつつも作業を続けていた。手早い。「そういえばみょうじさんの趣味って?」「茶道です」「趣味なんだ?」「祖母が家元で……」「だからちょっと古風な感じなのね」「そうでしょうか」話を続けながら、小さなお菓子を三種類ずつ袋に詰める。わたしが詰めて、先輩がリボンをかけるという完璧な流れ作業だ。――スカッ。あ。
「お菓子、終わりました」
「え、うそ。まだ数が足りないのよ」
「奥にまだあるかもしれません。とってきます」
「大丈夫? 重いからだれかつかまえて――あ」
 馬力を求めてさ迷わせた視線の先、特設ステージでは嵐山隊が奥に下がって行くところだった。ということは、客席に詰めかけた方々が帰る――この、目下詰めている最中のお菓子を受け取りにくる、ということで。
「行ってきます」
 配るにも人は必要だ。そして先輩にはまだリボンをかける仕事が残っている。ローヒールの靴を履いてきてよかったと思いながら、わたしは奥のスペースへ駆け出す。
 プレゼントの配布に滞りがあれば、ボーダーのイメージアップに取り組む職員たちの血と涙と徹夜が無駄になってしまうかもしれない。迷っている時間はなかった。

 ――あった。蓋をあけて中身を確認した段ボールを前に、ほっと胸をなでおろす。全部で三箱。中身は軽いお菓子だから、視界がふさがるだけで持てなくはない。祖母の手伝いでもっと重いものを運ぶときだってある。
「よい、っしょ」
 わぁ、見事に前が見えない。無理かも、台車を探すべきか――なんて思いつつとりあえず前進していれば、急にひらける視界と軽くなる腕への負担。
「なんでひとりで運んでるんですか」
「佐鳥くん」
 段ボールをふたつ持った佐鳥くんが、笑いつつも咎めるような視線を向ける。『人を頼らないのはみょうじさんのわるいくせ』と、前に言われたことが過ぎった。
 ただの総務のわたしと嵐山隊の佐鳥くんは、実はちょっぴり(自惚れでなければだいぶ)仲良しなのである。本部の隅の自販機前でよく会うわたしたちは、自然とよく話すようにもなった。話し上手で聞き上手な彼との時間は、今ではいちばん大切といっても大げさでないかもしれない。
「早く届けなくてはと思いまして」
「あ、これ配るやつ? じゃあオレも手伝いますよ〜」
 にこ、と笑った佐鳥くんに甘えることにした。なにせ急務があるし、悪い癖は直すに限る。
「いっこ持ちますよ」
 年下にふたつも持たせるのは決まりが悪い。申し出れば、佐鳥くんは段ボールを持つ手にぎゅっと力を込めながら歩き出す。
「いやいや、オレのほうが身長高いので」
「……そういえば、そうですね。前は同じくらいだった気がします」
「成長期ですから」
 きらん、と得意げな顔がかわいい。前に『かわいい』と言ったら不満そうだったから言わないけれど。
「いま、何センチですか?」
「171センチになりました。でも前から身長は抜かしてましたよ?」
「イメージの問題です」
「じゃイメージ塗り替えてくださーい」
「前向きに善処致します」
「みょうじさんがひどい」
 よよよ、と段ボールをとったまま器用に泣き真似をしてみせた佐鳥くんに笑ってしまう。「あ、傷つくー」とくちびるを尖らせた佐鳥くんに「かっこいいイメージを持っていますが変えたほうがいいですか?」と問いかけると、
「……じゃあそのままでいいです」
 小さな声が返ってきた。そういうところがかわいい、と言いそうになるくちびるをきゅっととじる。年上風を吹かせて嫌われたくない。
「……みょうじさんは用意しました?」
「なにを?」
「バレンタイン、の……」
「チョコレート? 用意しましたよ」
「だれに渡すのかなぁとか」
「父と、総務の女性陣から男性陣に渡すんです。あっ、大丈夫ですよ、強制じゃないです」
「あ、そう」
「興味ないじゃないですか!」
 聞いておいて! という気持ちになる。佐鳥くんに淡白な反応を返されるのは慣れていない。いつも、わたしのオチもヤマもない益体のない話を楽しそうに聞いてくれているのは、たぶん努力してくれているのだろう。申し訳ない。
「興味あるよ。安心しただけ」
「そこは残念がるところでは? 『オレの分は?』とか」
「ご用意いただけるならオレはどんなチョコレートでもよろこびますが?」
「佐鳥くん、それは誰からでもいいんです?」
「いいんです」
 からりと笑った横顔に何を言おうか迷う。ふうん、誰からでもいいんだ。ただの感想のはずの一言が、頭のなかではいじわるく響いて音にはできない。でも、誰からでもいいんだ。べつに、わたしからじゃなくても。
「……っと、急ぎましょうか。このままでは先輩が」
「はいはーい」
 もやりとしたものが喉につっかえる。絞り出した逃げの一言に佐鳥くんの歩調が早まって、ひょいひょいと軽い足取りとともに背中が離れていく。彼がいまトリオン体なのを忘れていた。

