骨片

「忍田さんにひろわれたいなぁ、なんて」
 頭をたれた向日葵を背負い、みょうじなまえは微笑んだ。物憂げに沈んだような横顔に『大丈夫か』と意味の薄い問いを投げかけて暫く、返事の代わりに紡がれた言葉がそれだった。
 なにを、と、聞く必要はない。一瞬だけ息が詰まって、どうにか悟られないように呼吸を熟した。
 手首に引っ掛けたままだった数珠を小さなポーチに仕舞い、なまえが歩き出す。ローヒールの黒いパンプスがアスファルトを叩いて、夕闇にかつりと鳴る。忍田もそれに倣った。他人様の家の玄関先にいつまでも長居するものではない。
 角をひとつふたつ曲がって、住宅街の中のコインパーキングに辿り着く。車のロックを外せば、「うわ、」とドアを開けたなまえが声をあげた。
「どうかしたか」
「いえ、大丈夫です、すみません。暑くなっていて、ちょっとびっくりしました」
「エンジンをかけておいてくれ」
 キーを投げ渡して精算機に向かう。背中越しに慣れ親しんだエンジン音が響いた。一時間三十分。赤い光が料金を告げる。五千円札が吸い込まれていく。がたん、と車止めが下がった。釣り札と領収書をいっしょくたに財布に詰め込んで車に戻る。
 ちょうど運転席から出てきたなまえが「はやいですね」と笑った。入れ替わりに運転席に収まって、なまえが助手席に移動するのを待つ。車内にはまだ真昼の暑さが漂い、それに線香のかおりが混ざっていた。

 ジャケットを脱いで後部座席に投げ、ネクタイも緩める。そうこうしているうちになまえも助手席のシートベルトを締め、黒いスカートを伸ばして膝を隠す。
「ひろってくれますか」
 ギアに手をかけると同時に、するりと声が滑りこんだ。
「残してくれるか」
 車体がなめらかに動き出す。道に出れば家々の隙間から射す西日がまばゆくて、つ、と目を細めた。
「がんばります」
 めいっぱいに風を送るエアコンの音がどうにか沈黙を繕ってくれる。なまえは流れる景色を見つめていた。
「……ひろって、そのあとは、海にでもばらまいてください」
「海か」
「すきなんです」
「それは知っている」
 知っていましたか。ほんのすこし楽しげに囁く。うっすらと背筋が粟立つのはエアコンが効きすぎているからだ。
 彼女のかけらが白波に食まれるさまが脳裏に過ぎった。それはかなしいくらい軽いから、しばらく水面を漂い波にゆられて、そしてとぷりと呆気なく沈むのだろう。――そうなればいいと思う。忍田はそれを決して望まないけれど、それでもそうなったとき、彼女が望むように別れを済ませられたら、と。
「どうしてもだめだったら」
 エンジンとエアコンの音にまぎれるような幽かな声は、けれど不思議と明瞭に届いた。もう何年も聞き続けた声だからかもしれない。これほど耳に馴染んだ声もいつの日か忘れてしまうのだろうか。この声がない日々を、まだ想像できない。したくはない。
「星にでもなりますね。それで、名前とかつけてあげてください」
「シノダマサフミ彗星か」
 態とらしく頷いてみせれば、ふっ、と吐息がかすれて笑みがおちた。
「発見者の名前ですね、そういえば」
「ああ」
 く、とからだを曲げたなまえが笑みに震えて、耐えきれないというように指で眦を拭う。拭う。ぬぐう。てのひらで顔を覆った。音なき吐息さえ、この狭い世界では手に取るようにわかる。何もかもわかるけれど――わかっているから、なにも言わなかった。

 忍田さんの名前をいただけるなんて、人によっては垂涎ものですね。ぽつり、と紡がれた言葉に苦笑を返す。慶が昔、欲しがって困った。太刀川くんらしいです。忍田の弟子の名前を紡ぐとき彼女は決まっておだやかに笑う。
 ひろいたくも見つけたくもないけれど名前だけはあげたいのだ、と言ったら、なまえはどう思うだろうか。熱はエアコンの冷気に攫われて、次の瞬間にはもうその在処がわからなくなっていた。


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