やさしくなれない、雨

 赤らんだ眦とすれ違い、彼女の名前を呼ぼうとして、やめた。はくりと酸素がこぼれる薄い唇を、二宮匡貴はやわく噛むようにとじ、濡れた睫毛と泣き腫らした頬をまぶたの裏に思い浮かべる。
 自分の言葉の悉くは彼女を傷つけるばかりだと、もういいかげんわかっていた。
 なにもしないこと。言葉をかけないこと。見なかったふりをすること。彼女が二宮に求めているのは、きっと、それだけだ。

「そいつのことは放っておけよ」
 雨が、黄色い傘を叩いている。その影から自分を見上げる瞳に燃えるような色を見つけて、二宮は己の失言を悟った。
 通学路の端に蹲るようにしゃがんでいた同級生。彼女の背後には雨でぐずぐずに崩れた段ボールがあり、そのなかには仔猫がいる。白と黒の、タキシードを着たような柄の、目もあいていないような、生まれたばかりのちいさないきもの。なのに毛皮はぺしゃりとへたれ、もはや鳴き声をあげる余力もない。
 彼女の傘は仔猫に与えられ、赤いランドセルにはいくつもの雫が伝っている。二宮が靴のなかで指をまげれば、泥水がぐちゅりと嫌な音を立てた。
 仔猫は死ぬんだろうな、と二宮の冷静な頭は告げていて。それから、クラスで面倒を見ていたうさぎが死んでしまったとき、彼女が泣いていたことを思い出して。彼女が、また泣くんじゃないかと思って。だから――だから、彼女にそれを見せてはいけないと、そうかんがえたから。


 でも、どうやら自分は言葉を間違えたらしい。燃えるような瞳から透明な雫がこぼれた。けれど、彼女は、なにも言わなかった。あるいは罵声すらも厭わしかったのかもしれない。崩壊しかけた段ボールを掻き抱くように仔猫を持ち上げ、雨水をばしゃばしゃと跳ね上げながら駆けていく。
 黄色い傘と、二宮だけがそこに残った。ふっ、と指先から力が抜けて、ひらりと落ちる。家から持ってきたふわふわのタオルは雨と泥によごれて、あのちいさないきものを包んでやることは、できなくて。とつとつと、雨の音だけが、きこえた。

   *

 最悪だ。最悪、ほんとうにそう、さいあく。
 指先が凍ってくだけてしまいそうなくらい冷たい水が、とまって、また出る。白々しいくらいに明るい蛍光灯は鏡の向こうからでも目が眩む。その光がいつもより突き刺さるように痛いのは、瞳にたまった塩水のせいだ。泣いたせい。泣いたところを、見られた。ぜったいに見られてしまっただろう――二宮匡貴に。
 なにかを言いかけていた。涼やかな目元はほんのひととき驚きに崩れて、憎らしいくらいかたちのよい唇がひらかれるのがみえて。なにもききたくなかった。あの冷たい眼差しが、言葉が、いつでもあまりに正しいと知っていたから。耳を塞ぐ代わりにカツコツと足音をたてて、逃げるように顔を俯かせた。いや、ようにじゃなくて、ために、か。
 鏡のなかのわたしが笑う。へたくそな笑顔だった。すっかり冷たくなった手で頬をぱちぱち叩き、てのひらで目元をおさえて熱を奪う。涙はとまっていた。それでも、この腫れが引くまでは、誰とも顔を合わせたくない。……次の講義は、できれば出ておきたかったけれど。出席が重要な教授だ。けれどそういう講義にかぎって、友達の誰もとっていないのだからままならない。
「……最悪」
 言葉を繰り返すたび、あばらの間からすかすかと冷たいものが通り抜けていく。最悪なのは、彼に出くわしたこと、ではなくて。二十にもなって大学のトイレで泣いているわたしのことだ。
 たぶん、よくあることだった。教授に割り振られたグループワーク、だれがなにをするか、責任の所在、あるいは意識の不一致、乖離。このさほど大きくもないキャンパスのそこかしこで起こりうる、些細なこと。そんな小さなちいさな刺が深々と刺さって、抜けなくて、痛くて。じぶんの弱さに泣いてしまうことが、ほんとうにいやだ。だってそれは、あんまりにも、弱いことだとおもうから。
『弱いやつが前に出るな』
 ――わかってるよ。
 何度もなんども言われた言葉に胸の奥で悪態を吐く。どうしてあなたにそんなこと言われなくちゃいけないの。そりゃああなたよりは弱いけど、弱いから、弱いなりに……それでも、どうしてわたしはこんなに弱いままなの。のぼせあがるような怒りがすっと冷えて劣等感に変わる。あの低い声が鼓膜にこびりついている。ずっと、そうだ。その眼差しは、言葉は、いつもわたしを貫いていく。
 弱いのなんてもうわかっているからほうっておいてほしいのに。
 二宮匡貴は、小学校のころの同級生だった。三年生と四年生のときだけ同じクラスで、あまり話したことはない。幼いながらも整った容貌と優秀な成績、大人相手にも不遜な態度をみせる彼はスクールカーストのてっぺんにいて、おいそれと声をかけられる男の子ではなかった。だからすっかり忘れていてもおかしくないけれど、わたしは今に至るまであの男を覚えている。なにせ同じ大学の同じ学部の生徒で、同じ界境防衛機関『ボーダー』に所属する戦闘員だ。なにもかも忘れようにも、彼は、わたしにかまおうとする。なぜか――よわいから、か。
 奥歯を強く噛んでいることに気付き、そっと顎の力を抜く。鏡には相変わらず泣き腫らした女のひどい顔があって、それを惨めだと思う自分のことすら、どうしようもなくいやだった。


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