いるはずのない人と8番出口

collapsar

 壁一面を覆う薄汚れた白いタイルを、お行儀よく並んだ蛍光灯の光が照らしていた。光は四隅にかすかな影を許しながらも、タイルとわたしたちを白白と浮きあがらせている。
 ときおり、どこかから『カチッ』という音が聞こえる。止まっていた秒針がやっと動き始めたときみたいな、幽かなのに重たい音だった。
 床にはこれまた白いタイルが敷き詰められて、真ん中には黄色い点字ブロックが連綿と続いている。
 わたしはタイルの隙間を踏まないように歩いた。横断歩道の白線を渡るよりずっとかんたんだ。
 くすみながらも健気に艶めくタイルの壁を通りすがりに撫でていく。つるりとしたタイルの肌触りとほんのすこしのざらつき。目地とのわずかな段差が爪にひっかかって、たかたかと小鳥の囀るような音が鳴る。
「指が汚れるんじゃないか」
 隣を歩く麟児くんがささやいた。
 いつもと同じ、温度のない、感情が希釈された声音だった。わたしはちらりとかたわらを見る。
 蛍光灯の光に照らされてもなお暗いままの、星のない宇宙にも似た瞳はわたしをじっと見下ろして、それから天へと向かった。
 彼が見ているのは天井から吊り下げられた黄色く光る看板だろう。
 このまままっすぐゆけば、8番出口。
「わたしが、ここをよごしているんだよ」
 指先が描いた軌跡は、ほんとうに薄らとだけれど見つけることができた。そうして、代わり映えのない地下通路にかすかな変化を齎している。
「いったいいつになったらでられるんだろうね」
「……8番出口を見つけたら」
 麟児くんは簡潔に答えた。
 それがただひとつの答えだと知っている、さながら出題者のように。
 わたしと麟児くんは、白いタイルに囲まれた地下通路にいる。
 どこまでも、どこまでも続く、通路にいる。
 ときおりすれ違うひともいるけれど、彼らはみな一様にわたしたちに目を向けなかった。まるでわたしたちのことが見えていないようで、わたしたちもしかしたら死んじゃって地縛霊になってここを彷徨ってるのかな、なんて思うくらいだった。タイルにはさわれるのだから、どうもそういうわけではないみたいなんだけど。
 麟児くんはときどき、通路を引き返した。不思議なことに、引き返した先の通路は今まで歩いてきた通路とは違っていた……わたしの指先があたらしく汚れていくから。
 どうやら麟児くんは正しい道を選べているらしい。でも、どうして選べるのかわからない。
 理由を訊ねても「おまえにわからないならそれが答えだろう」とわかったようなわからないことを言われるばかりだ。
 それでもしつこくしつこく訊いてみたら「……異変があったら引き返す、異変がなければそのまま進む。そういうルールだ」と教えてくれた。
 わたしは「なるほど!」と頷いて、さっそく異変を探してみる……ざざざざざ、と音が聞こえた。
 なんだろう、ノイズみたいな……ちがう、水っ!
 通路の先から水が――タイルを這う波が押し寄せてくる。それは大雨に溢れかえった濁流に似ていたけれど、よく見れば水に混じっているのは土砂ではない。血に染まったかのようにほの赤かった。
「り、麟児くん!」
「引き返すぞ」
 あくまでも冷静な声とともに麟児くんがわたしの手を掴む。汚れた指先ごと麟児くんのつめたい手に握りしめられて、細っこい身体に見合わない力強さで引っ張られた。
 懸命に動かす脚は少し重たくて、肺と脇腹がつきつき痛む。ぜえぜえと繰り返す呼吸は耳障りで、だからやっぱり、わたしたちは亡霊になってしまったわけではないらしい。
 濁流はわたしたちを呑み込まなかった。耳鳴りのような水音も引き返せば消え失せて、赤い水はわたしたちを追ってこない。
「ほんとにへんなところだね」
 曲がり角の向こうを見つめながらわたしが言うと、麟児くんは「そうだな」と短く答えた。
 麟児くんの掌に従い、わたしたちは再び歩き出した。手をつないだまま。わたしも、彼も、自分から離さなくて、だからわたしたちは互いの温度を抱きしめたままでいられた。
 彼の掌がわたしよりもよっぽど大きいことを初めて知って、微温湯にひたるような不思議な心地に襲われる。確かにあたたかいのに、境界線上だけはわずかにつめたくて、ぞくぞくする。
 歩いて、歩いて、歩く。
 右手は麟児くんの皮膚を撫で、左手はタイルを撫でている。
 かつり、と指先がふれたのはポスターの額縁。白銀比の長方形はゆっくりと、少しずつ、大きくなっていく。膨張し続ける宇宙をかみさまが眺めたらたぶんこんな感じなんだろうなと思って、気付いた。
 これも異変だ。
「麟児くん、引き返さなきゃ」
 構わず歩き続けていた麟児くんを制するため、わたしはその場に立ち止まった。くんっ、とつないだ手が引っ張られたけれど、手が離れることも、わたしの肩が痛むことにもならない。
 麟児くんはゆるやかに立ち止まり、天を仰いだ。
 蛍光灯の白い光が彼の細い髪の毛の一本一本を透かすように煌めかせて、睫毛の影がやわらかに瞳を隠す。
 白い光に向かって立ち尽くす彼は宗教画に描かれる聖者のようだった。こぼれた吐息さえ光に染まるみたいだ。
 隣にいる彼こそが……麟児くんがわたしなんかと一緒にいてくれることのほうが、この場所で起こるあらゆる異変よりもずっと、へんなことなのかもしれない。
 わたしはそっと彼の手から逃れようと……汚れた指先が彼を汚さないようにしようとしたのだけれど、それを麟児くんの皮膚と熱が押し留める。きりりと痛いくらいに手を握られていた。
「……麟児くん、引き返そう?」
 黒々とした瞳が天から降りて、わたしを見つめる。わたしも彼の、星のない宇宙に似た瞳を見つめ返した。
 しばらくそうしていただろうか。麟児くんはそれ以上は何も言わず、ただわたしの手を握る力をほんのすこし緩めて、引き返すことを選んだ。
 正しく進むと8番出口に近づくというのは嘘ではないらしく、ときおり見かける看板の数字は徐々に成長している。
 わたしはずいぶん異変を見つけるのもうまくなり、今や麟児くんより先に進むべきか引き返すべきか選択できるようになった。えへん、と胸を張ると、麟児くんは「あまり調子にのるな」と静かに言った。


