上書き保存

「鋼くん、もしかして寝てない?」
 廊下を歩いていれば後ろから声をかけられる。振り向けば、さっきまで他の人たちに囲まれていた彼女の姿。見つからないように出てきたはずなのに目敏い。
 トリオンの体になったのは昨日の夕方。それから今まで、眠っていないのは確かで。でもこの身体は睡眠不足を表に出さないはずで。
「……何でわかったんだ?」
「疲れた顔してる」
「トリオン体だぞ」
「それでも」
 昨日は任務入ってなかったよね、どうかしたの。問いかける声が優しくて、それが何だか後ろめたい。
「どうだっていいだろ」
 ついぶっきらぼうな言葉になってしまったのは、眠っていないせいか。それとも口の悪い友人の言葉を知らないうちに学習してしまったせいか。
 このサイドエフェクトはとても便利だけれど、融通が利かない。副作用と名付けた人はよく分かってる。これは、人が思うほどいいものじゃない。自分でコントロールできないところがいかにも、だ。
「恋人にも言えないこと?」
「……言えない」
「……ごめん、今の言い方は何だかずるかった」
 謝る必要なんてないのに、むしろ謝るのは自分の方だ。ついこの間、恋人になってくれた彼女はこちらが心配になるほど真面目で、優しい。何でも自分が悪いと思わなくていいのに。責任を負わなくていいのに。そんな風では損をする。少し、嫌なことを思い出す。忘れたいのに忘れられない。
「まだ起きていたい?」
「……うん」
「じゃあ、コーヒー飲もうか」
 行こう、と手を引かれる。まだ慣れないその感触に、温もりに、大人しく従う。こういうことだけを覚えていれたらいいのに。都合良く忘れることが、覚えないことができたら。

