かわいいひと

「奈良坂くんの彼女、めちゃくちゃ美人だった!」
 その声は決して大きくはなかったけれど、なぜか昼休みの喧騒にも負けずわたしの耳にするりと入り込んだ。思わずそちらを見ると、クラスメイトがひそひそと話している。きゃらきゃらと鈴の鳴るような声は楽しげに奈良坂くんとその彼女の様子を語っていた。ふたりで雑貨屋さんから出てきて、奈良坂くんは恭しく扉をあけてやり、些細な段差も手をとってエスコートしていた、とか。ええ、なにそれぜったい付き合ってるじゃん、けっこうすきだったのに、とクラスメイトが言う。
「どーしたの?」
 気がそぞろになっていることを察したのか、お弁当を食べていた友だちがこてりと首をかしげる。それからすぐにわたしの視線の先に気づいて「奈良坂って彼女いたんだね」と呟いた。
「そう、みたいだね」
 返しながら、視線をお弁当に戻す。そう、奈良坂くんには彼女がいる。そのとってもしあわせな女の子の名前はみょうじなまえという。わたしのことだ。わたしと奈良坂くんの交際はだれも知らない。そうしようとしたわけではなくて、なんとなく言いそびれてここまできてしまった。訊かれてもないのにわたしが奈良坂くんの彼女です、と主張するのもなんだか変なかんじだし。
 ……でも、わたしは、まあそのすこしくらいはかわいいところもあると思いたいけれど、めちゃくちゃ美人というほどではないし、クラスメイトたちがわたしだと気づかないはずがない。それに、わたしは雑貨屋さんに奈良坂くんと行ってないんだけど、な。
「あれ? なんか落ち込んでる?」
「ううん」
「もしかして、奈良坂のこと好きだった?」
「……そういうわけじゃないけど」
 ちく、と胸が痛んだ。うそだ。奈良坂くんのことはすき。そうでなければお付き合いなんてしない。けれど、落ち込んでいないのは本当だ。奈良坂くんと雑貨屋さんに行った『彼女』の正体には見当がついている。たぶん、奈良坂くんのいとこの『れい』さんだろう。どことなく奈良坂くんに似た、儚げで透きとおるような美貌の女の子だ。写真でしか見たことがないけれど、ふたりが並んで歩いているとそれはさぞ絵になるのだろうと、思うような。
「そう? でも納得だな~、奈良坂ってモテるけどいっつも告白断ってるじゃん。美人な彼女がいたわけだ」
 いいえ、そこそこかわいいぐらいの彼女がいます。

「奈良坂くんって、かっこいいね」
 2番線の階段の影が、わたしと奈良坂くんの定位置だった。行き先違いの列車を見送り、ふと隣を見上げて呟く。奈良坂くんは「急になんだ」と静かな声で言った。すん、と抑揚の薄い表情も合間って怒っているようにも見えるけれど、わたしは彼が照れているだけだと知っている。
「思ったことを口にしただけ」
 さらさらの栗色の髪に、日に当たるとあざやかになる緑の瞳。すっと通った鼻梁、シャープな輪郭と、淡い微笑み。すらりと長い手脚はどんな服も着こなしてしまう。大きく筋張った手と落ち着いた低い声はいつもわたしに安心を与えてくれる。
 それに対して、わたしはどうだろう。身だしなみには気を遣っているけれど、奈良坂くんの輝かんばかりの美貌に釣り合っているかと言われれば、首を傾げざるをえない。噂していたクラスメイトたちに、いえいえ奈良坂くんの彼女はこのわたしですよ、って言いたかったけれど。でも、信じてもらえないと、思ってしまった。
「……、」
 奈良坂くんは、その薄いくちびるをひらきかけて、しかし言葉を紡ぐことなくとざしてしまった。胸の奥がちくりとする。うなじのあたりがぞわぞわとして、思考がぼんやりとしびれた。
「ならさかくんが、モテるのも、わかるなあ」
 これはきっとよくないぞ、と思ったけれど言葉は止まらなかった。ちゃんとわかっているのに。奈良坂くんと雑貨屋さんに行ったのはいとこさんで、奈良坂くんと付き合っているのはわたしで、奈良坂くんのいいところは見た目だけじゃなくて、奈良坂くんにとって大事なのもわたしの見た目じゃないって――わかっているのに。
「――みょうじ」
 いつもとおんなじように低く静かな声が囁く。すこしかさついた奈良坂くんの手がわたしの指先にからんで、きゅっと握りしめた。
「みょうじは拗ねていてもかわいいな」
「えっ」
 頭上から降り注いだ言葉が信じられなくてぱっと顔をあげれば、奈良坂くんはあさってのほうを見ていた。そういうことをされると、身長差のせいでわたしは彼の表情を確かめることができなくなる。でも、短く切り揃えられた髪は赤い耳を隠せていない。
「な、奈良坂くん、いまなんて?」
「思ったことを言っただけだ……もう言わない」
「言って、ほしいな。わたし単純だから、それだけで機嫌なおるよ」
 自分で言っておきながら、なんてちょろいんだと思う。でも、本当のことだった。心臓はやっぱり痛かったけれど、それはうれしくて胸が張り裂けそうとか、そういうたぐいのものに変わっている。そしてそんな言葉に乗せられて口を開く奈良坂くんもまあまあちょろくて、それを知っているのはわたしだけで――そう思うといろんなことがちっぽけなものになる。
 耳元で囁かれた言葉を反芻しながら、このかわいい奈良坂くんはだれにも知られたくないから、やっぱり秘密のままでもいいかもしれないな、と思った。


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