 灰色の雲の裂傷から光が溢れて梯となるように、8番出口は唐突にわたしたちの前に現れた。きざはしの先には光が満ちている。
 やっと、やっとだ。
 わたしたちは、ようやくここから出られる。
 鏡写しのようにそっくりな双子の中年男性が角の先にいたときはずいぶん肝が冷えたわけだけれど、それももうおしまいだ。わたしは期待を込めて麟児くんを見上げた。
「やっと出られるね、行こう」
「……ああ」
 と、麟児くんは頷いたのに。
 いつまで経っても動く気配がなかった。
 つないだ手を引っ張ってみても、麟児くんは曖昧な微笑――彼が隠し事をしているときに浮かべる表情のまま立ち尽くすばかりだ。
「……麟児くん?」
 呼び掛ければ、その瞳はゆっくりとわたしに向けられる。聞こえている、わかっている、と語るようなまなざしだった。なのにどうして彼はせっかく見つけた出口を前に進むことも引き返すこともしないのだろう。
「出口だよ」
「そうだな」
「8番出口からなら出られるって、麟児くんが言ったんだよ」
「そうだ。もっとも、そう書いてあっただけで、確証があるわけじゃないが」
「書いて? どこに」
「やっぱりおまえには見えていないのか」
 さあさあと、ふれることのできない霧雨みたいな声が降ってくる。
 麟児くんの瞳孔の端々に、白い光が写っていた。8番出口から降り注ぐ神の御手のような光が白いタイルに反射して、暗い宇宙の片隅に星を生んでいる。
「……あ、」
 ――ちがう。
 星は片隅に生まれたのではなくて、追いやられただけだ。
 麟児くんの瞳のなかにあるくらやみは、麟児くんのものではない。
 だって――だって、彼がいま見ているものは、わたしだ。
「…………りんじくん」
 わたしはくちびるをひらいた。
 皮膚のうすいところがひりひりとしびれて、うまくしゃべれない。でもきっと、それでも、問いかけなければならなかった。
 異変を見つけなければ出られない。
「なんだ」
「……麟児くんはうそつきだけど、わたしには、うそついたことなかったね」
「おまえがそう思うならそうなんだろう」
「おしえて。――麟児くんの目に、わたしはどう映ってるの?」
 カチッ、と秒針の音が響く。
 バチッ、と雷鳴に似た音が重なる。
 それは光さえ呑み込む黒い穴だった。
 わたしは空を穿つ黒点を見たことがあった。でも、それがいつどこで起こった出来事なのかわからない。どうしてわたしたちがここにいるのか、ここにいる前のわたしがどこにいたのか、なにひとつ思い出せない。
 そんな異変をわたしは今この瞬間まで見つけられなくて――麟児くんは、見逃していた。
 見逃すことを、選んでいた。
「麟児くん」
 彼の瞳に棲むブラックホールが蠢いて、彼の名前を呼んだ。