 自動販売機の前、ブラックの缶コーヒーを渡される。ひんやりとした感覚。財布を出そうとすれば牽制された。奢る、と胸を張る様が何だか可愛かったので出しかけた財布をしまう。
「あっちに座ろう」
 ちょうど空いていたベンチに二人で並んで座る。無機質な素材のベンチに座れば見えるのは壁。表情のない、淡々とした風景が広がって、でも視界の隅に彼女がいる。拳一つ分だけの隙間、その距離感は、多分、恋人だから。温もりが近い気がして、何だかそわそわする。寝てないせいだろう。
 彼女の手にはカフェオレ。爪を切ったばかりなのかプルタブを指先が掠めている。その手から缶を奪って、ぷしゅりと開けた。彼女の元に缶を返して、自分の分も開ける。
「ありがとう、……ふふふ、」
「……何かおかしかったか?」
「ちょっとご機嫌斜めのときでも優しいのは、本当に鋼くんだなぁって思って」
 何がツボに入ったのかはよく分からないが、何だか機嫌良く笑っているので良かった。本当のことを言えばブラックコーヒーはあまり好きではないけれど、大人しく飲む。やっぱり苦い、おいしくない。トリオン体は眠気を感じないけれど、生身にカフェインは届いているのだろうか。
「何かあった?」
「別に、何もないよ」
「ずっとその体でいるんでしょう?」
 それは、だって。きっと心配するだろ。目の前の彼女も。来馬先輩たちも。寝た様子がないことを見せれば心配する、何も悪くないのに迷惑をかける。だからトリオン体でいれば、誰にも気付かれないと思ったのに。
「本当に、どうして分かるんだ?」
「鋼くんのことだから、かな」
 そういうことを恥ずかしげもなく言う彼女に、自分は惚れている。そのことがよく分かるのは、心臓がうるさいから。生身に限りなく近い感覚が、ちょっとだけ煩わしい。心臓が早くなって、でもかろうじて頬に熱が集まるのだけは避ける。息をゆっくりと吸って、吐いて。それと一緒に、何かがほろりと崩れていった。
 閉じていた何かが開く。抑えきれなくなって、ぽろぽろと零れ落ちていく。
「……眠りたくなかったんだ」
「起きていたかった?」
「ああ、覚えたくないから」
 強化睡眠記憶。眠ったらこの記憶は整理されて、効率的に記録される。良くも悪くも、良いも悪いも、分け隔てなく。
「……何か、あったんだ」
 その声に少し気になっているような感情を見つけたけれど、だからといってそれを言おうとは思わなかった。余計に心配をかけるだけだし、何よりも弱い自分を見せたくない。彼女にだけは。
「……ただ、覚えていたくないだけなんだ」
「……」
「でも、寝たら覚えるだろ」
 小さな頃からずっとそうだ。嫌だと思ったことは、一晩経っても頭の中に居座る。寝たら忘れる、なんて素敵な言葉だろう。自分の人生には無縁の言葉だ。
「そっか……」
 目を伏せた彼女に「ごめんな」と囁く。余計なものを背負わせて。こんな自分を見られたくなかった。でも、多分、彼女が声をかけてくれたとき、気付いてくれたとき、嬉しかったのだと思う。大人しく手を引かれるぐらいには。逃げ出そうと思わないくらいには。嫌な奴だな、とぼんやり考える。
 隣の彼女はどんな顔をしているだろう。嫌な事も余さず覚えていると言えば、大抵の人は引きつったような顔をする。同情、または後ろめたさ。そんな表情の彼女は見たくない。その表情を引き出すのが自分だったとしても。
「じゃあさ、とりあえず今から十分仮眠しよう」
「……?」
「起きたらさ、楽しいこといっぱいしよう。それで、上書き保存」
 何を言ってるんだ彼女は。ぱちり、と目を瞬かせたときに、何か光が波打った気がした。隣に座っている彼女が笑みを浮かべて自分を見ている。どう? と、少し誇らしげにも見える、けれど。
「上書き保存、」
「あれ? できない? 何か間違えた?」
 おろおろと狼狽える彼女がごめん、と、でもいい考えだと思った、を繰り返す。いい考えだと胸を張りたかったのだろう。これで安心だよと、そう言いたかったのだろう。
 だからって、上書き保存。それはいくらなんでも。
「間違い、というか……ふっ、ふふ、おまえはオレのことをパソコンかなにかだと思ってるんじゃないだろうな」
「思ってない! 流石に!」
 ふ、と漏れた息を我慢するのが苦しい。くっくっ、と勝手に込み上げてくる笑いに怒ったのか、脇腹に衝撃。生身だったら手痛い手刀が入ったけれど、トリオン体だから痛くない。むしろ彼女の方が痛そうに手をひらひらと揺らしている。
「大丈夫か?」
「大丈夫、だけど」
「そうか、よかった……にしても上書き保存はないだろ」
「そ、そっか……」
「うん」
「じゃあどうすればいい? 忘れられないなら、違うことを覚えるしかないなって思ったんだけど」
 一応ちゃんと考えた上での発言だったらしい。そういうやつだということは分かっていたけれど、けれど大真面目に『上書き保存』なんて言い出すとは思わなかった。
 自分のこの感覚を、感情を心底理解できる人は、同じサイドエフェクトを持つ人だけなのだと思う。けれど、彼女の言葉に、こころの奥がじわじわと温かくなる。目の端が滲んだのは、別に、痛かったわけではなくて。
「……楽しいこと、か」
「うん、楽しいこと」
「例えば?」
「えっ、……、デートでも、行きます?」
「なんで敬語」
「な、何となく」
 耳が赤い、そのことに気付いて口角が上がる。――それを自覚して、自分の単純さに重ねて笑う。
 楽しいこと。やりたいことならある。ひとつだけ、いいことも悪いことも全部吹き飛んでしまいそうなことが、彼女としかできないことが。
「……じゃあちょっと、目を閉じてくれるか」
「? うん」

 素直に目を閉じる。それが信頼だったら嬉しいし、同時にちょっと申し訳ない。頬に落ちた睫毛の影、まじまじと見るのは初めてで。どこか不思議そうな顔に笑みが漏れる。少し背を丸めて、柔らかそうな頬にそっと口付ける。
「……鋼、くん?」
「上書き、な」
 唇を離して耳元で囁く。嫌なことを思い出したらこっちを思い出せばいい。それでいいかと思えるので、自分はとても単純だ。
「……今、何した?」
「……内緒」
「鋼くん?」
「オレ、寝るから。十分経ったら起こして」
「鋼くん!?」
 追及を求める声を無視して、換装を解除する、途端に襲ってくる眠気。コーヒー、全然効いていない。隣のあたたかさに誘われて、その肩に擦り寄る。疲れた目元に柔らかさとあたたかさ、一気に眠たくなってくる。
「……寝た?」
「うん、寝てる」
「……起きてるでしょう」
「ちょっとだけ、静かにしていてくれ、これを覚えたら、起きる……」
 微睡む中で、おそるおそる髪を梳く彼女の指先を感じた。それも覚えよう。どうしようもない体質だけれど、それを覚えていられるなら、少しは楽しいから。


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