 先輩のもとに戻ると、佐鳥くんが段ボールを開封していた。ブースの内側にいるけれど、列に並んでいる女学生に手を振るなどぬかりない。


 とはいえ、ほとんどの人はお菓子を手渡しする嵐山くんに注目している。気持ちはわからなくもないけど。「ここに佐鳥くんもいますよー」とほんとうに小さな声がこぼれ落ちてしまう。誰にも届かなかったようで残念なようなほっとしたような。
「おかえり、みょうじさん」
「ただいま戻りました。遅くなりましてすみません」
「んーん、まだ平気。嵐山くんが間を保たせてくれたし」
 嵐山くんと佐鳥くんを除いた三人の姿はない。嵐山くんは、一般の方と距離が近くなるイベントは、自分一人でやると決めている。世の中にはいろんな人がいて危ないから、らしい――佐鳥くんが前に言っていた。自分はいいのだろうか、とわたしは佐鳥くんと同じことを思うわけだけど、彼なら『はい』ときらめかしい笑顔といっしょに頷くのだろう。
「もらうよ」
 ひょい、とわたしの手から段ボールをうばって、佐鳥くんが開封を続ける。中身を出すのは任せることにして、わたしは元のポジションに戻ることにした。すなわち、佐鳥くんが段ボールから机上にお菓子を出し、わたしが詰め、先輩が結ぶ、という完全なるベルトコンベアー形態である。

「賢! おつかれ」
 佐鳥くんのアシストと嵐山くんの笑顔、そして先輩とわたしの指先の疲労感の甲斐あり、用意していたお菓子も全てお渡しできた。
 段ボールの片付けを始めていた佐鳥くんから仕事を奪おうとしていると、お見送りを終えた嵐山くんが近づいてきた。先輩をはじめ、他のひとはステージや観客席の方の片付けを始めている。
 佐鳥くんに用がある風だったのに、萌黄の瞳はわたしを見つめた。そして晴れやかな笑みとなる。
「よかった、会えたんだな」
「会えた?」
「あっいや……嵐山さん!!」
「……あ、わるい。賢がみょうじさんを探してたのは言わない方がよかったか?」
「言ってる!?」
 嵐山くんの瞳が、やわく細まった。――さては、わざとだ。そう思ったことさえわかっているかのように、嵐山くんはわたしにぺこりと頭を下げてから去っていった。
「……探してくれたんですか?」
 残された沈黙を破れば、佐鳥くんはぐるんと身体の向きを変えてわたしから視線を外す。
「佐鳥、くん?」
「……いるはずなのにいなかったから」
「今日は予定外のピンチヒッターだったのに、どうしているはずって思ってくれたんですか? いつ、わたしがいるって気付いたんです?」
 回り込んで視線を合わせようとすればそれも俯いて避けられる。
「それは、ステージ、から……」
「ここ、けっこう出入り口から近いところですが」
 ――こんなに遠いのに、見つけてくれたんですか?
 ひそめた声で囁く。耳が赤いですね、などと言ったら嫌われるかもしれないので言わない。
「佐鳥くん」
「ハイ、だめ、もうだめこの話おーわり!」
「ひどいです佐鳥くん。まだ終わらせないでください」
「だめです。佐鳥はまったくひどい男なんですよ。ひどい男なので終わっちゃいます」
「おや、なんてひどい人なんでしょう――これは、チョコレートはお預けですね」
「どうせオレのぶんは用意してないんでしょ?」
 はく、と言葉が詰まり。それから、勝手にゆるむくちびるに吐息をもらす。
「――いいえ?」
「え、」
 がばり。勢いよく顔をあげた佐鳥くんにぶつかりそうになりながら、上気した頬にますます表情がゆるんでいく。
「来年は、義理以外のチョコレート、私からだけ受け取ってくださいね?」
 なんどか口を開けたり閉じたりする佐鳥くんが答えを出すのを待つ。
 女の子が大好きと公言する彼のこと、わたしとほかの女の子を天秤にかけたら、もしかしたらわたしの方には傾かないのかもしれない。別にそれでも構わない。――ただ。残業続きの日も、ミスをして落ち込んだ日も、いつも笑顔で励ましてくれた彼の記憶に残りたいだけなのだ。
 あぁ、でも、しまったな。先にチョコレートを手元に用意しておけばよかった。まだ何を言おうか迷っている彼のくちに一粒ほうりこめたら――きっととても素敵なことになったのに。


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