「潮時か」
 彼はいつもと同じ、温度のない声で言った。希釈されてしまったわずかな感情を拾うことがそう難しくなかったのは、わたしがわたしだからだろうか。それとも、わたしがわたしじゃないからだろうか。
「うまくすればおまえを連れ出せるかもしれない……と、思ったんだが」
「だめだったの?」
「ああ」
 彼はあっさり頷いた。
 降りそそぐ光のなかで、わたしは彼と相対している。彼の手はまだわたしの手を握っていた。
「七度繰り返した」
「……ずいぶん、気が長いね」
「おまえはそう言うと思ったよ。気が短いから。でも、そのぐらいは足掻かせて欲しい」
 あまりにもあたりまえのことのように言うから、わたしはすこし、息が詰まった。呼吸の仕方もわからなくなって、でもわからなくたって何の支障もないことに気づいてしまった。
「あがく、って、麟児くんには似合わない言葉だ」
「そうか? これまでも懸命に努力してきたと思っているが」
 泥濘も知らないような清かな面差しのまま言うからちっとも説得力がない。でも、彼が努力家であることを――あらゆる手を尽くすことを、わたしは知っている。それは懸命というより、執拗と形容するほうが近いけれど。
「うーん……麟児くんは、賢くて明らかって感じ」
「賢明な人間だったならこんな愚かな状況に陥っていないだろう」
 くちびるに酷薄な笑みをのせて彼が囁く。おろか。それもまた彼に似つかわしくない言葉だった。
「愚かな状況なの?」
「ああ」
「わかってるのに、七回も繰り返したの」
「試行回数としては少なすぎるのかもしれないが」
「でも、麟児くんのなかで結論は出たんでしょ?」
 わたしが問いかけると、それまで明朗に話していた声が途切れた。曖昧な微笑を浮かべてわたしを見下ろしている。
「麟児くん、」
 その名前を呼びながら、掌のうすいしわを爪先でくすぐる。生命線。微温湯にひたる皮膚と、外気に晒される皮膚の境目のような、ぬくもりとひややかさ。わたしたちは、もはや分たれている。
 それを、彼が理解していないはずがなかった。
「……これ以上は、おまえが崩れていくだけなんだろうな、とは思っている」
「くずれるって……なに、どういうこと? どうしてそんなこわいこと言うの」
「仕方ない。実際、おまえのかたちは崩れてきてる」
 言われて気がついた。彼の瞳に棲むブラックホールはじわじわとその外縁を広げている。あらゆる光を歪めて、呑み込むように。
 もしかしたら、七度繰り返すその前は、彼の瞳にはわたしのままのわたしが映っていたのかもしれない。こうしてつなぐ手も、そのうち指先の汚れごとくらやみのなかにのみこまれていくのだろうか。
 崩れていくわたしを見つめ続けて、見逃し続けた彼は、なるほどおろかだった。ばかだった。
「だからって、そんな、さぁ……、…………もっと、もっと言い方ってものがあると思う」
「――悪かった」
 薄いくちびるがひたりと閉じられて、曖昧な微笑さえ失われた。
 ただひとことに込められた意味を、わたしは過不足なく理解する。
「……許してあげない」
「そうしてくれると助かる」
 ふっと表情を緩めた彼は確かにわたしの知る麟児くんであり、そうであるのなら、わたしは麟児くんの知るわたしなのだろう――まだ。
 わたしを置いていってと言ったままの、わたしだ。
 彼は、ただしく、そうしてくれたのだろう。
「……麟児くんは、ほんとうは、わたしを置いていきたくなかったの?」
「……、」
 指先が震える。白いタイルにぱたりとなにかが落ちた。滴る水滴が砕け散る音だった。
 麟児くんはわたしの手をそっと解放し、それから、わたしの頭へとその指先をのばし――思わず、身を引く。
 たかっか、と踵とタイルが歪な拍子を奏でた。
 よく……よく、こんなものにふれようなんておもえるな。
「そんな顔をするな」
 わたしの表情なんて失われているだろうに、麟児くんはそう告げる。わたしは憮然とした心地で彼を見た。すると彼が「睨むな」と笑うから、わたしは「わからないでよ」と返すほかなかった。
「難しい要求だな。おまえはわかりやすい」
「麟児くんがわかりすぎるだけだよ」
 くちびるは微笑を湛えたまま、細く整った眉がわずかに下がる。呼吸の音がひとつだけ聞こえた。麟児くんはくちびるを薄くひらき、ほんのすこし躊躇うようにとじ、それから、微笑みとともに言葉をかたちづくる。
「おまえを置いて行けたから、どこまでも進めると思ったよ」
 静かな声が響いた。温度のない声は、わたしの鼓膜によく馴染んで、残る。
 溺れるくらい眩い光が天から降りそそいでいた。麟児くんの血の気のない頬を照らして、白白とかがやかせている。色素の薄い髪は一本一本が星のようにきらめいていた。その双眸だけが、わたしを見つめたばっかりに黒黒と塗りつぶされている。
 ――どこまでも進めると思ったよ。
 その言葉を、声を、わたしはあたまのなかで繰り返した。
 ――おまえを置いて行けたから、どこまでも進めると思ったよ。
 麟児くんはわたしに嘘をついたことがない。
 だから。どこまでも進んでくれたのだろう。進めるのだろう。これからも、麟児くんは進んでいく。
「それなら―――よかった」
 黒い瞳が細まる。それは彼が苦味を嚥下するときの仕草だった。
 わたしは手を背に回して、指先を絡め合う。つめたい指だなあと思った。
「麟児くん」
 彼の名前を、大切に、呼んだ。
「引き返して。わたしは、ここにいるから」
 秒針が動くような幽かで重たい音が響いていた。
 二度、三度と繰り返す間隔はまばらだ。
 だからこの沈黙がどれだけ続いたのか、わたしにはわからない。短かったのか長かったのか、この静寂に足る存在であれたのかどうかも。
「……おまえならそう言うだろうと思っていた」
 ためいきがひとつ落ちた。
 別れの言葉を紡ごうとして、けれどどんな言葉もふさわしいと思えなくて黙る。それすらも見透かしたように、彼は苦笑をこぼした。
「いってくる」
「……いってらっしゃい」
 彼が選んだ言葉に応えれば、黒い双眸にちかちか星が瞬いた。まばたきに伏せられた睫毛がほんの一瞬潤んだように見えたけれど、きっと気のせいだろう。彼が泣くところなんて想像もできない。
 くるり、と彼がわたしに背を向ける。それから、彼はなんてことのないように歩き始めた。かつこつと彼の踵がタイルを叩く音が白い光のなかに響いている。ほの明るく、薄暗い通路を彼は歩いていった。曲がり角に消えていく最後の瞬間まで、彼は引き返してきたりも、振り返ったりも、しなかった。
 てのひらのやわいところに爪をつきたてる。そうして与える痛みは、けれど、心臓の真横に生まれた空白がもたらすそれよりちっぽけで、なんの慰めにもならない。
 でも、それでよかった。
 よかったと、きっと彼とさいごにいたわたしも、思っていたはずだから。


