手を繋ぐだけの話

 みょうじなまえは寒がりだ――ボーダー本部の一角に宛てがわれた彼女の部屋で、村上鋼はひとつあたらしい情報を記憶していた。
 給料をもらってからいちばん最初に買ったんだ、と前にみょうじが言っていた低反発マットレスは寝心地がよい。なめらかな肌ざわりの毛布を敷いて、電気毛布と羽毛布団を重ねている。さらにその上から毛布が一枚。冷えやすい足元は湯たんぽが抜かりなくあたためていた。空調が万全に整えられた部屋はそもそも寒さを感じないのに、みょうじとしてはこれでも足りないらしい。
「寒くない?」
 ベッドを背もたれに本を読んでいたみょうじが顔をあげる。視線は合わなかった。彼女は重ねられた寝具を気にしている。いっそ熱いくらいの布団のなかで腿をぎりぎりとつねりながら、村上はなるべく呼吸を控えて「さむくないよ」と返した。
 寝つきの良い自分がこれだけ好条件が揃っていても起きていられるのは、ふわりと香るシャンプーのにおいに暴れる心臓のおかげだ。
 付き合い初めてほんの数日。まだ手も繋いでいないのに彼女のベッドで眠るのは(村上も健全な18歳なので)どうかと思う。彼女とふたりきりの部屋で『ねむいな』と呟いたのは村上だけど。
『つかっていいよ』
 さらり、と紡がれた言葉は微塵も緊張していなかった。そもそも部屋にふたりでいることを、友人の期間が長かった彼女は大して気に留めていないらしい。信頼あってこそだとはわかっているものの、意識しているのは自分だけだと突きつけられると苦いものがあった。
『荒船くんとの個人戦、記憶したいんでしょう?』
 ストイックなところがかっこいいって言ってたよ、と今結花から聞かされている身からすれば頷くしかない。わかっていますとも、と胸を張った彼女がかわいくて、そんなつもりはなかったけど格好つけたくもなった。だって初めてできた恋人で、ずっとすきだったひとだ。
 ――すきになってほしいのだ。
 友達としか思っていなかった男に告白されて戸惑うみょうじに、村上なりに誠意を尽くして向き合い、頷いてもらえたのが数日前。そういえばその夜もぜんぜん寝つけなかった。うれしくて、まるで夢みたいなことで、せっかちな春が心臓に芽吹いたようだった。
 でも、かんたんに関係を進めることはできない。困ったような顔で『なんで?』と訊いた彼女の声も覚えているから。村上が望めば手を繋ぐことくらい許してくれるかもしれないが、ふれればもっとほしくなるのはわかっている。もしかしたら彼女の気持ちを置き去りにしてしまうかも。たやすく部屋に迎え入れてくれる信頼を裏切りたくない――嫌われたくなかった。すきになってほしいと思う以上に、いまより悪くなることが恐ろしくて仕方ない。


 ならないだろ、と言ったのは荒船で、ならねぇだろ、と言ったのは影浦だ。ともだちの言葉は信じたいけれどこればっかりは難しい。
「眠くないの?」
「……ん、」
 穏やかな声にちいさく応える。村上の置かれたこの状況を知れば、同級生たちも寝れるわけないだろと同情してくれるだろう。いや、そもそも彼女といるときに眠るなんて勿体ないことできない。それだけのことかもしれない。心臓は相変わらずうるさいし。寝具を気にするみょうじの横顔をぼんやりと見つめた。
「寒い?」
「……いや、むしろあつい」
 疼くような熱は寝具のせいばかりではないけれど、正直に伝えた。みょうじが膝にかけていたブランケットに手を伸ばしたのが見えたから。今更ブランケットの一枚くらい誤差だが、確か今日の彼女はスキニーを履いていた。隠れていたほうがよい。
「鋼くんって暑がりなの?」
「たぶん、みょうじよりは」
 むらかみくん、だと長いから。それだけの理由でみょうじは付き合う前から村上をそう呼んでいた。
『こうくんって呼んでいい?』
 そのときにはもう自覚していたから、なんとか顔に出さず『いいよ』と返すのが精一杯で、みょうじの名前を呼んでいいか訊くとか、そういうことはできなかった。呼ばれ慣れた響きであるはずなのに、彼女が紡ぐと心臓が暴れまわる。
「……わたしが寒がりすぎる?」
「すぎる、ってことはないと思うけど」
「布団減らす?」
「……いや、起きるよ」
 こっそりとつねった腿はもう痛みも鈍かった。けれどおかげで眠気も下心も薄い。
 ばさり――ひと思いに布団を剥がせば滞った熱が散っていく。うっすらと寒気が忍び寄ったのは汗をかいたせいだろう。汗? 洗濯を申し出るべきか、でも村上から言うのは気持ち悪いだろうか。正解がわからない。
「……なに?」
 視線をずらすと、ばちり、と目が合った。ベッドの傍らに座り込んだままの彼女が、村上をじっと見つめている。
「……朝、とか」
「うん」
「ぜんぜん布団から出られなくて」
「寒いもんな」
「うん、だから鋼くんがあっさり起き上がってびっくりしてた」
「部屋も十分あったかいだろ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
 まだ布団のなかにいる爪先をそろりと引き抜き、やわらかなラグの敷かれた床に降ろす。はい、と手渡されたのはベッドで横になるにあたり脱いだジャケットだ。端末の画面を一瞬だけ明るくしてみれば、思いのほか時間が経っている。任務は入っていないけれど、あんまり遅くなると鈴鳴支部にも心配をかける。村上と彼女のことを知っているオペレーターなら察してくれるだろうが。
「ちょっと残念」
「なにが?」
「……見たかったなぁって?」
「なにを」
「……お」
 ぽしょり、と囁かれた言葉に首を傾げる。いつのまにか逸らされた視線。合わせることは難しい。村上の方が高い位置に座っているから。そっととなりに腰を下ろしてもまだ遠かったけれど、俯いた顔を覗き込めば問題ない。
「なにを?」
「……ね、ねがお……」
「見たことなかったか?」
「ある、けど」
 村上はどこででも眠れる。荒船が自分のサイドエフェクトを肯定してくれたときから、そうなるように訓練したから。五分だけの瞑想にも似た睡眠から目覚めたとき、彼女がいることも多かった。
「……うん、よく考えたらぜんぜん貴重じゃないんだけど」
 ――こいびとっぽいでしょう?
 もにょり、と囁かれた声はラグにやわらかく落ちた。逃げるように逸らされた顔に傷つかなかったと言えば嘘だけど。そんな痛みは鼓動に紛れる。恋人っぽい。彼女がそれを望んでくれたことがどうしようもなくうれしい。
 ラグのうえに置かれた手のひらはちいさかった。それを見てしまうともうだめで、手の甲に指を這わせれば震えが伝わる。つめたいのは寒がりだからだろうか。
「鋼、くん?」
「その……こっちのほうが、よくないか?」
 掌を重ねそっと指を絡めた。きゅうと握りこめばつくつくと心臓が痛む。それで辛うじてこれが夢ではないことを理解した。ぴたり、と。接する肌が柔い。
「な、なるほど……」
 いつもより硬い声に顔をあげればさらりと艶めく髪に埋もれるような赤を見つける。うん、と頷いて――やっぱりこの部屋は暑いなとうるさい鼓動の隙間に思った。


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