睡蓮

「いつもありがとう」
 ベッドに腰掛けた那須さんは、澄んだ声でそう告げた。かすかに漂う消毒液と薬のにおいを、切り花の芳香がやわらかく包む。髪も瞳も肌も透き通るような、花に滴る朝露みたいに儚い容貌は、今はわずかに翳っていた。彼女はいつもどこか申し訳なさそうに感謝の言葉を口にする。わたしは「たいしたことじゃないんだから気にしないで」と返しながら、鞄から今日配られたプリントと連絡ノートを取り出す。
 彼女に学院からの配布物を届けるのは、中等部に入学したときからわたしの役割だった。わたしは学級委員で、彼女の家ともそう離れていなくて、だから先生としても都合がよかったのだと思う。那須さんはわたしがたまたまこの役割を振られたことを理解しているのだろう。けれどわたしはいつからか、この役割を誰にも譲りたくないくらい気に入っていた……と、那須さんにどう伝えたものか悩み、まだ言えていない。彼女の不健康を願っているみたいになったら嫌だし、わたしと彼女はクラスメイトだけど、たぶん友達ではないから。
「そうだ。ちょうど、おいしいクッキーをいただいたの。よかったら、すこし食べていかない?」
 と、那須さんは両手の指先をかるく絡めるようにして首を傾げる。那須さんは、ときどきわたしをお茶に誘う。一人の時間が退屈なのかもしれないし、配達させているのがやはり申し訳ないのかもしれない。動機はなんであれ、断れば彼女が傷つくことを知っているから、大きく頷いた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……お茶、淹れようか?」
 彼女の部屋には湯沸かしポッドと小さな冷蔵庫が置いてあり、ちょっとしたお茶くらいならいつでも飲めるようになっている。那須さんは「今日は調子がいいから大丈夫よ」と微笑んで、ベッドから降りた。聡明な彼女は自分のからだのことで無理はしないだろう。
「冷たいのがいい?」
「手間でなければあたたかいものがいいな」
「わかった。紅茶にするね」
 やわらかく澄んだ声はいつもおっとりと優しげで、控えめな微笑は彼女がこれまで歩んできた人生を思わせる。彼女はこの時季ほとんど家から出られない。保健医が言うには、苛烈な陽射しは彼女のわずかな体力を容赦無く食い散らかし、命にも関わる事態になるのだという。けれど、彼女からそういった――その病弱なからだに対する――弱音を聞いたことはなかった。その華奢なからだで、彼女はどれだけの苦痛に耐えてきたのだろうと、わたしはときどき考える。そしてそれを決して明かされることのない、クラスメイトという立場のことも。ボーダーが擁する技術を使えば、病弱な彼女も人並み以上に動けるようになるらしいのだけれど、それで学院に通うことはできないとも聞いた。それは戦うための技術としてあり、今はまだ日常を生きやすくするためのものではないから。
「みんなは元気?」
 茶葉を選び終えた那須さんが何気ない調子で言った。わたしは「元気だよ」といつものように返す。今日は彼女と同じボーダーに所属している小南さんだけお休みだったけれど、クラスメイトたちは怪我も病もなく健やかだ。那須さんは「よかった」と微笑み、マグカップにお湯を注いだ。ふわりと紅茶の香りが届く。
「どうぞ」
「ありがとう」
 マグカップと花柄の缶に入ったクッキーが小さな座卓に置かれる。那須さんはベッドにもたれるような位置に座り、微笑んだ。体調がいいのは本当らしい、と思いながら熱い紅茶に口付ける。ミントのような甘い清涼感が心地よく、品のよい香りが広がる。那須さんも満足のいく味だったのか、ほっと頬を緩ませる。
「……那須さんは、睡蓮って見たことある?」
「ええ、あるわ。どうして?」
「いま星輪にも咲いてるなって、ふと思い出して」
「まあ。本当に? 訊いたことがないけれど……どこにあるの?」
 思いのほか関心を得られたことに驚きつつ、わたしは頭のなかにとある蓮池を思い描いた。
 校舎の裏手には深い池がある。木立に隠れたそこへ辿り着くには、半ば藪に覆われた獣道を通らなければならない。緑の濃いにおいがする道だ。伸びた枝に制服を引っ掛けないよう気をつけながら、蛇行する道を慎重に歩く。夏の陽射しは木々に遮られて和らぎ、水捌けの悪い土はふかりと湿っている。人が立ち入らない森は好き勝手に草花が育ち、白い花を咲かせた草はわたしの腰ほどまで高さがあった。学院の敷地内ではあるものの、管理は放棄されている。鬱蒼とした緑の守りを抜けると、ようやくその池は現れる。普段は、何の面白みもない静かな池だ。おそらく貯水池か何かとして造られたのだろうと思う。わずかに漣を立てるだけの退屈な水面は森の暗闇を映し、淀んだ色をしていて――けれど夏の間だけ、モネの絵画になる。
「素敵ね」
 なるべく詳細にその睡蓮について語れば、ほう、と感嘆の息をついた那須さんが言った。写真も何も撮っていなかったことを後悔する。おそらく那須さんは、あの道を歩いてモネの絵画には会いに行けない。彼女があの池のほとりに佇めば、きっと本当に綺麗なんだろうけれど。
「でもどうしてそんなに素敵な場所が放置されているんだろう……」
「人喰い池だからかな」
「え……」
 ぱちくりと長い睫毛を瞬かせた那須さんに、わたしは苦笑しながら「よくある学校の怪談だよ。七不思議とかのたぐい」と告げる。星輪女学院にまことしやかに囁かれる物語によると、学院のどこかにある池で恋惑う少女が入水してしまった、という。少女は池そのものと化し、やがて恋する少女の前にどこからともなく湧きあがり、自分とおなじ存在を仲間へと迎えるようになった。だから恋するものは池のそばを歩いてはならない。もちろんそんなことが現実に起こるはずはないし、そもそもあの池で人は死ねない。睡蓮が咲く以上、あの池はそう深くはないからだ。
「……気を悪くしたらごめんなさい。あなたはどうしてそこに?」
 そうっとふれるように問われて、わたしはその気遣いがなんだかくすぐったくて笑いながら「わたし、鼻がいいの」とあまり人には言わない秘密をなんてことのないように告げてみる。
「歩いていたら睡蓮の香りがしたから、探してみただけだよ」
「睡蓮の香り……どんな香りだったかしら……」
「池に咲いてるものを嗅ぐのは難しいからね……いい香りだよ。よかったら明日、蓮池から一輪摘んでこようか」
「そんな、いいのよ、わざわざ……」
「わたしが那須さんにあげたいだけだよ。ほら、その、いつも手ぶらで来ちゃってるし、たまには。お茶とクッキーのお礼も、しなきゃだし」
 わたしが言葉を重ねると、那須さんはくすりとくちびるを緩ませて笑みを零した。その微笑みは、睡蓮の花がひらく様によく似ていると思う。多くの人から忘れ去られた水面に咲くあの美しい花。忘れられたままにしていたいような、こんなに美しいものがここにあるのだと知らしめたくなるような、複雑な気持ちになるもの。でも、あの睡蓮がこの部屋の景色を知ることは、ひとまず、よいことのように思える。那須さんが「ありがとう」と笑ってくれたから、わたしは「楽しみにしていてね」と返した。


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