   ●


 心臓の横に穿たれた穴からとめどなく血液が流れていく。掌に伝わる熱はあつく、呼吸に上下する胸骨も、かすかな鼓動も感じられる。麟児の腕のなかにいる彼女は、まだ生きていた。
 ――生きていたけれど、置き去りにした。
 彼女がそうしてほしいと望み、麟児もそうするべきだとわかっていたから。
 不可思議な夢を見た。いるはずのない場所に、いるはずのない人と一緒にいる、真白い悪夢。浅はかで甘やかな幻想。指先を握り込めばただ自分の爪が掌に突き刺さり、掴んだはずの指先の温度は思い出せない。
 白いタイルが覆う地下通路よりよほど現実味のない極彩色の空を見上げる。
 空に浮かぶ惑星は大小様々に煌めき、そのひとつひとつに文明があり社会があり人間がいるという。
 そんな星のひとつが、まさに今、崩壊しようとしていた。自重を支えきれなくなった星が割れて、崩れて、黒黒とした重力場に呑み込まれていく。
 神を失った星の末路だ。その星から神を奪い去ったのは麟児ではないが、そうなるように誘導した自覚はある。
 あの日の喪失感を知りながらそれを与える側に回るというのはなんと罪深いことだろう――けれど、そんなものどうだっていいのもそうだった。彼女が麟児が為したことを知れば苦言を呈するかもしれないが、そんなことは起こり得ないのだから。
 彼女を置き去りにした麟児は、ただ、進むだけだ。


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